1―2 夜想②
九月になった。月の初め。夏休み明けの登校は思っていた以上に億劫で、暦の上ではとっくに秋だというのに夏の蒸し暑さは鳴りを潜めることなく、教室内に滞留している。
暑さに頭がやられた俺は机に突っ伏したまま、予鈴が鳴るまでの間、瞼を閉じた。昨夜、夜の街を散歩して、家に戻ったのは午前三時頃。睡眠時間は四時間未満。今日も夏休みであれば昼頃まで眠っていたことだろう。
流れ出る汗が肌にまとわりつく不快感と、冷房の効きが悪い教室内はとてもじゃないが眠れる環境下ではない。おまけにクラスメイトの談笑は外で鳴き続ける蝉同様に騒がしい。
「おはよー。夜月くん」
あぁ、親し気に挨拶してくる元気な少女の声がした。一か月ぶりの会話。言葉を返すのも面倒くさくて眠ったふりをした。
ぎしぎしと机を引く音がして、星宮小夜が席に着くのが分かった。
「はぁ、暑い。熱中症になっちゃうよ」
「……」
「夏休みの宿題やった?」
「……」
宿題はやっておかないと後々先生に注意されて、面倒くさいことになるのは目に見えているので夏休み初日に終わらせた。
「私はね、最終日三日前から本腰を上げて、何とか終わらせることができたよ。ほんと、間に合わない~って思った。やっぱり宿題は計画的にやらないとダメだね」
「……」
根は真面目らしい。何処からか聞こえてくる宿題が終わっていないことに対して開き直り、「宿題、終わらなかった。えへへ」とお茶らけてみんなに慕ってもらおうとする浅はかな女とは違うようだ。
「ねー、起きてよ夜月くん。学校は寝る場所じゃないんだよ」
「……」
小言を受け流して一貫して眠ることを演じていると涼しい風が横から吹いてきた。一定間隔に吹く風はさざ波のよう。
星宮に悟られぬようにちらりと瞼を開けて一瞥した。彼女は持参した扇子で俺の方に風を仰いでいた。
「あ、起きた。夜月くん、おはよー」
不覚にも星宮と目が合い、俺は上体を起こした。
「今日、すっごく暑いよね。こんなの熱中症になっちゃうよ」
「……それ、さっきも聞いた」
「むっ、やっぱり起きてたんじゃん。返事くらいしてよ、もうっ」
頬を少し膨らませながらも星宮は扇子をこちらに仰ぎ続けている。涼しいでしょ~、と言わんばかりの表情で。
「星宮……風、いらない」
「むぅ、折角してあげたのに。涼しかったよ、ありがとう、ぐらいの言葉、ちょうだいよ」
「ちょうだいって、俺は頼んでない。お前が勝手にしたことだろ」
「……本当、不愛想だよね。もうしてあげないから」
ぷい、と星宮は自分の顔に金魚のデザインが施された絹の扇子を仰ぐ。彼女は涼しそうに瞳を細めている。星宮小夜。隣の席だったということもあって入学初日から話しかけられ、友達になろうよ、なんて小学生でも言わないような台詞を言ってきた。だから俺は丁重にそれをお断りして、関係を断とうとした。
一週間、一か月と学校生活を送っていれば、次第にこいつがどういう人間か多少なりとも人となりというものが分かるものだ。入学してから数日の間、近づいてきた同級生たちも俺こと夜月琉倭に対する接し方を理解したようで一か月ほどして誰も話しかけてこなくなった。……というのにこの女はめげずにしつこく友人のように接してくる。そのせいか、こんな俺と関わったせいで同級生たちは彼女を敬遠するようになった。
……本当、馬鹿な女だ。
赤みがかったふわふわの茶髪。ヘーゼル色の瞳。半袖のポロシャツとチャック柄のスカートから伸びる少しだけ焼けたしなやかな肢体。周囲の女に比べれば綺麗な顔立ちをしている。適当に笑顔を振りまけば馬鹿な男はルックスだけで寄ってくるだろう。おまけに性格も良ければ、欠点なんて何一つないはずだ。そう、欠点があるとすればこんな男に接していることであり、風変わりな女だと認定されていることだ。
「星宮……俺に構うな。お前、友達いないだろ」
「うるさいなぁ、夜月くんだってそうでしょ?」
「俺は別に欲しくない。一人の方が心地いい」
「なら私も一緒……」
んなわけないだろう。ならなんで彼女はこんなにも差し出がましく俺に関わろうとする。本当にうざったい。
「私が好き勝手やっていることなんだから夜月くんには関係ないでしょ。それともなにかな、私のこと、少しは心配してくれたの?」
「……お前、本当、うざいな」
突き放すように強い口調で言い放つと星宮は「……ごめん」と少し気圧されたような反応を示した後、「でも無関心よりは全然いいかな」なんてイラつくような言葉を呟いた。
予鈴が鳴って、朝のホームルームが始まる。担任の先生から伝えられたことはしばらくの間、放課後の部活動は活動停止ということだった。部活に所属していない俺には関係のない話だが、原因としては八月末に起こった猟奇殺人事件の犯人がまだ捕まっていないことに加えて、今朝二人目の被害者が街の路地裏で見つかったことだった。
「……」
猟奇殺人。路地裏。女の死体。思い起こされる昨晩の情景。
波打つ血塗れの身体。噴き出す鮮明な赤の色。広がる死にたてほやほやの赤い体液の匂い。むさくるしい夏の熱さとはどこか違うむわりとした生の暖かさ。生まれて初めて見た人の死体は小動物の死骸よりも心落ち着くものがあり、確かな昂りを覚えた。……でも俺の方がもっと巧くヤれた気がする、なんて思ったのはなぜだろう。昂りを覚えた心理的状況で綺麗に殺せるかと問われると自信はない。感情のままに、欲望のままに、本能のままに、ざっくざくに切り裂いて、殺害したかもしれない。そんな殺し方をした犯人は一体、どんな人物なのだろう。殺している時はさぞかし気持ちがよかったのだろうか。
人間を殺したことがない俺には分からない。だが、分かることもある。あれは明確な動機があっての殺人ではない、己の私利私欲を満たすための行為だ。性交と同じ、心を満たすための殺害。愉しそうに人を殺した傷口だということは見ただけですぐに分かった。
人を殺めることは空腹を満たすことと性欲を満たすことに似ている。だから人を殺めることは普通の行為であり、この事件の犯人には人間らしい罪の意識はなく、あるのは極度な心理的昂りでしか自分の生命を維持できないほどの人間崩壊。他者の命を踏みにじり、完璧なまでに相手を支配し屈服できた興奮と快楽によって、人は人ではなくなっていく。殺人の鬼と化す。だが、人ではなくなったその鬼も捕まれば最後、皮肉にも「人」として裁かれる。けれどもし、そいつが初めからヒトではない、人間の常識をはるかに超えた人間ならざるものであった場合、果たして人間は手に負えられるだろうか。
「はぁ……お腹空いたな」
「え、お腹空いたの? 私のご飯ちょっとだけあげようか?」
どうやら声に出ていたらしい。そしていつの間にか、昼休みになっていたようだ。
「そうだな~、あ、たこさんウィンナーをあげよう」
箸で持ち上げられたウィンナーを差し出されたが、手で振り払うようにしてそれを断った。
「むぅ、お腹空いたって言ったじゃんか」
不貞腐れたようにソーセージを口元へ運ぶ星宮。迎え入れるように舌を出してソーセージの先端を舐めるように口に咥えておいしそうに食べる。ソーセージについた脂が彼女の薄桃色の唇を艶めかしくコーティングさせる。その些細な仕草が本当に俺の神経を逆撫でさせる。
「……違う。心の方だ」
「ふーん。欲求不満なの?」
彼女は質問の意味を解って聞いているのだろうか。欲求不満に通ずる三大欲求。ここでの欲求は自ずと性欲になるのだが……。
「……まあ、確かに下半身の方はご無沙汰だな。もう……三か月ぐらいしていない」
「な、な、な、なに言ってんの? 夜月くんのばか、へんたいっ!」
頬を真っ赤にさせて持っている箸をぶんぶんと振り回す星宮。どうやら彼女の質問に深い意味はなかったらしい。じゃあ、なんて返せばよかったのだろう。分からない。
「俺は俺なりにお前の質問に対して誠実に答えたつもりなんだが、どうやら質問の意図を履き違えたらしい」
「もうっ、変な勘違いしないでよね」
ぷいっと背中を向けて星宮は食事に集中する。何はともあれ、これで静かな空間を手に入れることができたのでこちらとしては好都合。それからというもの、星宮は食事を終えた後も、話しかけてはこなかった。
午後の授業が終わり、下校時間となった。俺は学校の鞄を手に取り、立ち上がる。同級生たちが一斉に教室から出ていく中、星宮は椅子に座ったまま立ち上がろうとしない。特に気にはならないので、言葉を交わすことなく、彼女の横を通り過ぎた。その時、「よ、夜月くん」名前を呼びかけられて、立ち止まった。
「なに?」
俺は少し振り向いて、星宮の方に視線を向けた。彼女は上目遣いのまま、顔を紅潮させて何かを言おうとしていた。
「……その、昼休みに言っていたことだけど、もしよかったら、私が解消……」
「解消……? 何のことだ」
「な、何でもないっ、今の忘れて。ばいばい、夜月くん。また明日っ」
ぶわぁあ、と一段と顔を真っ赤にさせながら星宮は嵐のように激しい動きで俺の視界から姿を消した。
また明日、と彼女は別れ際にそう口にした。だが、この日を境に彼女の姿を見ることはなかった。
△
夏の暑さが緩やかに落ち着いていくと同時に季節は緩やかに秋へと移り変わる。今日もまた星宮小夜は体調不良を理由に学校へ来ることはなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。