1―5 夜想⑤
酷い夢を見た。
嫌な夢を見た。
怖い夢を見た。
悍ましい悪の夢を見た。
「はぁ、はァ、アァ……」
右手に走る人肌の感触。人を刺し殺した生々しい血肉の感触。どこに行ってもどこへでも纏わりついて離れない赤い衝動。眠ったところで関係ない。深層意識にも追いかけてくる殺意の情念は夢の中でも俺を人殺しへと変貌させる。
だけど、分かったことがあった。
それは本能とは別の、ずっと抱いていたあの感情が決して殺意なんかじゃないということ。
見知らぬ人間を殺しても心に残るのは罪悪感だけだ。
だけど、殺してしまった時に思ったのは、自分が殺した強い怒りよりも「もう一生会えないんだ」という喪失感と悲しみ。
殺してみて初めて分かることがある。
そうだ、俺は星宮小夜にどうしようもないほどの恋情を抱いている。
「……はっ」
ベッドの傍らで椅子に座りながら眠っていた七麗が飛び上がるように目を覚ました。
「おはよう、七麗」
「おはようございます、琉倭さま。やっとお目覚めになられたのですね」
「今、何時だ」
「朝の六時半です。混乱されるかも知れませんが、昨朝、少し眠ると言ったきり、お昼になっても夜になっても一向に目覚めなかったので」
「そうか……丸一日眠っていたわけか」
「左様でございます。琉倭さま、お体の方は大丈夫ですか?」
「心配ない。今日は学校に行く」
「畏まりました。お食事の用意はできているので、身支度を済ませたら食堂にお越しくださいませ」
礼儀正しくお辞儀をすると七麗はドアノブに手をかけた。ぎい、とドアが軋む音がして彼女は医務室を後にした。
ベッドから立ち上がった俺は医務室の洗面台で顔を洗い、自室へと向かう。洋館と和館が併設された造りをしているこの邸宅は一つの渡り廊下で繋がっている。俺の自室はその渡り廊下を渡った洋館にあり、東に面した洋館には広いホールがある。そのホールを取り囲むように応接室や客間、邸宅に逗留している使用人の食堂が隣接されている。
アールヌーヴォーの雰囲気が漂う階段を上る。俺の自室は洋館二階の角部屋で、桑名家の長男と椎名家の次女、周防家の長女と次女が同じ階で暮らしている。何度も顔を合わせるため、雇用主と使用人の立場だが、彼らとは親しい関係を築けていると思う。
自室のドアを開けて、クローゼットに掛けられているズボンと白いシャツを着て、学ランを羽織った。洋館のホールへ降りた俺はホール西側の扉を開けて、渡り廊下を通る。畳廊下につながる扉をあけて、和館へ直結する廊下を渡る。夜月家の者が生活している和館には長い間、夜月家に仕えている刀童家の者が駐在しており、ちょうど三階の道場で朝稽古をしていた刀童家の者がずらずらと階段から下りてきた。紺の道義を身に纏った武士の一族が集う中で、一人の男が俺に話しかけてきた。
「おはよう、夜月家の端くれ。学校生活はどうだい?」
額に汗を滲ませながらも、爽やかな声音で嫌味だけを言ってくる俺と同い年の刀童一夜は黙っていれば、誰もが美男だと言わしめるほどの素材を持ち合わせている。そして、自身も美少年だと自覚しているため、外見を褒められても謙遜しない。外見ともども中身もいい性格をしている。それは一夜に限った話ではない。刀童家は青い空、青い海を彷彿させる透き通った蒼の瞳が特徴的な一族であり、男も女も皆、鳥肌が立つほど秀逸な顔立ちをしている。
「別にどうもしない」
「そうか。その左手の怪我はどうした?」
「あんたには関係ない」
「ふん、相変わらず血気盛んなガキだな。せいぜい呑気にそこらの低俗共と和気あいあい、よろしくやってろよ」
そう言い捨てて俺の横を通り過ぎる武士の一族。その中で、ぽん、と軽く肩を叩いてきた刀童美鈴は「気にしなくていいからね、あとでこっぴどく叱っておくから」と柔らかな表情で手を振りながら立ち去った。
「気になんかしてないさ、お前らが何を言ようと」
始めから相手になどしていないと食堂へと足を運んだ。食堂前には給仕としてエプロン姿になった七麗が俺を待っていた。
「七麗、給仕はいらない。疲れてるだろ、身体を休めた方がいい」
「いえ、少なくとも琉倭さまが登校するまでの間、専属メイドとしてのお務めはしっかりと果たさせていただきます」
「なら好きにしろ。だけどな、食事のお世話までさせていたら、自分の用すら満足にできない赤子と年老いと変わらない。昔の貴人は楽すべきところを履き違えている」
「ですがそれが私たちメイドの存在意義ですから。少なくとも私は琉倭さまのお世話ができて嬉しく思います」
あまり感情を表に出さない七麗が優しく微笑みかけた。
「……白々しい。そんな簡単に笑みをこぼすな。安く思われるぞ」
「ふふ、照れ隠しとして受け取っておきますね。ささ、沙月さまがお待ちかねております」
促されるように言われて、扉を開けた。食堂の真ん中に設置されている長いテーブルには既に朝食の準備がされていた。その食卓にはもう一人、おそらくずっと俺が来るのを待っていたのだろうセーラー服の少女が椅子に腰を下ろしていた。同じ紫がかった黒の髪。気品ある顔立ちをしたその少女は十四歳にしてはいささか大人びている。その風格は次期当主として母に躾けられてきた所為か。だが、俺の前では普通の妹として年相応の振る舞いを見せてくる。
「おはよう、お兄さま」
「ああ、おはよう、沙月」
俺の声を聞いた沙月は安堵の表情を浮かべた。
「身体は平気そうですね」
「ああ」
「それは良かった。わたしもお兄さまと一緒にご飯が食べられて嬉しい。昨日は朝も夜も一人だったから」
「なら母さんと一緒に食べればいいじゃないか」
「お母さまはお忙しいもの。きっと執務室で食事を済まされているはずだわ」
「そうか。だけど、食事時くらい家族団らんの時間を設けてもいいと思うけどな、まあ、そうなったら俺は邪魔になるけど」
もぐもぐと朝食を食べ始めた沙月の手が止まる。
「……そんなことないと思うよ」
「いや、あるだろ。母さんは俺が怖いんだよ。だから俺を遠ざけて一番離れた部屋に俺を置く。どうせ自分に危害が加わらなければ、俺がどこで何をしようが母さんにはどうでもいいんだろう」
「どうでも良かったら、医務室で眠り続けているお兄さまの様子を見に来たりなんかしないよ」
「……嘘だ」
「嘘じゃないよ。わたしがこの眼でしかと目撃しましたもん」
「七麗。お前もそこに立ち会っていたか?」
俺の後ろに立ち尽くしていた七麗に問いかける。
「はい。沙月さまがおっしゃられた通り、ご当主様は心配そうに魘されていた琉倭さまの額に手を当てておりました」
「そうか……」
「もうっ。なんで七麗にも確認を取るのっ。お兄さま、わたしのことぜんぜん信じていないでしょ」
「いや、そういうわけじゃないけど、もう三年くらい、母さんとは顔を合わせていないから。……母さん、元気にしているか?」
「うん、相変わらず綺麗な、ままだよ。あ、綺麗なままっていうのは綺麗なママっていう意味じゃないからね。いや、まあ、すごい美人だけどさ」
「はいはいどうでもいいよ、そんなこと。沙月も大人になればあれくらい……って今でも十分綺麗だけど……それよりこのミネストローネ、美味しいな。七麗が作ったんだろう、おかわりが欲しい」
「畏まりました。ただいまお持ちいたします」
飲み干したスープの器を隣にやって来た七麗に手渡す。ミネストローネのおかわりが来るまでの間、食卓に並べられたバターロールにソーセージを挟みながら食べる。卵焼きも俺好みの甘み加減で七麗は完全に俺の好みを把握している。流石に朝食にしては量が多いとも思ったが、昨日何も口にしていない空腹状態の胃袋には最適な量である。……と思っていたら妙に静かだ。
向かい側に座っている沙月に目をやると、彼女はミネストローネの器とスプーンを持ったまま、固まっていた。
「どうした、もしかして口に合わないのか?」
「違います。お兄さまが変なことを口走ったのがいけないんです。おかげでスープすら喉を通りません」
「生憎、失言をしたつもりはないんだが」
「自覚がないならもう結構です。昨日話せなかった分のお兄さま成分はしっかり補給できましたから」
反発的な態度とは裏腹に満足げな言い方をするので、どんな反応をすればいいのかよく分からないが、悪い空気ではないのでそのまま放っておいて、食事を再開させる。少しして器にたんまりと盛られたミネストローネが運ばれてきた。
「七麗、入れすぎ」
「申し訳ございません。たくさん食べていただきたくてつい」
器の縁まで並々に注がれたミネストローネが零れないように負傷した左手を器に添えた時、食べるのを中断していた沙月と目が合った。彼女の関心は包帯が巻かれた左手に向けられる。みるみると彼女の表情が曇り出す。
「どうされたのですか、その怪我は」
「別にどうってことないよ。……学校で割れた窓ガラスに触れたら指が切れただけだ」
「だけどそんなに包帯を巻い――」
「皆、大袈裟なんだよ」
この話にはそれ以上深追いするな、と俺の言い回しと雰囲気を察してか、利口な妹は口を謹んで、それ以上、詮索することはしなかった。
「ごちそうさま」手を合わせて礼を言って、立ち上がる。
「俺はもう学校にいく。沙月も遅れるなよ」
「分かってるよ。お兄さまも気を付けて。最近、何かと物騒ですし、病み上がりなのですから」
「ああ、沙月も気をつけろよ」
言って食堂を後にした俺は居間へ移動する。登校の支度を済ませて、玄関口へ向かう。七麗もその後をついていき、俺がローファーを履き終えると、学校指定の鞄を手渡した。それを受け取って、玄関の扉を開ける。
「琉倭さま、今日があなたにとって素敵な一日になりますように、どうかお気をつけていってらっしゃいませ」
「相変わらず、回りくどい挨拶だな」
毎度の挨拶に呆れて、俺は屋敷を後に、学校へと向かった。
最後までお読みいただきありがとうございました。