唄
「さて。そろそろ行くかい、弦次郎くん」
お下劣女は焦点の定まらない虚ろな目をしながら起き上がり、続けた。
「最近は寝てばかりいたから暇で仕方がなかったものだよ。まあそのおかげで型破りな騎士様の介抱を受けるという世にも奇妙な体験が出来たのだから、つまらない風邪を引くのも悪い事ばかりではないね」
全く、口の減らない相棒だ。きっと、こいつは死ぬ瞬間までそんな軽口を叩き続けるのだろう。
だからこそ、俺と馬が合うのかもしれないが。
俺は切り返す。
「馬鹿言ってるんじゃねえよ。最近はろくに飯も食いやがらない癖に、そんな体で行ける場所は天国か地獄かくらいだろうが」
「あたしはどちらも願い下げだ。どうせ行くなら無何有郷か黄金郷辺りがいい」
言いながら立ち上がるお下劣女は、ふらつき、バランスを崩す。
俺はすかさず駆け寄り、その身体を抱きかかえて言った。
「なあに、東京フェアリーランドなら行けるぜ」
ただし、その身体を治す事が先決だ、と俺は付け加えて紳士的に微笑む。
そしてこの減らず口ばかり叩く相棒をやや強引な形で背中へと背負い込み、歩き出した。
「弦次郎くん、これは幾らなんでもお勧め出来かねるね。そりゃああたし達もここまで随分な距離を進めて来たけれど、この先だって長いんだ。人一人を担いで行ける程、この下水道は甘くないよ」
「うるせえな。俺は最もハードでデンジャーなミッションをこなせる男なんだよ。女の一人や二人を背負って行くくらい何でもない」
俺は構わずに歩を進め、言葉を続ける。
「何も埼玉まで行く必要はねえしな。まずは医者だぜ。地上へ続くマンホールを探すんだよ」
「そんな物を探してどうするんだい。それを見つけたとしても、あれは普通の方法では開けられやしない。弦次郎くん自慢の腕力だって、通じやしないよ。あたし達は牛浜くんが持つ伝手を辿り、彼らが不法に開閉可能としたマンホールを目指すしかないんだ」
こいつめ、まだ口答えするつもりか。
あんな秘密兵器まで用意している癖に、自分の病気のせいで歩みを止めたくはないって訳かよ。こいつはどうも、まだ俺という偉大な男の事がよくわかっていないようだな。
俺は軽く笑いながら言う。
「それこそ大甘だぜ、相棒。俺はもう知っているんだ。執事のドローンが抱えた荷物の中には、マンホールを無理矢理こじ開けられる大それた器具が入っているって事をな」
「……見たのかい。確かに、牛浜くんが嘘を吐いていた時に備えて用意はしていたけれどね。それでも、こんな風にあたしを背負い込んだまま場所もわからないマンホールを探すのは無謀だと言うんだよ」
無謀だって?
それを聞いた俺は歩きながらも笑っちまったね。
大笑いしたくなっちまったけど、あんまり笑うとバランスを崩すから我慢して小さく笑う。
そうして俺の背中で目を丸くしているであろうお下劣女に言ってやるんだ。
「無謀だなんて、今まで幾らでも乗り越えてきたさ」
※※※
ここからは時間と運との勝負だ。
まあ俺は持ってる奴だから、運の方は問題ないとして時間の方はより重大だ。
俺は医学の知識なんか、とんと持ち合わせてはいないが、もしも大きな病か何かだった場合、早期の治療が必要となるのは言うまでもない事だろう。こんな状況にも活路を見出すためには、迅速な行動をしなければならない。
お下劣女を背に早歩きでコンクリートの道を行く俺は、やがて遠く埼玉へと続くであろう洞窟に辿り着き、口を開く。
「そういやお前が寝てる間に周囲を調べたんだがな。あの辺にマンホールはなかったぜ。だから今度は、ここを抜けた先にある下水路で脱出口を探すぞ」
「無茶苦茶な事を言うものじゃない。弦次郎くんもここに来るまでに散々体験してきたでしょ。水路はまだしも洞穴をこの状態で進むのは自殺行為だ」
「大丈夫だ。俺はこの世の誰よりも強い」
「喧嘩の話なら役には立たない!」
痛い所を突きやがって。
その後もこいつといったら、あたしを置いて行けだの、病気が感染するかもしれないだの、このままでは共倒れだの、文句ばかり言っていたが俺は構う事なく洞窟を進んでやった。
迅速に。注意深く。スマートである事にもこだわらずだ。
ざらざらした硬い土壁に手を突き、ぬかるんだ大地を強く踏みしめる。
流れる水流に足を取られないよう、腰に力を入れ、飛んでくる蝙蝠が顔面に当たる事も構わずに。
途中、浄化槽にでも行くのか流れる排水とお別れをすれば気温は急降下し、服に纏わり付いた汗が体温を奪いにくる。
段差を行き、道なき道を越え、生意気にも人間相手に威嚇してくるおかしな体色の蛇を蹴飛ばし、掴んでは投げるかのごとく蹴散してやるも、決して速度は落とさない。
そうさ。いい調子だ。
俺は勢い付き、更にペースを上げるが、突如として現れた泥で出来た沼のようになっている部分に足を取られる。
体重も手伝ってか、一瞬でふくらはぎまで沈んでいく。
こんな場所で沼にはまったような感覚に襲われ、焦ってしまった俺は咄嗟にお下劣女を下ろして避難させると、力一杯に足を引き抜いた。
長靴を一つ持っていかれたが、別に平気だ。
古代人はみんな靴なんて履いてなかったし、気に留めるような事でもない。
相棒を背負い直しながらも歩調を緩める事なく先を行く。
しばらく歩くと長靴を失い、剥き出しになった右足が痛くなってきた。
いつからなのか知らないが、曲がった金属片の先が足の指の間に刺さってやがる。
悪意でも持ってるんじゃないかと疑いたくなるような、固くて尖った小石が混じっているせいもあり、ソックスのあちこちから血が滲み出ているが、別に何てことはない。
俺は頑丈だし、人間の足の裏ってのは特別、強靭に出来ているもんだからな。
そういえば、ここに来る前に綺羅星ちゃんから長靴を貰っていた。
もう随分昔の事のような気がする。あの子、元気でやってるかな。
俺はあの日、別れを告げた美少女から受け取っていた長靴を出し、履き直すと、心の中で彼女にありがとうを告げ、元気溌剌といった具合に歩く。
洞穴内の固い壁に何度かぶつかっている内にライトの調子が悪くなってきた。
たまに点滅しやがるが、進む方向は一つなんだから別にどうという事はない。
第一、ライトを失ったとしても、心の灯りまで消える事はないんだ。俺は汗を拭うと、どろりとした感触を覚える。
ああ、畜生。綺羅星ちゃんから貰ったハンカチが血で汚れちまった。
すまないな、必ず綺麗に洗うから許してくれよ。
狭い洞穴が更に狭くなってきた。くれぐれも足取りには注意しなければならない。
さっきから鼠でも鳴いているのか、それとも笑っていやがるのか、ちっちっちっという不快な音が聞こえる。
またシューベルトでも聞かせてやろうか、なんて俺が思った瞬間、ばさばさと音を立てて、まるで何かから逃げるように蝙蝠の大群が飛んでくる。
屈み込めば背中のお下劣女に直撃するから、あえてそいつを仁王立ちで受け止めてやる。
少しだけ痛いが、なあに、全く問題ないさ。俺は頑丈で強く、諦めも悪いし、風邪も引かない。
つまり、余裕って事。
蝙蝠が去ったかと思うと次には、ごおごおと風が吹き抜けるような音が耳に届く。
先に河川か何かに繋がるような道でもあるのだろうか。
丁度いい、脱出するに当たってはマンホールにこだわる必要もないと思った側から、俺は前方にぎらりと輝く二つの目玉があるのを確認した。
乏しい光でそいつを照らしてみれば、比較的小ぶりのワニだった。
おそらくは下水や川に放流されたペットの成れの果てだろう。だが、生まれた時から野生で生活してきたそれに比べれば、ずっと弱いに決まっている。
特別でかいって訳でもないし、全く問題ないぜ。何しろ暴力は俺の得意分野だし、どっち道、今更引き返す選択肢なんて有り得ない。ぶちのめしてやるとするさ。
俺は襲来した敵から目を逸らさずに背負ったお下劣女をゆっくりと滑らせるようにして地へと落とす。
出来るだけ丁寧に下ろしたつもりなんだが、どしんと音が鳴る。
すまないな、相棒。ちょっと喧嘩してくるから少しだけ待っていてくれよ。
そのまま腰を落とし、臨戦態勢を取ってやる。
すると、ワニの野郎、一丁前に大口を開けて挑発してきやがった。
俺は思わず笑みを浮かべると、やはりポーカーフェイスを貫いたまま後ろを飛んでいる執事のドローンを掴むと同時に、野郎の大食い上等とでもいった歯列が見える口へとめがけ、投げつけてやった。
考えた通り、ワニの奴は反射的に喰えもしない執事へと噛み付いた。
その動きとほとんど同時に前へと駆け出していた俺は、大きく跳躍し、ワニの背中に飛び乗ると、身を捩じらせ、両腕に全霊の力を込めてワニの口を塞ぐ。
ワニの奴は頭を振って抵抗するが、俺は決して力を緩めてやりはしない。
そして奴が頭を振るのに疲れてきた頃だ。一か八か、一瞬の隙を突くようにして腕を滑らせ、野郎の妙にギラギラした目ン玉を指で抉ってやる。
悲鳴を上げ、仰け反るワニ野郎にチャンスとばかりにもう一発決めて片目を破壊する。
更に野郎が苦しんでいる隙に、もう片方の目ン玉も頂戴してやろうと思ったが、俺がそれをやるよりも前に奴は凄まじい勢いで前方を駆け抜けるようにして俺たちが来た道へと逃げ去った。
俺はお下劣女を背負い直し、休む事もなく前へと歩き出す。
背中からは、か細い声が聞こえてきたが、俺は構う事なくのしのしと歩いてやった。
「もう、いい加減にあたしを置いて行ってくれ、弦次郎くん……」
悪いが、もうそいつは聞き飽きた。
大体どうして、この俺という偉大な男が、こんな地獄みたいな所に女を捨て置いてまで先へと行かなければならないのかわからねえし、返す言葉はいつも通りだ。
「何も心配するな。俺は歴史に名を残す傑物だ」
お下劣女は呻くように返してくる。
「弦次郎くん、あちこち傷だらけだよ。このままでは共倒れもいい所だ……」
さっきから会話のキャッチボールがなってねえぞ、相棒よ。突っ込みはどうした。
俺はお返しとばかりに、軍歌でも歌うように――
あるいは、子守歌でも歌うようにして続けた。
決して、この足を止める事なく、先へ先へと急ぎながら。
強いだけでは生きてはいけない。
賢いだけでは生きてはいけない。
時には非情さだって必要だ。
だからといって、生き抜くために優しさの全てを捨ててしまったら、生きる喜びさえ失くしてしまうだろう。
最もハードでデンジャーなミッションをこなせる男は、強く、賢く、時に非情で、大切な人を助けてやれる優しさをも併せ持つものだ。
そしてこれは、俺が俺であり続けるための美学であり、矜持であり、生き方でもあるんだ。
俺は自分が得意としていた人を殴って倒す暴力が通用しない本物の地下世界の只中で、ある意味、自分に言い聞かせるようにして語る。
歌うようにして何度も、何度も。勇気付けるように。鼓舞するように繰り返す。
そうしている内に背中から聞こえてくる弱弱しい声は聞こえなくなった。
けれど、その代わりに幾分か落ち着きのある寝息だけが俺の耳に届くようになった。
以前に書いて失くしてしまったポエムは呆れられたものだが、どうやらこいつは効果ありのようだ。
そうとわかれば、こっちの物だ。生き方を通して俺の芸術をわからせてやる。
さあ、次にこいつが泣き言を始めた時には、どんなに勇敢な歌を聞かせてやろうか、なんて俺が考えた始めた矢先、自分の足が土ではなくコンクリートを踏んだ事に俺は気付いた。




