4―11 クンティラポンティ⑤
十メートルほどあった間合いはクンティラポンティの長い髪で潰された。赤く長い髪が美鈴の肢体に絡みつく瞬間、「皆・陣・烈」彼女は三つの真言を発した。どこから出てきたのか、美鈴の前に隔てられた三つの新たな錫杖が音を鳴らす。その音は風が吹いて揺らぐ水みたいに波紋して、赤い女霊は壁際まで吹き飛ばされた。俺は霊眼を発眼して、美鈴が何をしたのか、理解する。あの波紋は波動。風圧のような霊力の波動によってクンティラポンティは吹き飛ばされたのだ。
「やっぱり名を冠された霊はそこらの雑魚幽霊とは一味違うね。普通だったら今ので完全に消し飛ぶんだけど……いいよ、いいねぇ、この程度で祓われちゃうくらいならそいつの未練の尺度もたかが知れているってものさ」
「ke-keke、ke―――――っ!」
「赦さないって? でも私も一応、生者だからさ、あなたが私を殺したらあなたは悪い霊になっちゃう。まあ、あなた如きに私が殺されるわけないんだけど、あなたが後々悪霊にならないように今ここで祓ってあげる」
美鈴は左手首に巻かれているマカライトのブレスレットに触れた。よく見れば、変わった造りをしたブレスレットだ。マカライトは紐に通されておらず、リングホルダーで紐と宝石が一つ一つ繋ぎ止められている。それはきっとすぐに取り外せるようにするためで、美鈴はリングホルダーで繋がっていた一つのマカライトをブチリと外した。
「UBAUbaubau」
壁にもたれかかっていたクンティラポンティは立ち上がり、長い爪を伸ばして「baubaubaubaubaubaubau」を連呼しながら、美鈴の様子を窺っている。
「あー、死なせずに奪うって? じゃあ自殺願望がない私は何を奪われるんだろうね。クンティラポンティ、あなたはそうやって自殺する者を止めてきたんでしょう。そして口無音もそのうちの一人だった。でも、彼は今まであった自殺願望者とは違った」
「kiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!」
ヒステリックに叫ぶ女の声は何をやっても自分の思い通りにいかない未練の嘆きに聞こえた。
「そう、口無音が死のうとする原因は外的要因ではなく、内的要因。あなたは彼が死のうとする度に、自殺に直結するものを一つ一つ奪ってきた。最初は外的要因者と同じく自殺の願望を奪った。だけど、彼はまた飛び降りようとした。そこであなたは次に感情を奪った。それでも彼はまた死ぬために車道に飛び出した。だからあなたは彼を助けた後に最終手段として意志を奪った。不幸になりたいという被虐および自壊の衝動を。……だけど昏睡状態にまでさせて生かしておいても死人と変わらない。だったら本人が望むままに死んでいった方がよっぽど幸せだ。あなたもね」
そう言い切った美鈴は手に持っていた一石のマカライトを解き放った。邪気の念が込められた翠の霊珠が指先によって弾かれる。
光線のごとく、あるいは弾丸のごとく。弾け飛ぶ翠の一射が闇を切り裂く。文字通り、防ぎに入った赤い髪は悉く霧散し、霊珠はそのまま魂の在り処である心の臓に直進する。その一撃に立ち塞がるは長い爪。普通に考えれば無意味な抵抗に終わるだろう。だが搔き消されたのはクンティラポンティの爪ではなく霊珠であるマカライトであった。
「あら、奪われちゃった」
美鈴は嬉しそうに言った。クンティラポンティは彼女の攻撃を薙ぎ払える確信があったのだろう、すでに反撃の体勢に移っていた。クンティラポンティが獣のような四足歩行で美鈴に差し迫る。二度目の急接近。間合いに入ったクンティラポンティが凶暴な爪を振り下ろす。
「霊具による気の波動、念の投射。初歩的な除霊手段では祓えない相手にならちょっとだけ見せてあげてもいいかな……って、視えるわけがないんだけどね」
ズジュんッ――!
美鈴が羽虫を振り払うような仕草をすれば、凄まじい高温の蒸気によって肉が焼かれ、潰されるような音がした。
美鈴が何をしたのか、霊眼をもってしても言葉で言い表すことは難しかった。目で認識してもソレが何なのか、頭にはその情報がないから説明しようがない。ただ例えるなら蠢く黒の物体、変化し続ける黒の水銀とでも呼ぼうか、……おそらくソレは物質の世界にはないモノで、ソレは視ることも触ることもできない世界の話を持ち出されて、そこにあるんだよと言われているような出鱈目な事象。人が生まれる前からずっと、そこにあり続けた完全無欠で絶対的な――。
「イデア。私が扱う霊能力はそれに近しいモノ。こちらの世界は見かけにすぎない摸造で成仏できない霊もまた同じ。どれも不出来な影でしかないから視えないし、触れたら簡単に壊れちゃう。出来損ないの摸造は本物の実在には敵わないってことだよ」
実際に何をされたのか、情報は完結しないまま。分かっていることは黒のイデアによって弾き飛ばされたクンティラポンティの右上半身がなくなっていることだけ。
「もう終わりにしよう、認知も感知も察知もできない相手には興味がない。ばいばい、さよなら~」
美鈴の右腕が上がる。宙を掴むように広げられた掌。ドアノブを捻るように手首がぐぎぎと回りそして、小鳥でも絞め殺すかのように美鈴は力強く握りしめた。
わにゃわにゃとアメーバのように空間を流れていた黒のイデアが明確な殺意を持ってクンティラポンティに襲い掛かる。何もできずにクンティラポンティがソレに呑み込まれる直前、時間の流れは僅かながらにして止まった。
時止めによって完全に置き去りになったクンティラポンティ。対峙する美鈴もそれは同様で両者の間に割り込んだヘレナと同じ眼を宿しているからか、俺はその異界の時間軸による介入には何ら影響がない。
ヘレナは迫りくるイデアを片手で封殺する。彼女の身体に纏っている黒い靄は冥界の加護だろう。その靄が消える時、止まった時間も動き出すはずだが、それよりも先に動き出したのは紛れもなく美鈴だった。
「足通……一の神通、小賢しいわね」
眼で追うこともできない瞬間移動。すでに美鈴はヘレナの背後……廃ビルの屋上に立っていた。
「さっきぶりだね、シフォンティーヌ。また会えたこと嬉しく思うよ。でもそんなことしちゃっていいのかな? 死神は生者と死者、どちらにも公平な立場でいないと」
「随分と横柄ね。これだから生得的な才覚を持つ退魔師は……物事を早急に解決しようとするところはあなたの悪い癖よ。そして死者を一方的な力で愚弄するのは間違っているわ」
「えー、そうかな? 私には悪霊が生者の生き死にに関与することもお門違いだと思うけど。そして悪霊が関わるとろくでもないことが起こるのも目に見えている。あなただって経験則上、分かっていることでしょ」
「……」
「この女霊に残されている選択は成仏するかされるかのどちらか二択で、自ら成仏しないのなら私が祓う。とまあ、あなたが祓うのなら私はお役御免だけどさ」
見下ろしながら高らかに告げる美鈴にヘレナは沈黙したまま、赤い髪を震わせながら立ち尽くす女の霊を見ていた。身体の半分近くを失ったクンティラポンティは声を頼りにビルの屋上に立っている美鈴を見上げた。
「ワタ、シは、納得、デキない。私の子、どうして、うれしそうニ死んデ、イッタ? ワタシの、大切な、宝物はドウシテ……、ワカラナイワカラナイワカラナイ、私、ナニカ、悪いこと、した、デスカ? ワタシは……只、タダ、ただ、あの子に幸せになって、もらいたカッタ、だけナノに」
沸々と、赤く長い髪が蛇のようにうねり狂い、彼女を纏う霊気が跳ね上がる。
「クンティラ、自ら成仏すればあの世で息子とまた会えるわ」
「会い、たい」
隣に立つヘレナが諭すように言うと、クンティラポンティは確かに「会いたい」と口にした。が、完全なる成仏を望むことはしなかった。
「デモ、あの少年はうちの子と同じ……母親にはワタシと同じ目に遭ってほしくない。ダカラ――」
「やめなさいっ クンティラ!」
ヘレナの制止を振り切って、クンティラポンティは片腕を失いながらも蜘蛛のようにビルの側面を這いながら屋上にいる美鈴に迫りゆく。
はっきり言って、無謀な抵抗であることは誰がどう見ても分かり切っていることだ。それはクンティラポンティ自身もそう感じていたはずだろう。
美鈴は右腕を厳かに上げた。ビル全体には黒い皺のような切れ目が入り込んでいて、クンティラポンティが屋上に到達する前にその手は握り潰された。
ぐしゃしゃしゃ。
深夜に轟く乱暴な解体工事。ビルの倒壊による凄まじい轟音と衝撃。一つの建物が悲鳴を上げてジェンガのようにガラガラと崩壊していく。その様を呆然と見ていた俺はヘレナに腕を引っ張られ、安全な場所まで避難する。
数年、数十年とずっと未練を残したまま彷徨い続けていたクンティラポンティの執念は刀童美鈴という圧倒的な力によって呆気なく終わった。
建物ごと木っ端微塵にクンティラポンティを祓った美鈴は神通力で浮遊していた。美鈴の真下には無残に崩れ落ちたビルの残骸と消えかかっているクンティラポンティの首だけが残っている。
「……今度コソ、絶対に、、、死なせ、ナイ……」
最期にクンティラポンティはそう告げて、この世から姿を消した。




