1―4 夜想④
待ち焦がれていた朝の光が頭上に降り注ぐ。どうやら今晩は衝動の飢えを凌いだらしい。目の前にはナイフで切り落とされた枝木が落ちている。殺意の捌け口になった幹は何度も俺の手によって刺し殺された痕があって、今にでも倒壊しそうなほど剪定されていた。これが人間だったらもっと酷い惨劇になっていたことだろう。微かに当惑しながら視線を落とす。左手は血で真っ赤になっていたが、出血の勢いは弱まり、手汗のように滲ませていた。とうに痛みの感覚はなく、手を動かしてもその感覚がない。対して右手には確かなほとぼりと何百回、何千回、何万回と寝る間も惜しんでひたすら突き刺した感覚だけが残り続けている。だけど、この行為はその場凌ぎでしかなく、殺人衝動をやり過ごしたに過ぎない。
「……家に帰らないと」
朝の白い光が赤く濡れた手を眩しく彩らせる。幸い、朝が早いということもあって、家に戻るまでの間、人に会うことはなかった。
屋敷に戻ると使用人である二条七麗が玄関口で俺の帰りを待っていた。
「琉倭様、昨夜はあれほどお早めにお帰りくださいと申し上げたはずですが……一体どこで何をなさっていたのですか?」
俺の我が儘を、夜間に外出する俺の習性を特に咎めるわけもなく寛容的な態度で見逃してきた彼女も流石に今回は見過ごせないようで、負傷した俺の左手を見て、顔には出さないが、心配しているのは何となく伝わってくる。
「別に俺が何処で何をしようが七麗には関係ないだろ」
「ではこれまで琉倭様が仕出かした数々をご当主様にご報告いたします」
「そんなことをすればお前もこの屋敷を追い出されるぞ」
「構いません。それで困るのは琉倭様でしょうから」
「……」
確かにこれまで自分が好き勝手やってこれたのは二条七麗の尽力があってのものだ。他の者に変われば、これまでの生活はおそらくできなくなるだろう。だが、どこで何をしていたなんて、口が裂けても言えない。ましてや生まれつき殺人衝動を抱えているなんて誰が理解できるというのか。
「悪いけど教えられない」
「教えられないほど、悪いことをしていたのですか? てっきり私は巷で噂になっている通り魔殺人事件にでも巻き込まれたのかと思いましたが……」
そう勝手に解釈した七麗の視線はずっと俺の左手を見ている。俺は負傷した左手を後ろに隠し、それ以上の詮索をさせないようにする。
「畏まりました。これ以上の深追いは致しませんので、とりあえず医務室で手当てを施しましょう」
「いい。これぐらい一人でできる」
「何をおっしゃいますか。症状を見る限り、相当な怪我だとお見受け致しました。私はあなたの専属メイドなのですからお気を遣わず扱き使いくださいませ」
「なら早く、この手をどうにかしろ」
「はい。畏まりました」
俺の強い命令に七麗は喜ぶような表情を見せて従順に応じた。そのまま医務室に案内された俺は白いベッドに腰を下ろした。
七麗は机の椅子をベッドの近くに運び、黒を基調としたロングスカートの裾を丁寧に持ち上げながら腰を下ろす。
「さあ、隠している左手を私に見せてください」
促されるようにいまだに滲み出てくる血で真っ赤になった左手を差し出した。
「失礼します」
その手を触診した七麗は清潔なタオルで優しく血を拭いていく。そして傷口の状態を確認した七麗は眉間に皺を寄せた。
「この様子だと筋肉と神経が切れていますね」
「だろうな、手の感覚がまったくない」
「とりあえず局部麻酔を施した後に、縫合致します。傷口は深いので、大きく切り開く必要はありませんが、これほどに多量の出血でよく意識を保てたものですね」
「……意識? 意識を保つためにやったんだ」
「それはどういう……」
「いい。ただの独り言だ。それより早く済ませろ。学校に間に合わなくなるだろ」
「ですが今日は大事を取ってお休みなされた方がよろしいかと」
「うるさい、俺に口出しするな。俺は俺が行くと言ったら行くんだ。俺は俺のしたいように……生きたくは、ない」
「?」
「違う、俺はありのまま生きちゃだめな、人間なんだ」
「琉倭様、どうなされたのですか?」
「黙れっ、ただの独り言だって言ってるだろっ!」
右手でうまく働かない頭を覆い隠す。その間、七麗は何も口にせず、器用に手だけを動かして淡々と傷口を縫い合わせていく。十五分ほどして手当てを終えた彼女が口を開いた。
「琉倭様。傷口の手当てが終わりました」
「ああ……ありがとう。それとごめん、今日は学校を休む。このまま少し眠るから一人にしてほしい」
「畏まりました。ご当主様には私から適当に言っておきますので、ご安心ください」
俺は右手で顔を隠したまま頷いた。七麗が医療器具を片付け、椅子から立ち上がる音がした。
「七麗……」
「はい、何でしょう?」
「悪い、酷いこと言った」
「いえ、そんなことありません。男の子なのですからしおらしくならず堂々としていればよいのです。よしよし」
立ち去り際に俺の頭を優しく撫でた後、「では琉倭様、本日はゆっくりお体をお休めください」と労わるように言って医務室を後にした。
一人になった俺はベッドから立ち上がり、洗面台の蛇口を捻る。喉奥までへばりついた血を何度も水でゆすいだ後、机に置いてある薬瓶を物色する。
「あった……」
目当ての薬は睡眠薬。翌朝まで目を覚ますことなく、よく眠れるようにと処方量を超えた錠剤を口に含んで飲み込んだ。
ゆらりと疲れた体をベッドに寝かす。
瞼をゆっくりと閉じた。
いっそのことこのままずっと目を覚ますことなく、死んでいればいいのにと思いながら。
△
ぶしゃりと色鮮やかに血飛沫が舞う。
紛れもなく俺に覆い被されたそいつのものだ。
刺す度、血の粒が勢いよく飛び散り、俺の顔を赤く汚す。
見知らぬ女。顔はよくわからない。だってそんなのどうでもいい。
辺りには女の白く細い指。抵抗する術を完全に失った女は俺のされるがまま。
欲望のままに。本能のままに。
殺すことに夢中になっている俺は対象がどんな奴かなんて気にも留めずに柔く張りのある乳房をナイフで剥ぎ取った後、心臓を何度も突き刺し、対象が絶命してもなお、生身の人間を刺し殺す感覚に陶酔していた。そう、まるで小さい頃に戦隊ヒーローの変身ベルトを買ってもらった時の興奮に近しい。
何度突き刺したことだろうか、蜂の巣みたいになった傷跡はやがてアジのたたきみたいにその女の上半身はズタズタにぐちゅぐちゅに人のカタチを成してはいなかった。
さて、今度はどうしてやろうか。
そのスラッとした細長い脚はさぞかし斬り心地がありそうだ。その断面から出る赤い果汁はさぞかし甘美なものだろう。
だが、それよりも前に個人を決定づけるその人物の象徴である素顔を拝見するのが先だ。そいつはどんな顔をしている。綺麗な死に顔か。それとも苦悶に満ちた醜い死に顔か。
ナイフ一本で散々細かく刺し殺した相手を見た時、脳が震えた。
赤みがかったふわふわで柔らかな茶髪。
開いたヘーゼル色の瞳孔。
なのに、どうしてか、自分の意志とは関係なしに、逆手で握ったナイフが躊躇いなく振り下ろされる。
やめろ、やめろ、やめてくれ、そいつは俺の――。
星宮小夜――恋焦がれた女の綺麗な顔に鋭利なナイフの切っ先が突き刺さる。
やめろやめろやめろ。
耳が斬り落とされる。
鼻がくり抜かれる。
眼球にナイフが突き刺さって飛び出していく。
いやだいやだいやだ。
綺麗な顔が俺の手によって酷く醜いものに成り下がる。
開いた口の中にナイフが刺し込まれて、口の端がバッサリと裂かれる。
血塗れになった顔に何度も刃が振り下ろされた。
最後までお読みいただきありがとうございました。