5―6 黒妖犬
家に戻った俺はベッドに横になった。体質的に夜には眠れなくなった俺はベッドに臥したまま、身体だけを休めた。朝になって、眠くなり始めた身体を起こす。食堂で用意された朝食を食べて学校に向かう。人間の生活サイクルに合わなくなった身体は日中にはまったく機能せず、午前中の授業はほとんど眠っていた。それこそ、学校に行っている意味なんかなく何をしに来てんだと宗像先生に代わって新たに担任になった教師に注意を受け、昼休みにはクラスメイトの陰口が堪えなかった。
どうやら水瀬さんを中心に変な噂が出回っているらしく、星宮や口無、担任教師である宗像先生を殺害した犯人が俺だということになっているらしい。すっかり誤解が蔓延した教室内は俺を犯罪者として見なしていて、近寄ってくる者は誰一人いない。とは言え、いつもの日常と変わらないことは愚か、俺が殺していようがいまいがあまり変わりはないので釈明する気もなかった。
それでも教室内にずっといるのも居心地が良くなかったので昼休みの間に教室を出た俺は誰も寄り付かなくなった旧校舎の空き教室で眠ることにした。
湿気臭い教室内には乱雑に放置された机があって、俺はその机を向かい合わせて、その上で横になった。ふとこんな硬い机の上で眠るくらいなら保健室のベッドで寝れば良かったと思ったが、もう起き上がるのも怠かった。少しして午後の授業が始まるチャイム音が遠くから聞こえた。新校舎に戻る気は更々なく、俺がいようがいまいが誰も気にはしないだろう。
寒い。それ以上に眠気が勝った俺は身体を丸めながら眠りについた。それから俺が目を覚ましたのは下校時刻を知らせるチャイムだった。ちょうど午後六時。部の活動が停止になっているため、校舎に残っている生徒は俺以外まずいないだろう。
「……ぎしぎし」
じゃあ、廊下から微かに聞こえてくる軋みは何だろうか。古い板張り廊下がぎしぎしと軋む音。それが少しずつ近づいてきている。足音。居残りがいないかどうか、教師が見回りに来たのか。だったらそれはそれで厄介だなと思い、俺は机の影に隠れた。だがこちらに向かってくる音は人が歩いてくる音にはどうしても聞こえなかった。
「人じゃない……」
ぎしぎしと二足歩行の足音はドタドタと複数の足音に切り変わる。折り重なる足音は騒がしく、人間の足音ではないことはすぐに判った。四足歩行。動物の足音。こちらへ殺到する足音がしたかと思うと、ドアが勢いよく押し開けられた。
生きた人間のニオイを嗅ぎつけてきたかのようにやってきたのは八匹の黒い犬。ニ、三十キロはあるだろう大型犬の風貌は、立ち耳で短毛で、何より赤い眼をしていた。
「黒妖犬」
どの犬にも首輪がついているが、飼い主は見当たらない。捨てられ、野良となった犬は涎を垂れ流し、荒々しい呼吸を吐き捨てながら滲み寄ってくる。人間の気配を感じ取った獣からは逃れられないと俺は観念して机の陰から姿を晒した。
俺の姿を認識した黒妖犬が一際鋭い眼光を向ける。
俺は欠伸をした後、教室内に入ってきた亡霊の犬を睨み返した。
ガルルルル、と吠えたてながら床を歩き廻り、机に飛び乗った黒妖犬たちは狂犬病にでもかかったかのように怒り狂っている。さしずめ、生前の飼い主に酷い仕打ちでも受けたのだろう。だとしてもその怒りを他者に向けてくるのは心外だ。
でもいいよ、と俺は腰に隠しておいた退魔の剣を鞘から引き抜いた。憂さ晴らしの続き、負傷した左腕のリハビリがてら、一匹残らず殺してやろう。
そんな俺の心意気も露知らず、獰猛な犬の疾走が始まった。壁際に立つ俺に向かってくる三匹の犬。正面から向かってくる犬は咬みつこうと鋭い牙を見せ、机から机へと飛び移りながら二匹の犬が左右から鋭い爪を振りかざす。そこにはかつて人間社会に依存して生きていた犬の面影はない。凶暴な野犬の動きはとてもじゃないが眼では追いつけないほど俊敏で、死んでなお霊になったままこの世を彷徨い続ける獣の恨みが驚異の身体能力に拍車をかけていた。
だがそんな動きは通常時の眼に限った話だ。同じ赤でも俺の眼は一級品。自画自賛するほどの余裕がある時点でこいつらは俺の敵じゃない。そして犬の眼が赤いのは単に怒りや憎しみで瞳の色が燃えるように視えているだけだ、と開眼させた霊眼が告げている。実際、死後の怨念に囚われた獣の動きは霊眼内では十分の一ほどにのろかった。
前方、一匹の犬の顔面目掛けて、俺は机を蹴り上げた後、左右から襲い掛かる二匹の黒妖犬を一振りで丁度よく開いた口の端を裂き切った。後方、教室内の壁を伝いながら常軌を逸した動きで迫りくる二匹の黒妖犬を返り討ちに遭わせながら、机越しに犬の顔面にナイフを突き刺し、残りの三匹も手短に始末した。この間、一秒半の出来事だった。
「死んだ奴が死に物狂いで襲い掛かってくるなんて……、お前の差し金か、谷屋獅狼」
一足遅れてやってきた眼鏡をかけた少年に語り掛けたが、応答はない。狂信的なヴィーガンだとは認知していたが、まさか愛玩動物の霊に憑りつかれているとは思わなかった。