お帰りなさいませ、お父様。
その家には女が住んでいた。
★ ★ ★ ★ ★
お母様、どうなさったの?
そんなに沈んだお顔をなさって。
ごめんなさい、愚問でしたわ。
お父様が騎士団の新人女性騎士に入れあげて、若い殿方のように後ろ髪を伸ばして浮かれているのですものね。
お辛い気持ちはお察ししますわ。……ええ、本当に。
アナタはだれ?
まあ、嫌ですわ。なにをおっしゃってますの、お母様。
私はお母様とお父様の娘ですわ。
お父様が元婚約者のお嬢様に婚約破棄を告げたとき、お母様のお腹にいたのが私ではありませんの。
お嬢様の家の使用人に過ぎなかったお母様が、人の良いお父様に繰り返し相談事を持ち掛けた挙句、下町の酒場に呼び寄せて、酔わせて作った既成事実が私でしょう?
まさか、そんな子どもなどいなかったなんておっしゃらないでしょう?
すべて生真面目なお父様を騙すための嘘だったなんて。
本命は幼馴染だったならず者の男で、お嬢様に婿入りしたお父様の愛人になって、男と贅沢三昧の暮らしを送るつもりだっただなんて、おっしゃらないでしょう?
お父様が、責任を取るために婚約破棄までなさるとは思わなかっただなんて、言わないでくださいませね?
お母様とお父様は真実の愛で結ばれていたのですから、妊娠を聞かされたお父様がどんな行動をお取りになるかくらいおわかりだったでしょう?
おふたりを結ぶものが真実の愛でなかったら、婚約破棄された悲しみで自害したお嬢様が可哀相過ぎますもの。
それに、ならず者の男なんていませんものね。
お母様の幼馴染の男は、お嬢様が亡くなってすぐに下町の喧嘩で死んでしまいましたもの。
喧嘩をしていたほかの人間は、こんな男知らない、いつの間に混じっていたんだ、なんて証言していたようですけれど、他人の喧嘩にも首を突っ込まずにはいられないほど血の気の多い人だったらしいですから。
そう、企みが上手く行っていたら最終的にお嬢様を殺して、お母様と自分の子どもをお父様の跡取りにしてしまおうと考えていたくらい血の気の多い人だったのですよね?
あらあら、血の気の多い人の話をしていたらお母様の血の気が引いてしまいましたわ。
申し訳ありませんわ、お母様。冗談です。
だってお母様とお父様は真実の愛で結ばれているのですものね。
お母様はお父様をひとり占めにしたいのですものね。
お嬢様と共有しても良いだなんて思ってなかったし、ならず者の情夫に操られていたりもしませんでしたものね。
お母様にはお父様が、お父様にはお母様が唯一無二の存在ですものね?……お嬢様にとってのお父様がそうだったように。
だからこそ、今の状況を野放しにしていてはいけませんわ。
若い娘に頼られて浮かれているだけ? 生真面目なお父様が浮気までするはずがない?
お母様がそれをおっしゃいますの?
お嬢様とお父様の優しさにつけ込んで、不幸な女性を演じて相談を重ね、お金を巻き上げたり酒に酔わせて既成事実を作ったりしたお母様が?
お相手の新人女性騎士だって、お母様のように薄汚い、他人の男を奪うしか能のない女性かもしれませんのよ?
お父様はお母様とのことが原因で実家から勘当されて、お嬢様の家に婿入りするために得た騎士爵によって騎士団に入って働いていらっしゃいます。
ひとり娘を喪ったお嬢様の実家に心底憎まれていますから、どんなに優秀でも今後隊長以上に出世することはありませんけれどね。
でもお父様の娘でもおかしくない年齢の新人女性騎士は、そんなこと知りませんわ。
お父様は優秀ですもの。
今は平民に毛が生えたような収入でも、これから副団長や団長に成り上がっていくに違いないと考えて、お母様から奪おうとするかもしれませんわよ?
ところでお母様は、蜂に二度刺されたら死ぬことがあるという話をご存じですか?
なんでも人間の体は入って来た毒に対して、免疫というものを作り出すらしいんですの。
その免疫が二度目に入って来た毒に対して過剰に反応して、命を奪ってしまうんですって!
なんて恐ろしいんでしょう!
もちろん空を飛ぶ蜂は自由に出来ませんが、同じような毒を持つ蜘蛛がいますの。
ほら、お母様がお嬢様の宝石箱から盗み出したその指輪。
その指輪には二度刺されれば死ぬ蜘蛛の毒が入っていますわ。
年月が過ぎても劣化しない処理もされています。
そっとだれかの肌に押し当てれば、指輪から針が出て毒を注入する仕組みですの。
これまでお母様が刺されることがなくて良かったですわね。
……お嬢様は、その蜘蛛に刺されかけたことがありましたの。
そのとき助けてくれたのがお父様で、だから下位貴族家の次男坊に過ぎないお父様を婚約者に選びましたのよ。
お嬢様にとってお父様は、唯一無二の自分だけの騎士だったのですわ。
絶対に失えない、だれとも共有出来ない存在だったのです。
失うくらいなら死を選ぶほど、お嬢様はお父様を愛していたのです。
ええ、お母様にも理解出来ますわよね?
お母様とお父様は真実の愛で結ばれていますものね?
お嬢様は本当は気づいていらしたのかもしれませんわね。
お父様の真実の愛の相手は自分ではないと、いつかお父様は自分を捨てて去っていくと、だからこんな指輪を作らせたのかもしれませんわ。
その指輪をお母様が盗み出すだなんて、運命は数奇なものですわね。
……アナタはだれ?
お母様、そんな泣きそうな顔をしてどうなさったの?
私? 私は私ですわ。お母様の娘、グローリアです。
違う? お腹に子どもなんていなかった? グローリアというのはお嬢様の名前?
わかりますわ、お母様。
真実の愛の相手であるお父様が泥棒猫に奪われそうなんですものね。
かつての自分がおこなったことでも、いいえ、自分がおこなったことだからこそ許せませんわよね?
独占する気もない相手に愛を語って、他人から奪うだなんて最低ですものね。
怒りのあまり混乱して、私のことさえわからなくなるのも当然ですわ。
でも大丈夫。すべて私の言う通りになされば良いのです。
そうすればお父様は、彼は……ただひとりのものになります。
さあお母様、お庭へ回って待っていてくださいな。
お嬢様の死から立ち直ってお母様との暮らしを受け入れ、新人女性騎士に煽てられて鼻の下を伸ばしているようなお父様には罰を与えなくてはいけません。
私が玄関でお父様をお迎えします。
お父様が今のお母様のように、だれもいないのに懐かしい声だけが聞こえる状況に戸惑っているうちに、首筋に蜘蛛がいると言って指輪の針を刺すのです。
お父様は伸ばした後ろ髪の感触に慣れなくて、いつも首に違和感を覚えていらっしゃるから、簡単に騙されると思いますわ。ほら、早く!
……ああ、懐かしい音がします。
あの人が扉を叩く音には特徴があるのです。
さあ、お出迎えしましょう。
『お帰りなさいませ、お父様』
お嬢様はね、子どもと一緒にそう言って、あの人を出迎える毎日を夢見ていたのです。
★ ★ ★ ★ ★
その家には、女がひとり住んでいた。
夫がいるのかどうかはわからない。
父がいるのか、母がいるのかもわからない。
娘がいるのかどうかもわからない。
女がひとり、住んでいた。




