唇
「なあ、妙に進みが早くなってねえか?」
いよいよ東京に入ろうかという頃、俺は助手席に座るお下劣女へと言った。
「確かにね。渋滞は相変わらずだが、以前に比べれば進行が早い」
「どうなってんだ?ここまで来れば、東京フェアリーランドは目と鼻の先だ。今更ギブアップする奴もいないはずだぜ」
二人して難しい顔をしながら車を進める。
しかし、その疑問はいよいよ東京へ入ったという所、最も嫌な形で晴れる事となる。
人の山。車の海。天まで届くビルの群れ。
そして、それらが発する音と声と、空気の振動。
この日本で最も騒がしくも自由な街、東京。
それらの光景は、この百年以上も変わる事がないが、今、この瞬間に至っては、過去にない程の喧騒を見せていた。昔から騒がしいのは変わっていないのに、変わったと感じるくらいには。
そんな街を見渡しながら、ある事に気付いた俺は口を開く。
「売人がいねえ」
お下劣女は何も言わずに舌打ちをする。
俺は街中でプラカードを掲げて怒鳴り散らしている一団を一瞥し、続けた。
「それに、何だ。あの野郎どもは。目が殺気立ってるぜ。今にも飛び掛かってきそうな奴らがわんさかいやがる。まるで敵国の街へと侵入した兵士の気分だぜ。どうなってんだ、こりゃあ」
【出て行け、渋滞野郎】
【俺たちの街を返せ】
【みんなの道路を返せ】
【お前たちが行くべき場所は、ここではなく地獄だ】
視界に入ってくるのは夥しい数の暴言が書かれたプラカード。
道路から見える店の数々に目を移してみれば【渋滞野郎お断り】という文字が書かれた張り紙が見える。
その中の一つに注目してみると、半泣きで銭を出しながら、店に入れてくれと懇願している男がいる。
そして、そんな男を大勢の人間が囲い、今にもリンチを始めようかとしている向きさえ見て取れた。
こんな状況にあっては、四六時中、銭の事を想い、銭の事を考え、銭のために生きようとする奴ら、売人さえも仕事にならないという事なんだろう。どこにでも現れる奴ら、売人の姿が全く見えないのは、こういう事かと俺は思った。
「まあ、当然と言えば当然だね。この一帯に居を置き、この一帯で生活している者からすれば、あたし達のような奴らは百害あって一利以下の存在だ。攻撃的反応を起こし、排他的活動に出るのは理解できる」
お下劣女は顔を歪めて呟いた。
「しかし、ここまでの状況になっているとはね……」
いつになく弱気な声音で言う相棒に、俺は鼻を鳴らして返してやる。
「いいじゃねえか。おかげでギブアップせざるを得ない奴が多いんだろう。進行が早まるのは諦めねえ奴らにとっては都合がいい。こんなもん、ビッグな夢を追うなら必ず通る道さ。なあ、相棒よ」
「弦次郎くんは本当にブレない人間だね」
お下劣女は若干、呆れたように小さく笑う。
「しかし、俺が言うのも何だが、妖精の可愛らしさときたら罪なもんだな。あのチャーミングさがこの渋滞を作り、出来上がった渋滞は今にも戦争へと繋がりそうだ。フェアリーランドを支配しているっていう妖精は、この状況をどう思っているんだろうな」
「奴らは何も考えてやしない。自分が楽しければそれでいいんだ」
「おいおい。それじゃ俺の事みたいじゃねえか」
「そうだね。確かに似ているけれど、決定的に違うとも言える」
「そりゃあいい。妖精に似ているなんて誉め言葉は初めてだぜ」
「言っておくが、外見の話じゃないぞ」
幾分か落ち着きを取り戻したお下劣女は、そっと微笑むと前を見据える。
そして、ややあってから続けた。
「この分では想像以上に早くフェアリーランドへ到着するかもしれない。だから、今言っておくよ。奴ら、妖精の恐るべき特性と能力を。そしてそれに対抗する唯一にして無二の手段をね」
※※※
俺は左手でハンドルを握り、右手に持った煙草を吹かす。
車の進みは遅くはあるが、以前のようなタイヤの代わりに亀でも付けたような遅さではなくなったため、俺はふんぞり返る事もなく逐一、車を進めながらお下劣女の話を聞いていた。
「奴ら、妖精の特筆すべき能力は幾つかある。第一に、極めて敏捷性が高い事。第二に、魔法が使える事。まあそれも悪戯に用いるような変身や快音を鳴らす類いのものだけどね。そして最も癪に障る第三の能力としては、自分の事を本気で可愛いらしい人間たちのアイドルだと思い込んでいる点となる」
最後のは能力というか、性格を表すものであり、悪口にも聞こえたが、俺は口を挟まずに耳を傾ける事にする。
「この内、最も厄介なのは大抵の人間が想像する通り、魔法になるが、より正しく言えば魔法ではない。奴らの体から撒き散らされる鱗粉が問題なんだよ。こいつが帯びている妖精の魔力と奴らの癪に障る曲がった性根こそが、東京フェアリーランドに……。いや、ゆくゆくは人類全体に巨大な災害をもたらすと考えていい」
「その鱗粉ってのはあれか。蝶や蛾の羽に付着している謎の粉みたいなやつか?」
「その通りだよ。奴らは毎朝、テーマパーク内にあるフェアリータワー屋上に集まり、朝の舞踊と称して空から鱗粉を撒き散らす。吸った者をすべからく虜にする魔法の鱗粉をね」
「妖精の鱗粉、とでも言えばいいのか。で、そいつを吸うと人は漏れなく奴らの虜になって、おまけに言えば妖精へと会うために、どうしてもフェアリーランドに行きたくなっちまうと、そういう訳か?」
今までの話から俺が適当に当たりを付けるとお下劣女は暫し黙り、再び口を動かす。
「大体正解だよ。柔軟な思考が出来るのは弦次郎くんの長所だ」
「馬鹿にするな。その鱗粉の効果を聞いた後なら、誰でも真っ先に想像する事だろうが」
しかしその想像を口に出すのは容易じゃない、とお下劣女は言い切り、更に続ける。
「奴らの体から放たれた鱗粉は空へと散布され、ある時は吹く風がそれを運び、ある時は、鳥がそれを啄み、東京フェアリーランドの外へと持ち出される。そうして鱗粉はさながら花粉のようにして日本全土を渡り、人の口から鼻から入り、結果、吸入した者を無差別に魅了し、魅惑し、虜にした末、この未曾有の大渋滞へと発展していった。掻い摘んで言えば、これが今度の一件のあらましとなる」
「つまり、その鱗粉さえ吸入しなければいい訳だ。いよいよって時にはマスクでもして入ればいいだろ。それより、テレビに出ていたジョージ・マッケンスキーは誰なんだよ」
「あれは操り人形だよ。ついでに言えば、現在フェアリーランドに残っている全ての従業員も妖精の虜と変わり果てている。確認なんて出来ないが、この有様ではもしかしたら国土交通省の人間さえ同様となっているかもしれないし、もっと悪ければ総理から合衆国大統領まで妖精の虜かもしれないね」
「つまりはこの状況にあっても、頼れるものは何もないって事か。完璧に支配されてるな、それ」
「そう。これ以上ない屈辱だよ」
お下劣女は、その目を怒りに滾らせて言う。
元が優秀な奴ってのは、負けたり追い落とされたりすると、耐性がない分、人並外れた屈辱感を覚えるもんだ。俺はあえて、ぶっきらぼうに言ってやる。
「で、どうやってフェアリーランドを取り戻すんだよ。まさか、ノープランとは言わないだろう?もっとも、無計画に事を成すのは俺の得意技だから、それでも構わないんだけどよ」
「作戦らしい作戦なんてないよ。正しい意味で奴らを殺す事は出来ないけれど、妖精には物理攻撃が効くのだからね。鱗粉にさえ気を付ければ、奴らはさして強いという訳でもない」
「だったら、もう解決したも同然だな。何しろ、この俺がいるんだ。腕力で解決出来るようなトラブルなら歴史的英雄とも言える、この俺に――」
刹那。お下劣女は大きく体を動かし、寄りかかってくる。
それと殆ど同時に俺の口は塞がれ、ビッグマウスを放てなくなるが、その代わりに柔らかい感触を覚えていた。
どうもこの口は大見得を切ってやる前に、この親愛なる相棒の唇によって塞がれちまったようだ。
俺はハンドルを握りながらも、その熱っぽい唇が放つ心地よい温度をたっぷりと味わうようにしてから舌を入れてやると、二人して、互いの命と本心でも確かめ合うようにして舌と舌を絡め合い、懸命に、欲望の赴くままに動かす。
怒りと屈辱。あるいは、不安と郷愁。
それらの熱気を孕んだ柔らかく、艶めかしい女の舌。
俺はそれを慰めるかのようにして暫しの間、味わい続けた。
そうしている間は、待ち時間という最も厄介な時間の概念さえも吹き飛ぶからだ。




