戦争
『頑張れ、安藤!』
その日、ブリッジの上では大乱闘が繰り広げられ、親友の安藤は踊るように闘っていた。
その闘いを遠くから眺める俺はというと、必死の形相を浮かべつつホワイトボードを掲げ、振り回していた。
もちろん乱闘中の安藤に俺の応援メッセージを見ている余裕なんかあるはずもないが、場所が場所だ。駆け付けて共に戦ってやる事が出来ない俺には、これくらいしかやれる事がなかった。
「安藤、ぶん殴れ!そこだっ!おっと、そいつはいけねぇ。体格が違いすぎる。一旦、距離を取るんだ。捕まるんじゃねぇ!」
ホワイトボードを掲げながらも身振り手振り忙しなく手足を動かし、そのついでというか、勢い任せに俺は口をも動かすが、それで戦況が変わる訳でもない。
男が親友のために、してやれる事がねえ時ほど己の無力感を感じる事はないって思うが、せめて孤独に戦う親友の応援くらいはしてやりたいんだ。
空をつんざく程の絶叫と、人と人がぶつりかり合う闘争の音、おまけに言えばこっち側で目を剥き大乱闘を観戦している野次馬の声。
誰もがブリッジの上で繰り広げられる戦いの行く末を、固唾を飲んで見守っている。
正直、こういった争い事はこっち側でもたまにある事だし、そう珍しい光景でもないんだが、今回の騒乱は今までで一番大きくて酷くて暴力的だった。
どれ程の時間が経ったのかな。
乱闘騒ぎが収まった頃の安藤って言ったら、そりゃあもうボロボロで軽トラの荷台の上に載っていた僅かばかりの食糧も根こそぎ奪われちまってた。
※※※
『生き残ってるんだから、俺は東京フェアリーランドへ行くぜ。そう、例え今日の飯がなくてもだ』
明くる日の交信時間、もの時間、痣だらけの体を抱えた安藤はホワイトボードを使って、決して諦めないという意思を告げた。
何とも往生際の悪いその姿に深い感銘を受けた俺は取り急ぎ、安藤へとメッセージを放つ。
『その意気があれば行けるぜ、兄弟。この俺が言うんだから間違いはないな。それより昨日のフットワークから側面へ回り込んでの左フックは良かった』
『結局はこの様だけどな。こんな事なら学校なんか行かずに路上格闘の勉強でもしておくんだったぜ。ここでは物理や数学の授業なんかよりずっと役に立つ』
ホワイトボードを使いメッセージを返す安藤が前歯を見せて、爽やかに笑う。
その姿に感化された俺もいつも以上の声を上げて笑ってやった。
大丈夫だ。ブリッジとは言え、売人はやって来る。
乱闘騒ぎなんてものは闘争中こそヒートアップするものだが、収まった後は一時的にとはいえ、落ち着きを取り戻すものだ。
そうしたら売人の奴らが、赤子が見たって嘘臭いと思うような笑顔を浮かべてぞろぞろとやって来るだろう。
そうだ、大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせるようにしていた。
それから、俺の踏んだ通り、乱闘騒ぎが終わって一日もしない内に命知らずの売人たちはブリッジ上に現れた。
望遠鏡で確認した所、奴らの売り物は救急用の薬や包帯などが多いが、ちゃんと食料や飲料も持って来ている。しかも、いつもより売人の数は多いし、ブリッジの上は小康状態なもんで、渋滞組による激しい売人の取り合いも見られない。
しかし、その一方で当の安藤は車から動こうとしなかった。
すぐそこまで売人がやって来ているってのに、あいつはまるで石像にでもなっちまったかのように動こうとしないんだ。
『一体どうしちまったってんだ、兄弟よ。売人はそこにいるんだぜ。動けないほど酷い怪我って訳でもないだろう』
交信の時間、いつものように俺がホワイトボードを掲げ、疑問をぶつけると安藤は少し考えるような素振りをしてからペンを滑らせた。
『乱闘騒ぎで財布を落としちまった』
現金を持ち歩いていたのか。
今の時代、クレジットの方が主流で現金は緊急時用に最低限って世の中なのに、昔気質な兄弟だな。俺は素早くホワイトボードを掲げる。
『一体どれくらい銭を入れてたんだよ、兄弟』
『ほとんど全部だ』
全部だって?おいおい、そんな馬鹿な事ってあるのか。
俺が青い顔をして手も動かせないでいると、安藤は続けざまにボードを掲げてきた。
『心配するな、兄弟。端金ならポケットに残ってるんだ。十円チョコが出回るまで俺は待つさ』
『奴ら、守銭奴の売人が十円チョコを十円で売ると思うか?こんな事を言いたくはないが、その考えはチョコレートよりも甘いぜ』
※※※
あれから数日間、安藤の奴は何も口にしなかった。
水こそ買い置きがあるから良かったものの、売人は十円チョコを持って来るどころか、日に日にその数を減らしていく。
しかも当の安藤の奴は運転席で考え込むような仕草を見せたり、荷台の上に寝そべって、いつまでも空を見上げてみたり、とにかく毎日を気だるげで憂鬱そうに過ごしてて、俺はもう見てられなかったよ。
だから、ある日の交信の時間、俺は強いメッセージを掲げてやる事にした。
『こうなりゃ、ぶん奪っちまえよ。弱肉強食の摂理を見せてやるべきだ』
そのメッセージを確認した安藤は困ったように笑ってからボードを掲げた。
『そいつは出来ない相談だな』
『おいおい。まさか、負けるのが怖いなんて言うんじゃねえだろうな。俺たちは戦争してるんだぜ、兄弟。飯を食うって行為は戦争に勝つって事だろう』
『もちろん俺が財布を奪われていたなら戦ったぜ。例え勝ち目がなかったとしてもだ。だが、俺は奪われたんじゃない。自分で落としちまった。これがどういう意味かわかるか、兄弟』
『わかるぜ。恰好付けてるんだよな。だが、それで死んじまったら元も子もない』
『正解だよ、兄弟。確かに俺は恰好付けている。しかし、それと同時に最近はより重要な問題についても考えるようになっていてな。それも戦争の事についてさ』
『わからねえな。戦争について考えるってのは、自分の命よりも重要な問題なのかよ』
『戦争ってのは、いつだって何処かの誰かが理不尽に何かを奪われる事から始まるもんだ。もちろん何にしたって、初めの内は些細な小競り合いに終始するかもしれないが、それが長く続けば乱闘へと拡がり、戦争へと繋がる。つまり、全てはきっかけだ。俺はな、戦争の火種になりたくないんだよ。俺が人から奪う事で、このブリッジを戦地にしたくないんだ』
少しだけ真面目ぶった顔になっていた安藤は、その後、「一丁前に道徳なんて説いて恥ずかしい事をした」とか、ばつが悪そうに言うと、取り繕うようにして下ネタを吐き出し始めるが、その切れは悪く、俺は腹の底から笑えない。
一体どうしちまったんだよ、親友。俺だったら例え鬼人と化しても前進を諦めねえぜ。そしてお前もそういう奴だったはずだ。だから俺たちは親友になったはずだ。
出涸らしの苦しい下ネタを続ける安藤の姿を眺めながら、俺はそんな風に思っていた。