美少女
親愛なる読み手諸君たちよ。
この手記をここまで読み進める事が出来た読書家の君たちには、もうこの物語がどういった内容の物なのか、雲や霞を掴む程度には把握して貰えた事だろう。
時には俺の下品な物言いに舌を打つ事もあったとは思うが、何しろ俺はこういう男だ。上品に物を書くって事ができねえ。
それでもこの先にある俺も知らない物語を世界にいる誰かが読んでくれるならば、こうして未曾有の大渋滞に身を置き、暇潰し代わりに渋滞生活を綴っている意味もあるのかなって、今ではそう思ってる。
こんな気持ちになるのは安藤との別れを経験したからか、それとも文字を綴る喜びを知ったからか、定かではないが、俺は一歩、大人になれたような気がしたね。
さて、話を先に進めようか。
初っ端から男臭い話をしちまったから、次は血沸き肉躍る暴力の日々と、そんな荒れた大地にも夢のように咲く一輪の花――
つまり、ある一人の美少女との邂逅を記す事にしよう。
こいつは極めて過激なバイオレンスと飢えた野良犬も喰わないラブロマンスの話になると俺は思っていたんだが、事はそれだけで終わらなかった。
美少女は時に男に試練を与え、男を磨き上げるってのは俺の言だが、美しい女は大抵の場合、揉事という名の棘と、大いなる飛躍の機会を併せ持つ。それも、月に居を構えるどころか、月まで届く跳躍力を発揮する兎みたいな飛躍の機会をだ。
もっとも、月にフェアリーランドがあるのでなければ、そんな面白みのない場所へ跳ぶ必要もないんだけどな。
※※※
「おい、お下劣女。今って、どこだよ?」
シューベルトの美しい旋律が鳴り響く車内、煙草の煙を吐き出す俺は思い出したようにして助手席に座る女に問いを投げかけていた。
「呆れた。弦次郎くん、ここがどこだかもわからずに東京を目指しているって言うの?まさか、自分が行こうとしている場所さえ覚えてないとか、有り得ないよね?」
困惑の色を浮かべるお下劣女は嫌味交じりに言葉を返してきた。
「仕方ないだろう。どこまで行っても車の海で、この目に見える物と言ったら、いつでも車なんだからよ。こんな代り映えのない景色で現在位置が把握できるか」
「はいはい。自慢にならない事で威張るその悪癖も、この旅が終わる頃には治っているといいわね」
お下劣女は意にも介さないといった態度で続ける。
全く、シューベルトもこんな女に自慢の楽曲を聴かれるとは思わなかっただろうな。
「ちょっと買い物行ってくるわ。ガソリンも切れそうだし、たまには良い物も食べたい」
「煙草も頼む」
「嗜好品は自分の小遣いで買うんだね」
渋滞戦争を共に戦い、協力して戦線を維持している相棒でもある女は、これまで耳にタコが出来る程には聞いてきた正論を吐き捨てながら車から降りていく。
全く、なんて女だよ。
車内に鳴り響くシューベルトの楽曲をせめてもの慰みにする俺は特に何をする訳でもなく、絶賛渋滞中というか、永続渋滞中というべき道路沿いに立ち並ぶ商店と人の山、そして目だけが笑っていない笑顔の売人たちを眺めていた。
人の集まる所には売人が集まる。
奴らの売り物は弁当にお菓子、車から人にとっての命の水からピザに生理用品、最先端のファッションから有料の仮設トイレ、ちょっと変わり種の所で言うと、ウェディングドレスや英国王室御用達のウェルシュ・コーギー・ペンブロークまで売人の扱う商品のレパートリーは何でもござれと言わんばかりの無秩序にして無限大といった所だ。
お陰でこっちは余程の危険地帯にいない限り必要な物は大体何でも手に入ると言えるが、危険な麻薬だけは手に入らない。
この狂気染みた馬鹿馬鹿しい渋滞の中、元々人手不足な上に交通警戒ばかりに手を回せない警官たちでも、この手の物を売り捌く外道だけは完璧なまでに打ちのめし、取り締まるのは、俺たち日本の最高と言えるだろう。
そんな訳で、俺たちは未曾有の大渋滞の中にあっても生活には事欠かないって訳だ。
少なくとも銭を持っている内はね。
こんこん。こんこん。
耳元で妖精が愛を囁くような優しいリズムを刻んだ音が聞こえてくる。
車のガラスを叩く音だろう。物思いに耽る俺は、来客を示すその音に耳を立てた。
「弦次郎~!聞こえないの?応答せよ、弦次郎大佐!」
シューベルトに現を抜かしながらも声の主を確認する俺はドアを開け、外に立つ少女へ言った。
「おはよう、綺羅星ちゃん。また遊びに来てくれたのかい。しかし、今日もたまらなくキュートだな。フェアリーランドへと辿り着く前に妖精と出会った気分だぜ」
「私の事を綺羅星ちゃんと言うな。少将と呼べっ」
おそらく最近、戦争映画か漫画でも見たのだろう、綺羅星ちゃんは目一杯の笑顔を浮かべ、小さな口を大きく動かしながら返してきた。
「まあ座りなよ。あのお下劣女は買い物に出てて、今はいないからさ」
来客者である少女へと助手席に座るよう促す。
それを聞くや否や、綺羅星ちゃんは軽い足取りでステップでも踏むかのように助手席側へ回ると車へ乗り込んだ。
※※※
「何かちょっと久しぶりだね、元気だった?こっちはオンライン試験もやっと終わって、しばらくは遊べるよ。今まで私に会えなくて寂しかったでしょ。ね、弦次郎」
好奇心に満ちた大きな瞳。綺麗に梳られた栗色の長い髪。
誰が見たって美少女と言うに決まっているその少女は、つい最近、デバイスを通した車中でのオンライン試験が終わった解放感も手伝ってか、小さな身体を助手席に収めたまま、形のいい桃色がかった唇を窮屈な籠を抜け出したばかりの鳥のようにして忙しなく動かしている。
「ねえ、弦次郎。クラシックなんて退屈。オルタナ・ロックかパンク・ロックかけていい?ところで、お下劣女さんは一人で出掛けて平気なの?ここじゃ買い物だって戦場みたいなものなのに、弦次郎は女性一人で買い物に行かせちゃうんだ?あっ、そうだ。話は変わるんだけど、お父さんの煙草、黙って持って来ちゃったんだ。弦次郎、吸うでしょ?」
本当によく動く若い娘特有の口だったが、相手が美少女であれば嫌な気分になる男などいない。俺も軽く笑いながら口を開く。
「綺羅星ちゃんは相変わらず話が上手だな。それに、今日はいつになく綺麗だ。こんな渋滞生活の中にあっても気品があるし、ファッションへのこだわりを忘れない。しかし、周り中ゴミ溜めのような、こんな環境でよくぞ美しく育ってくれたぜ」
「当然でしょ。私だって、もう十六歳だよ。ちょっと昔だったら結婚できる年齢。いつまでもお人形を抱いて眠る夢見がちな少女じゃないんだからね」
この頃はすっかり女の顔を見せるようになってきた綺羅星ちゃんは握り拳を作って微笑み、続ける。
「そういう弦次郎の方こそ、ちょっと口が回りすぎる所あるよね。そのせいで大切な相棒のお下劣女さんに逃げられちゃったのかと思った。ま、そこが弦次郎の良い所だっていうのは、ちゃんと私には理解出来ているから安心していいけどね」
「おいおい、俺くらいいい男になると、女には常に追われる側だぜ。それこそ、学校の中では常に女から追われる羊のような生活をしていたものさ。まあ今でこそ、こんな渋滞の中にいるもんで、あえて追おうとする女は現れないが」
「だったら、私が牧羊犬になっちゃおうかなぁ」
にやりと悪戯な笑みを浮かべる少女が放つ言葉に、車中を流れるイカしたオルタナティブ・ロックは一転、恋を歌うポップスにでも変容するような感覚に見舞われる。
こうなってくると、さっきまで俺の頭を気分良く揺らしていたシューベルトさえ何処か遠くへと消えてしまう。
「まあそう慌てるなよ、ジュリエット様。あと二年だ」
女の顔をしたままでいる綺羅星ちゃんの頭を、そっと撫でながら言うも、それ以上の行為には及ばない。
何故ならば俺は二十代。そして彼女はさっき自分で言ってくれたように十六歳だからだ。
もちろん今更、不純異性交遊で捕まるのなんか、いるかどうかもわからねえ幽霊くらいに怖くもないが、俺にはフェアリーランドへ行くって目的があるし、殊更、急いで手を出す必要もなかったからさ。