インタールード③ 死の所在③
僕のすぐ傍でじゃれ合う二人が馬鹿みたいなやり取りをしている。まるで恋人みたいなそのやり取りを見ていると、死にたいと今でも考えている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。でもこれから僕はどうしたらいいのだろう。自業自得とは言え、母親を殺し、無関係の命を葬った自分に生きる価値はないように思える。たぶん人殺しは普通の人間が迎えるような死に方はできなくて、ろくでもない死に方をするんだろうと漠然とながらそう思う。
ああ、駄目だな、僕は。
あんな綺麗な女性に言われた助言すらまともに守れず、もう死について考えてしまっている。でも何のために生きていこうかなんて考えても結局はみんな死ぬのだから死ぬために産まれてきて死ぬために今を生きているとしか僕には考えられない。食べることも、寝ることも、快楽を得ようとする行為もすべて、死ぬための暇つぶしでしかなくて……。
だったらすべての行為は徒労だ。無意味だ。
ああ、どうしてそんな寂しい考えになってしまうのか。僕は僕なのにそれが自分でもよく分からない。その考えに至った発露がどうしても僕には見つからない。見つけられない。
でも今はその死にたいという感情も衝動までとはいかない。
車道を走る車のヘッドライトが眩しい。今は飛び出そうとは思わない。あてもなく歩く。行動には出さないけど、死にたいという思いはやっぱり消えない。僕の頭はそれしか考えられないようになっている気がする。でも昔の僕、小さかった頃の僕はそんなんじゃなかったはずだ。死にたいだなんて微塵も頭にはなくて、小学校が終わったら友達と遊ぶことばかり考えていた……気がする。
そうだ、自分は死とは無縁の存在だと、死ぬことなんて想像もしなかった。それなのにどうして今はこんなにも死にたいのか。昔の記憶を辿ってもやっぱり原因が分からない。学校で何か嫌なことがあったわけでも、自分の人生に失望したとかでもない。幼馴染の水瀬さんは可愛いし、お母さんが作る料理はどれも美味しかった。死ぬ理由なんてどこにもなかったはずなんだ。
だからやっぱりこれはどこかの国のよそ者が持ち運んできた死に至る病原菌としか言いようがない。だから現実的な話、精神安定剤を飲めば死にたいは少し和らぐはずだ。でもこんな時間帯にやっている精神科の病院はないだろう。……とその前に早急にどうにかしないといけないことがあった。
ズキリと右小指の切断部に痛みが走る。黒い布で圧迫された小指の断面図を見る。皮膚や骨は勿論、指の関節を動かす腱や神経、血管諸共、重要な組織は綺麗に切り落とされていた。とは言え早く指の血行を回復する手段を講じなければ、指の組織は完全に死滅するだろう。だが、接着するにも切断された指がなければどうにもならない。かと言って指を探しに戻るのもめんどくさいし、たぶん探したところで見つからないだろう。
信号が赤から青に切り替わり、横断歩道を渡る。
とりあえず家に帰ろう。母さんの遺体をそのままにしておけない。そして家に帰ったら警察を呼んで、自首しよう。……でも証拠がない場合でも自首は成立するのだろうか……、これから先、僕はどうなるんだろうか……分からない。
でも人を殺した罪を抱えながら生きていくことが僕に課せられた罰なのなら僕は死にたいという気持ちを背負いながら生きていかなければならないんだと思う。
それがとりあえず僕が生きていくための理由……。その理由がろくでもないものにしろ、理由があるということは確かな生きる指針となって、うまく歩けなかった足取りを軽くさせていく。戻ろう、帰ろう、早く早く――。
「落とし物ですよ」
横断歩道を渡り終えた時、僕は誰かに肩を叩かれた。どこかで聞いたことのある脳に響く不思議な声音。まるで人じゃない生き物が人の言葉を真似て喋っているような声を聞いて、僕は振り返った。
背後には背の高い男が立っていた。190㎝以上ある背丈に、不吉な紫煙色の長い髪。手足は異様に長く、骨格は細くがりがりで、何より不気味だったのは盲目みたいな白い双眸と、ニヒルな笑みをたたえた貌だった。
「コレ、あなたノ指、ですヨネ?」
差し出された左手。骨と皮しかないような手には切断された僕の小指があった。
「どうしてこれを」
「細かいコトハ置いといて、さア、早く受け取って、さア」
「あ、ありがとうございます」
「ハイ。それトもう一つ……、大切なモノヲお忘れで」
「……?」
男は小指を受け取ろうと伸ばした僕の手を握り締めたまま離さない。そのまま男は身を乗り出して僕の耳元に顔を近づけてきた。
「死にたいという気持ちヲお忘れなあなたニもう一度コノ言葉ヲ授けます。マリシャスアジテーション」
「……っ!?」
その異国のような言葉を聞いて、心の奥底に沈んでいたモノが掘り起こされた。思えば、この男とは初対面ではない。聞いたことのある声、見たことのある風貌、特徴的な姿をしているのに今の今までどうして忘れていたのだろう、僕はこの男と過去にどこかで会っている。だから彼と会うのはこれで二度目だ。初めて会った時もこんな風に彼は不自然なく気兼ねなく僕に触れてきて、死にたくなる言葉をかけてきた。
「ああ、ああああ、あああああああ――っ」
誰の叫び声だろう。
僕の脳内は麻薬中毒者のように一つのことしか考えられなくなっている。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。今度は絶対にこびりついて離さない死にたいが僕の頭を蝕んでオカシクさせる。
けれど同時に僕は安堵した。ずっと分からなかった死にたいと思う原因がようやくこれで分かったのだから。僕は病気じゃなかった。僕はおかしくなかった。それだけで僕は――ああ、どうしようもなく死にたい。
理想的な死は何だったか。きっと僕には転落死がお似合いだろうと思っていたが、死ねるのなら何でもいい。
どこからか、サイレンのような音が近づいてくる。ハハハ、と僕の無様な死に様を見て不気味に笑う男の声がある。でもそんな不吉な声もカシャカシャと人の不幸を写真に収めるケータイのシャッター音でかき消されていった。




