親友
親愛なる友人たちよ。
聡明で、読書家で、そして、常日頃からクソみたいな渋滞に挑んでいる愛すべき同士たる君たちには、俺の置かれている状況、あるいは惨状って言った方がいいのかな――
仔細に説明しなくても、おおよその事情は掴めた事だろう。
無論、ハリセンボンのハリみたいに細やかな疑問は女の髪の毛の数くらいに残っていると思うが、まあ気にするな。残された疑問は次第に溶けていくからさ。それこそ年端も行かない少女が一心不乱にしゃぶってるあの飴玉みたいにね。
さて、本題といこうか。
今日からは俺の親友、安藤の事について記録を残していきたいと思う。
この安藤ってのは、元々は青森の方で安藤電機店って個人店を営んでいた渋いおっさんなんだが、この度の東京フェアリーランド無料開放の件で一大決心決め込んじまって、俺と同様、未曾有の大渋滞へと一人、体と車だけで挑んでいる何とも見上げた根性の野郎だ。
ちなみにこの親友、俺の車からはずっと離れた位置、斜めに向かって見上げた先の巨大ブリッジの上にいるもんで、根性と同様、実際に見上げる形にもなっている。
もちろんこんな位置からじゃあ絶叫したって声の一つも届きやしないが、そんな状況でだって、人は出会う事さえ出来れば親友になれるものだ。
物理的な距離は人の出会いを制限出来ないし、支配なんてもっと出来ない。
今現在、この馬鹿みたいに並べてある文字の羅列を通して俺と君が同士として出会っている事からも、これは明らかな事実である。
拾ってきた女狐みたいにヒステリックなクラクションの音が聞こえる――
「やんのか、エキノコックス!」
耳に届いてくるけたたましい音に飛び起きた俺は、一面を車に染めた鉄の海に身を置いているという現実を認識する前に頬を強烈に打たれ、その痛みに目を覚ます。
「誰がエキノコックスだ」
午前十一時。
夢から覚めた俺が最初に目にしたものは、下劣と暴力を兼ね備えし同乗者が口を尖らせる姿であった。
「こっちは弦次郎くんが言う通りの時間に起こしてやったというのに、いつまで寝惚けた狐みたいな顔してるのよ。安藤くんはしっかり一人で起きてるんだから、もっとしゃんとしなさい」
このお下劣女は田舎に残してきた母親みたいな事を言うが、俺は気にも止めずに大欠伸を見せつけてやる。
それというのも女ってのは時々、男を子供扱いしたがるものだし、いちいち言い返すのはナンセンスを極めると思っているからだ。
俺くらい社交能力に優れてくると、こういう時の対応も紳士的かつ、スマートなものさ。
そんな風に欠伸をかましてやっていると、次には、がつんがつんと農民が鈍器で一揆でも起こしているような音が遠くから聞こえてきた。
「鉄の塊をぶっ叩く音が聞こえてくるじゃねえか。久しぶりに脱落者が出たのかよ」
俺が金剛石のように輝く白い歯を見せて言うと、助手席に座るお下劣女が言葉を返す。
「もう一時間くらい前からやってるよ。起こそうかと思ったけど、弦次郎くんがあんまり気持ち良さそうに寝息を立てているから巨乳妖精の夢でも見てるんじゃないかと思ってね。起こすのはやめておいた」
「そりゃあ俺もストレス解消はしたいけどな。この音の遠さだとずっと前の方の車だ。八百メートルは前だな。朝からそこまで走るのは面倒だし、起こさなくて正解だぜ。しかし、あの辺で脱落者って言うと、吉沢のジジイ辺りなんじゃねえのかな」
「ああ、吉沢くんね。彼は最近、水虫をこじらせて苦しんでいたからな。弦次郎くんも靴下は毎日替えるんだよ。水虫でリタイヤするのでは恰好も付かないだろう」
「今の時点で恰好も何もないだろうが」
俺はふてぶてしく返しながらも、これで少しばかり前進する事に胸を弾ませた。
この東京まで続く大渋滞の中、車中生活も長くなると、少ないながらも脱落者が出る事もある。
もうちょっと昔だったら、脱落者も短い間隔で出ていたんだが、今現在でも列へ並んでいる奴らときたら、この状況に慣れちまったもんで、最近では車を捨てて去っていく脱落者が出る事は稀だがな。
そんな事情で運転手に逃げられ、道路に転がる鉄塊と化した車は通行の妨げとなるから、この辺りで管を巻いてる奴らで集まって持ち主なき車をブッ壊してやってるって訳さ。
何とも面倒で手間がかかりそうな話だが、意外にもこいつがレトロな格闘ゲームのボーナスステージみたいでテンション上がってな。
お陰でどこかで脱落者が出ると、みんな我先にと集まって破壊活動を楽しみやがる。
多分、もう今から走って行っても俺の分は残ってねえくらいには人気のイベントだぜ。しかも破壊が終われば後続の車も前進出来るし、ちょっとしたお祭りってとこだね。
「それはそうと弦次郎くん。もう安藤くんは出て来てるよ。早く答えてあげないと可哀想だ」
そうだった。安藤との素晴らしき会話をする時間だったんだ。
大急ぎで動く俺はホワイトボードとペンに望遠鏡を抱え、車の外へと躍り出る。
さっそく望遠鏡で外観だけはご立派な超巨大ブリッジの方に視点を定めると、親友である安藤が自慢の軽トラの荷台の上に立ち、ホワイトボードを掲げているのがわかる。
高らかに掲げられているそのボードを確認する俺はメッセージを注視する。
『よう、兄弟。どうもそっちじゃ脱落者が出たようだな。前の方じゃ随分と派手にやっているぜ。今回はお前、参加しないのかい』
望遠鏡の向こうには爽やかな笑顔を向けたままの安藤。
俺はその爽やかさに負けないくらいの玲瓏無垢と言ってもいいくらいに高貴極まる笑顔を浮かべてやると、手にしたホワイトボードへ文字を書き、親友と同様、車のボンネットに立ってそいつを掲げて見せた。
『随分前の方だ。今から走って行っても、どうせ俺の分は残っちゃいないだろう。それに、助手席のお下劣女が起こしてくれなかった』
望遠鏡を手にこちらを見る安藤が頷く。
それからあいつはメッセージを確認した旨のサインを出すと、再びホワイトボードにメッセージを書き、高く掲げた。
『違いない。こんな時代にレトロなゲームのボーナスステージを楽しめるんだ。実際、ターゲットの車は既に虫の息だ。既にタイヤのホイールくらいしか残っちゃいないぜ』
『やっぱりかよ。畜生、次に脱落者が出た時には俺も絶対に参加してやるぜ』
確認次第、サインを出す俺もホワイトボードで返す。
ちょっとした都合で携帯電話を失くしてしまった安藤との交信はいつもこんな感じだった。
※※※
二、三十分は安藤と語り合ったかな。
聞く所によると、どうもブリッジの方は治安悪化の一途を辿り続けているらしい。
向こうはどこまでも長く伸びる陸橋の上での渋滞生活を強いられているせいだ。
その上、ブリッジという性質上、外観の方がどれだけ立派でも、橋の上に商店は建たないお陰で向こうにいる渋滞仲間たちは慢性的な食糧品及び生活用品不足から来る窃盗、強盗が絶えないと安藤は言う。
そんな状況だからか、俺たちにとって生命線となる売人たちも治安の悪さに怖気づき、日に日にその数を少なくさせ、今では売人を捕まえるのも命懸けって塩梅のようだ。
「安藤の野郎、大丈夫なのかね」
狭い車内で呟く俺に、助手席に座るお下劣女は不穏な言葉を返してくる。
「何だか安藤くん、以前に比べて随分と痩せたよね。彼、ちゃんと食べてるの?」
「確かにな。あいつも初めの頃は、斬新なダイエットが出来ているって喜んでたのに、実際は食料事情が厳しいんだろう」
元々は肥満気味だったというのに、ここ最近で急激に痩せた安藤は、今では日々のトレーニングと減量に打ち込み過ぎちまったボクサーみたいな体になっていた。
長い渋滞生活で瘦せ細ってしまったあの身体。思い返す俺の頭の中には嫌な予感が過ぎるようで気分のいい物ではなかった。