空
エリザベートが誘拐され、タマが人間の土砂崩れに巻き込まれ、共に帰らぬ者となってから数日が経った頃、相変わらず兎に勝利する事を放棄した亀ほどには進まない大渋滞の中、安藤は今までにないくらい真面目腐った顔してメッセージを送ってきた。
『兄弟、天気予報を教えてくれないか。どうも最近はラジオの機嫌が悪いんだ』
俺は快くこの先、一週間ほどの天気予報を教えてやった。
そうしたら安藤の奴、風はどうなんだ、強風の日はないのかって具合に風神様のご機嫌の方を気にしているようで、丁度、三日後に強風が吹くとニュースで聞いていた俺は、そいつを教えてやったよ。
それを聞いた安藤は妙にしみったれた鼻水をすする子供のような顔をしてボードを掲げてきた。
『俺はこの辺で新しい旅に出ようと思う』
そのメッセージを見た俺はハッとしちまったね。まるで悪夢を見た後にベッドから飛び起きるかのような感覚だった。
『まさかギブアップする気じゃないだろうな、兄弟。食料の事なら何とかするから心配するな』
安藤は打って変わったように眩しいばかりの笑顔を浮かべながらメッセージを返す。
『ありがたいが、食料があったとしてもガソリンも買えない現状じゃあ、どっちにしてもこの先へと進む事は出来ない。なぁ、兄弟。俺とお前が出会ってから、どれくらいの月日が経ったかな。あの頃は楽しかった』
『もう三か月は過ぎたぜ、兄弟。あの頃のお前の暴れっぷりは今でも記憶に新しい』
『お前の暴力の方こそ、ちょっと頭がおかしくなっちまった奴みたいで俺は逆に憧憬の念さえ覚えたもんだよ』
そのメッセージに俺たちが出会ったあの日、ブリッジの上で派手に暴れていた安藤の姿を思い起こす。
日々の渋滞生活の中、暇潰しにブリッジ上で巻き起こった乱闘を望遠鏡で観戦していた俺は、その姿に自分を重ねちまって、安藤へとメッセージを送らずにはいられなかったんだ。
俺は在りし日の事を思い浮かべながら再度ボードを掲げる。
『そいつは俺の台詞だぜ、兄弟よ。携帯電話を武器にして戦うクレイジーな野郎ってのは、流石の俺もちょっと見た事はなかった。お前がクリティカル・ヒットかましてやった、あの痩せた狼みたいな野郎、飛び上がってたな。あれは傑作だった』
『ありゃあ、たまたまだぜ。しかし、そのせいで大切な携帯電話がぶっ壊れちまった上に臭くて持つのも嫌になっちまったもんだから、こっちとしても泣きたい気分だった』
『たまたまで携帯電話がケツに突き刺さってちゃあ喧嘩の相手からしてみても、たまったもんじゃねえだろう』
俺は笑った。
安藤も笑った。
二人して、しばらくの間、大笑いしてた。
『三日後の強風の日、俺は旅に出ようと思う』
やがて笑いが収まった時、安藤は俺に伝えてきた。
ボードを掲げて微笑むその手にパラグライダーを握って。
※※※
時間は決して人の顔色を窺う事はないし、寄り添う事もない。
場所や都合、あるいは感情に関わらず、全ての事象、事件、万物に向けて等しくその針を刻み進めて行くが俺たちの感覚の方はというと、時間が提示してくる無情さに付いて行く事が出来ない事もある。
それはつまり、人と人が別れる日っていうのは思いの外、早く訪れるって事だ。
その日の朝、テレビに出てはモデルみたいな体形を披露し、小鳥のように麗らかに天気を読み上げるお姉さんの言う通り、強風はやってきた。
テレビやラジオの天気予報ってものはいい。今も昔も権力者の都合や政治家の思惑が絡まないからだ。
どこかにいる誰かさんの腹の中が絡む事のない情報ほど信用出来るネタは無いってのは、古き良き時代においても今の時代においても変わる事がない。
パラグライダー用の装備をその身に纏う安藤は、胸からホワイトボードを引っ提げ、壮大なる旅路に期待を弾ませているって具合の笑みを浮かべながらブリッジ上の安全柵の上に登り、屈み込んでいた。
俺は今にも飛び立とうとしている親友の胸に提げられたホワイトボードを確認する。
『なあに、心配するな、兄弟。しばらくは風の吹くまま自由気ままに流れて、たまたま偶然に降りた所が俺の新天地だ。俺は俺の道を行くけれど、お前は夢の世界、東京フェアリーランドへ行くんだ。お前なら出来るって、俺は信じているぜ』
俺は精一杯の笑顔を浮かべたね。
何しろ親友が新しい場所へ旅立とうって言うんだ。それがどんなに無茶な事だって、止める事なんて出来やしないし、俺にはその権利もない。そればかりか例え母親にしたって、男の冒険を止める権利なんてやはり持ちはしないだろう。
だから、俺は最後にちょっと気の利いた事でも言ってやろうと思って、ボードを掲げた。
『グッドラック、兄弟。もしも万が一、天国に行き着いちまったら天使の羽を引きちぎってやれ。美しく、荘厳な羽も柔らかいベッドの上で愛を営むには邪魔な代物だって言ってな』
もう俺の放った冗談に対してメッセージが返って来る事もない。
装備を整え、今にも飛び立たんとする安藤には、ペンを取り出してボードへとメッセージを書き込んでいる余裕なんかないからだ。
しかし、それが返事の代わりって訳なのか、安藤は大口を開けて笑う仕草を見せながら何事か口を動かすと、そのまま大空へと飛び出し、高く、高く、何処かへと飛んで行っちまった。
『風邪、引くなよ』
飛び立つ直前、緩やかに動いた安藤の口から確かに読み取れた最後のメッセージを頭の中で反芻する――
それは、俺の頭の中を電撃的に駆け巡り、いつになくセンチメンタルな気分にさせるのには十分な物だったが、そんな絶賛片思い中みたいな気持ちも必ずフェアリーランドへと到達してみせるという決心へ変わるのにそう時間はかからなかった。
それと言うのも、俺はこうと決めたからには必ずやり遂げる男だからだ。