湖の騎士
「それにしても、弦次郎くん。君は一体、どういう奴なんだい。あたしはこれでも人を見る目はあるつもりなんだが、どうにも君という男は型破りが過ぎて計りかねる」
狭い配電室に座り込むお下劣女は栄養食品を投げ渡してくると、ぶっきらぼうに言い放った。
俺はその美味くも不味くもない、何とも味の感想が出しにくい食品の袋を開け、一口齧り、水を飲んでから言った。
「どういう奴も何も、小さな頃から今に至るまで星の数ほど悪い事をしてきた、ただの男だぜ。まあ洒落にならない悪事ってのは、三つか四つくらいしかしていないが、そいつは重大な悪事ではある。それも、おっ母さんを泣かせちまうっていう特大の悪事さ」
「些末な事だよ。何といっても、弦次郎くんを育てるんだ。きっと、母親殿も涙の海の一つや二つを作る事は覚悟の上だろう。ことによると、それは世界中の母という母が当然のように覚悟をしている事かもしれないが」
お下劣女は、まるで全てを理解しているかのような口ぶりで言うが、不思議と腹が立つ事もなかった。
こういうのを聞き上手って言うのかな。妙な気分になっちまった俺は、柄にもなく昔話を始めていた。
「中学生から高校生くらいの頃だったかな。俺はプロの作家になるって息巻いて家出したり、もっと酷い時には、俺は平安三十六歌仙の一人に名を連ねるって絶叫してから家出したり、まあ青臭い少年ならよくやるような悪事ばっかりしてたんだ」
平安三十六歌仙とは言っている自分でさえ笑ってしまうが、黙って聞くお下劣女はというと、全く笑いもせず、侮蔑の表情も見せず、ただ、先を促すように目だけを輝かせていた。
こいつとは長い間一緒にいるが、この時が初めてだったかな。どこか人間離れしたような、おかしな雰囲気を感じたのは。
「まあ何度家出を繰り返しても結局は毎度の事のように、くたびれた編集者をぶん殴って帰るんだけどな。ついでに俺の夢を笑ってきた街の悪タレどもも、ここぞとばかりに袋叩きにしてさ。勢い余って気付いた時には北海道全域締めちまったんだが、それもいい経験だったとは思ってる。ただ、おっ母さんには悪い事をしちまったよ」
「その分、これから孝行してやればいいじゃないか。プロの作家にでも何でもなって、あの若さを拗らせた綺羅星とかいう子を、お嫁さんとして連れ帰ってね。美少女な彼女の事を思い返すと胸が痛いんじゃないか。ねえ、弦次郎くん」
さっきまで妙に聡明な雰囲気を醸し出していたお下劣女は態度を一転させ、今度はからかうように言った。
「馬鹿言うな。俺が女との別れの一つくらい気にするかよ。俺はそこまで腑抜けじゃない。それに、袖触れ合うも化生の縁って言うだろう。風が吹けば俺たちが再会を果たす事だってあるさ。そう、ロマンチックにな」
「それを言うなら多生の縁でしょ。化生では妖怪だ」
「俺は妖精に会いに行くんだから、化生でも間違いではないんだよ!」
歩き回り、腹も膨れた俺たちは、ひとしきり無駄話に華を咲かせる。
それから小一時間も経った頃、俺たちは大いなる空飛ぶ執事こと、ドローン様が担いだ荷物から寝袋を取り出し、続く冒険に備えて一眠りする事にした。
※※※
「こりゃあ、どうかしてるぜ」
居心地の悪い下水道で、ゴミでも固めて作ったんじゃないかと疑いを持ちたくなる程度には汚らしく、硬い床の上で起きた俺たちは、配電室跡の下から続く路を歩んでいた。
この奥から襲いかかるようにして流れて来る、より一層に酷い匂いって言ったら、そりゃあもう悪臭だなんて言葉じゃあ言い表せないもんだった。
おまけに道幅も随分と狭くなったもんだから、俺が前を歩き、お下劣女は後ろから付くように歩き進むしかない。
顔を顰めながらも俺、お下劣女、そして大いなる荷物持ちのドローンといった順に隊列を組み、歩く。
「酷い刺激臭だねぇ。きっと硫化水素の匂いだろう。くれぐれも呼吸には注意するんだよ、弦次郎くん。さもなければ命はないよ」
「この程度の匂いで俺がくたばるかよ。何の心配もいらねえ。俺と言う男が残す偉大な足跡を消す事は、毒ガスにだって出来やしないんだ」
「それは頼りになるね。しかし偉大な足跡を残すのもいいが、くれぐれも水路に落ちたりはしないでくれよ。救命具を付けているとはいえ、不用意に水に浸って流されるような事があれば、命に触る」
「それにしても、こんな物まで用意していたなんて本当に周到な女だぜ」
俺は体に装着した救命具を軽く撫でてから言った。
「弦次郎くんにも、そろそろ下水道の怖さが分かってきただろう。あたしが周到で抜け目がなく、計算高い女で良かったね」
「そんな皮肉を込めた嫌味を言うもんじゃねえぜ、相棒」
前を行く俺は大仰なポーズを取って軽口を叩いて見せるが実際の所、不安の種はあった。
とは言っても、別に俺自身の心配ではない。
世界屈指のタフガイにしてアウトローでもあり、今では冒険野郎にまでなっている俺だ。
下水道にせよ、紛争地帯にせよ、どこへ行ったって生き抜き、目的を達成する自信がある。
しかし、お下劣女は別だ。
今の所、俺はお下劣女の事を女扱いしていないが、あいつだって生物学的には女なのだ。
こういう時、身体能力で大きく不利を取られるのは明らかであり、俺の想像を越えていたこの過酷な環境に参ってしまう可能性はある。従って、有事の際には俺の強さを見せてやらなければならないだろう。
俺は一人、考えながらもお下劣女と共に先へと進む。
西から東から流れてきた汚水が合流し、水流は更に勢いを増す。
一帯に湯気が立ち込め、気温を上昇させていき、視界をも奪う。
俺たちは壁に手を突いて慎重に、時に大胆に、前へと進む。
そうしてしばらく歩くと足元のコンクリートは柔らかく、湿った土へと変わり始めた。
そのまま少し進み、視線を下げてみれば、前には二メートルほどの小さく切り立った崖のような部分が出来ており、目を凝らして辺りを探ると、下へと続く縄梯子のような物が見えるものの、大きく劣化したそれは、とても使えそうにない。
「おい、お下劣女。いよいよコンクリートもなくなって洞窟みたいになって来たぞ。この道、海へと続いてるんじゃないだろうな」
俺は笑みを浮かべながら後ろを振り返り、お下劣女の表情を観察しながら言った。
「どうしたんだい、弦次郎くん。まさか、この程度の距離を飛び降りるのが怖いなんて、そんな冗談を言うつもりかな?」
お下劣女は平気な顔をしていつものように返してくる。
その声音は、いかにも余裕がありそうだったが、額には大粒の汗の玉が幾つも出来ている事は隠しようがなかった。
「そいつは冗談としてもセンスがない。俺を怖がらせたいなら、それこそ着地点にブラックホールでも設置しなきゃならねえよ」
お下劣女が必死に強がっている様子に可笑しくなっちまった俺は、笑って言うと華麗に飛び降り、着地してやる。それから俺は、お下劣女を見上げ、太く、逞しい両腕を大袈裟に上げてから言ってやった。
「俺の胸に飛び込んできな、お下劣プリンセス」
「これはこれは、大した騎士様だ」
「湖の騎士とでも呼ぶがいいぜ」
軽口に軽口で返す俺の頭にふと、イギリスの古典文学であるアーサー王伝説の事が浮かぶ。
そういえば、あの本に出てくる湖の騎士・ランスロットは妖精に育てられたんだっけな。
確か名前はー
「……重いよ?」
ふと、脳裏に過ぎったその妖精の名前を記憶から手繰り寄せる前にお下劣女が飛ぶ。
俺は隕石のように降ってくるその女を、力強く、スマートに抱え込んだ。




