2―2 彼女に殺されたのならそれはそれで良かったのに②
突き放した。遠ざけた。そうしないと本当に危害を加えてしまうから。実際、彼女を傷つけた。やってはいけないことをした。誰もいない場所。彼女と二人きりになって抑え付けることができなかった。
彼女がもたらす触覚への刺激。視覚への刺激。嗅覚への刺激。
触れてはいけなかった。滑らかな彼女の肌。肌の温もり。女の匂い。彼女からのボディタッチ、スキンシップ。
触覚が刺激されて、過去の過ちを思い出す。
色っぽい吐息。性的な仕草。うなじにあった小さなほくろ。柔からな胸の感触。甘美な血の味。駄目だ、いやでも思い出してしまう。会ったらまずいかもしれない。そもそも俺は生きていたらまずい人間で、俺みたいな奴がどの面下げて会いに行くというのか。
こんなのは今日限りにしよう。もし彼女が学校に来なかったらもう学校には行かない。もし彼女が学校に来たら、謝罪だけを告げて、それきりもう会わない。どのみち、もう学校には行かない。周りを不幸にさせるだけの存在は、普通の生活なんて送れるわけがない。
自分だけ不幸になっていればいい。他人を不幸にすることでしか幸せを享受できない愚か者は、さっさと死んだ方がいい。そうだ、あの女に殺してくれって頼み込めば、嬉しそうに殺すんじゃないか。殺されていなくなれば、誰も不幸にならなくて済む。生きる意味なんてさらさらない。そんなもの初めからなかった。あったのは不必要な殺意だけ。なんで、こんな奴が産まれてきたのだろう。なんで、こんな奴が生きているのだろう。
それなのになんで。
こんな奴に彼女はそんな笑顔を向けてくるのだろう。
「おはよーっ。夜月くん」
「……」
決して期待していたわけではない。普通なら学校には来ないはずだ。来れないはずだ。あんな怖い目に遭って、怖いことをした奴がもしかしたら学校に来るかもしれない、その可能性がある時点で臆するはずなのに、こいつは何事もなかったかのようにいつもの顔で挨拶してきた。
「なんで……」
「? なんでってなにが?」
「惚けるな。あんなことがあったのに、どうして平然としていられるっ。どうして――っ!」
周りががやがやと騒がしい。だが騒がしいのは俺の心だ。この女に会って謝りたかったはずなのに、目の前にするとどうしてこんなにも胸がざわつくのか。
なぜ、ざわつく。
ヘーゼル色の双眸。赤みがかった茶髪。仕草も声音も何もかも星宮小夜で間違いないはずなのに、何をこんなに恐れている。
いや、あんなことをしたのに、平然と来れるこの女の精神構造に恐れている、というよりはこの女に報復されるのではないか、と慄いている。
「……ちょっとこっちで話そう」
立ち上がった星宮に腕を掴まれて、廊下へと出た。廊下には登校してくる生徒の姿がちらほらと見られる。俺は廊下でもいいのに、彼女はわざわざ人気のない外階段の踊り場まで連れていった。
「なんで、学校に来た……あんなことがあったのに」
「なんでって……夜月くんは私に来てほしくなくてあんなことしたの?」
その言葉よりも先に星宮の首筋に残った歯形がちらついて、俺は下を向いた。
「……違う」
その答えに星宮は階段に腰を下ろして、俺の顔を覗くように見上げた。
「じゃあ、どうして……あんなことしたの?」
「……お前が近くにいると俺は俺らしくいられなくなる」
自分で言ってそれはないな、と思った。少なくとも昨日の出来事は彼女の責任ではない。悪いのは全部俺なのに、なんで俺は彼女がいなければああはならなかった、なんて言えるのだろう。なんでこんな言い方しかできないのだろう。
「そっか。じゃあもう余計なことはしない。これからはただのクラスメイトで、よろしくお願いします」
親しい友人みたいに接していた彼女は別人のように素っ気ない声で言って、立ち上がった。
「じゃあ、私戻るね。夜月くんも急いだ方がいいよ」
消えていく。彼女が階段を下りていく。
この世から消えた方がいいのは俺の方で、普通の暮らしをしている彼女が学校に来るのは当たり前で、普通のふりをしている人間が普通に来ていい場所ではない。だからこれで最後だ。
だけどこんなことを言いたくて彼女に会いたかったわけじゃない。ちゃんと謝らないといけない。ちゃんと……彼女の顔を見て、ちゃんと向き合わないと本当にダメになる。
知らず俺は俺の横を通り過ぎる星宮の右手を繋ぎ止めていた。
「なに? 急がないと朝のホームルームが始まっちゃうんだけど」
「ごめん……昨日やったことは謝っても許されないけど、俺には謝ることぐらいしかできない」
「いいよ、別に。何かを奪われたわけでもないし……」
「それでも俺は一番大事な人との約束も守れずに、一番大切な人を傷つけるようなことをした。やっぱり人として最低な人間がお前みたいな奴と関わっちゃダメなんだ。……今も、こうして手を握っただけで……」
握っている。柔らかくて少し冷たい小さな手の感触がある。どくんと鼓動が大きくなったが、衝動は自然と元に戻っていく。
「悪い、何をしているんだろう。触れたらどうなるか自分でも分からないくらい怖いのに」
食い止めていた手を離そうとする。と俺よりも強い力で握り返してきた。
「別に私は夜月くんを人として最低だと思ったことはないよ」
「嘘だ。あんなことされて、平気でいられる奴の方がおかしい」
「じゃあ私はおかしいのかもしれない。夜月くんに乱暴なことされて少し怖かったけど、そんなことよりも夜月くん、つらそうな顔しているから、怖さよりも心配が勝っちゃった。……私は、大丈夫だよ。どんなことされても受け止められる自信あるし」
「自信があるとかそういう問題じゃない。俺に関わればお前は傷つく」
「いいよ、夜月くんになら傷つけられても」
振り向けば、そこには大切なモノを失った少女の顔があった。弱っている顔を見て、誰かが傍に寄り添ってやらないといけないと思ったが、その役目が俺ではないことも分かった。何かを奪い、傷つけることしかできない奴は大切なものを守ることも慰めることもできやしない。
「……夜月くんは私に触れてみてどうだった?」
なんでそんなことを訊いてくる。
「私は触られて嫌じゃなかったよ」
なんでそんな風に色っぽい声で誘惑して、俺の胸に寄りかかってくるのか。さっきまで冷たい態度だったのに今は寂しげな声で囁いてくる。情緒不安定な精神状態の理由は両親を殺されたからだろう。今は自暴自棄になっているだけだ。
「駄目だ」
「どうして? 私の身体、好きにしていいんだよ?」
愛くるしい瞳が俺を見上げている。潤った薄紅色の唇。小ぶりな胸の柔らかな肌の温みが制服越しに伝わってくる。
どくんと胸が鳴った。
昨日のような精神状態であれば、間違いなく彼女の煽情に絡めとられていただろう。だけど不思議となぜか、そういう衝動に流されることはなく、こみ上げてくるのは人間として至極当然な怒りだった。なんでそんな顔をする。なんでそんな悲しそうにする。目鼻立ちの整った彼女の顔立ちには、哀愁の翳りが滲み出ている。
「っ――」
外階段の踊り場で押し倒された小夜は何の抵抗もせず無防備な姿態を曝け出す。首筋には痛々しく残った……絞め上げた、噛みついた、傷つけた痕がある。
「お願い……痛いことでも気持ちいいことでも何でもいいから、この寂しさを夜月くんの欲望で慰めて。……私と共依存になろ?」
投げやりな小夜の言葉に俺は彼女の首に深く刻まれた傷跡を慰めるように撫でた。
「……その願いには応えられない」
「どうして?」
「お互いにもっと違う方法があるはずだから」
「違う方法ってなに?」
「分からない。けど、これが間違っていることだけは分かる。……傷つけて傷つけられて、そんなのはどっちも苦しいだけだ……」
苦しいと思うのはなぜだろう。なんで彼女の泣きそうな顔を見るとこっちまで悲しくなってくるのか。俺はこんな感傷的な人間でもなければ、誰かを傷つけたくて殺したくて、他人の幸せなんかどうでも良くて、他人が幸せそうにしているとそれを壊したくなって、人間としてどうしようもないはずなのに、今はただ目の前で悲しそうにしている彼女をどうにかして元気づかせたかった。
「……お前に涙は似合わない。ずっとバカみたいに笑っていろ。お願いだから」
「なにそれ……」
涙交じりに言いながら小夜は微笑んだ。彼女に覆い被さる形で向かい合うこと二分、彼女が口を開いた。
「……じゃあ、元気になりたいから夜月くんとデートしたい」
「……それは……」
無理だ。叶えられない願いだと口にしようとしたところで、こちらの返答を察したかのように星宮はこう付け加えた。
「私を傷つけたことに罪悪感があるのなら私の願いを叶えてよ。それで許してあげるから」
「……。分かった」
その承諾に押し伏せられたままの星宮は嬉しそうに笑って、起き上がった。
「じゃあ、明日の放課後、楽しみにしてるね」
「……ああ」
こちらに拒否権はない。傷つけたお詫びに彼女の言うことを訊く。本当だったらこれで別れるはずだったが、それは一日延期されることになった。
最後までお読みいただきありがとうございました。




