地下
親愛なる読み手であり、同士足り得る皆さんへ。
まずは皆さんが、このクレイジーな物語を読んでくれている事に感謝の意の一つでも述べたい所だが、俺の旅はまだまだ続く。何しろ東京は遠いからな。従って、礼を言うにはまだ早い段階だと言えるだろう。
だからと言っちゃあ何だが、今は敬意の念だけを表明しておく事にする。
がむしゃらに、全力に、冒険の記録を書き留める事でな。
さて、皆さんからしちゃあ、奇妙で謎めいて、何を考えているのか計りかねる、取り柄といったら巨乳だけっていうお下劣女の事が気になってきたんじゃないかと思う。
その事について、先に言っておくと俺はこの品のない相棒、お下劣女の名前を知らない。
知らないというか、出会い頭にあからさまな偽名を名乗られて、本名は不明って言った方がいいだろうな。
そういう訳で、いちいち女の過去をスコップで掘ったりしない男気溢れる俺は、長い事、お下劣女と呼んでいるんだが、こいつに似合っているせいなのか、ユーモア溢れるそのニックネームはすっかり定着しちまって、今では多くの渋滞仲間からお下劣女と呼ばれている。
もちろん、ちょっと丁寧な奴なら『あなた』とか『お前』とか呼ぶ事もあるけど、まあ少しばかり仲良くなった奴なら、敬意を込めてお下劣女と呼んでいるって状態だ。
皆さんからすれば、そんな事は有り得ないって思うだろうが、皆さんの母親だって、神を気取った親父のことを、『ねえ』とか『ちょっと』って呼ぶだけで決して本当の名前を呼ぶ事はないだろう?
もしかしたら、あれってお下劣女と同じで本名を知らないのかもしれないぜ。
それと全く同じというか、似たような話さ。
ところで、この先の物語の事なんだけどな。
しばらくはお下劣女と二人きり、暗い下水道を歩く事になる訳だし、この機会に相棒たるお下劣女の事を手記に記して行く事になると思う。
もちろん特筆すべきトラブルがあれば別だが、所詮は単なる下水道だし、この俺の強さを以てすれば、別段、特記すべき出来事もないってもんだ。
それにしても、ここは本当に酷い臭いだよ。
吸っても吸っても全く気分の悪くならない普通の酸素ってものが、恋しくなる程だぜ。
埼玉まで辿り着く頃には綺麗な空気ってものに恋愛感情を抱くようになっていないか、今の心配の種はそれくらいのものさ。
※※※
「おいおい、酷い匂いだな。まるで世界中の汚物を集めて地獄の釜で煮込んだみたいな臭さだぜ」
「ここはまだいい方だと思うよ。降りたばっかりだし、人が通った跡も見られるからね。少なからず整備はされている」
「だったらこの先、まだ匂いは酷くなってくってのか。いよいよ地獄の鬼どもも、お手上げって所だな」
俺たちはマスクを装着し、長靴を履き、ライトを片手にして暗い下水道を歩く。
この酷い匂いが立ち込める中、マスクをしなくても平気な顔でいられるのは栄誉ある荷物持ちの執事にして冒険野郎こと、ドローン様だけである。
奴だけは文句も言わずに大量の荷物を掴んだまま、主人たるお下劣女の後ろを悠々と飛んでいた。
「しかし暑いな。下水道っていったら、もっと寒い所だと思ったんだがな」
「お湯が流れているからね。しかも奇妙な生物やら鼠の死骸やらがぷかぷかと浮いているよ、弦次郎くん。ほうら、そこを見て。あんなにおぞましい物が……」
お下劣女は三流ホラー映画のエキストラのような顔をして見せ、下水の方を指差した。
「餓鬼みたいな事してるんじゃねえよ。この俺が、虫やら鼠ごときを怖がるはずもないだろうが。俺を誰だと思ってる。俺だぞ、俺」
「その【俺】っていうのは何者で何様なんだい」
口ではきつい事を言うものの、お下劣女は顔を緩ませていた。
まあこんな地獄の釜の底みたいな場所にあっても、俺のようなナイスガイと二人きりになれば、女として喜びを禁じ得ないって所なんだろう。これだから男前は困るぜ。
二人して、口を動かしながらも足は止めずに進む。
暗く、湿っぽく、汚らしい道を右へ曲がり、西へ歩き、前へ進めば、引き返すようにして歩き、そして南へ。ただ進む。
それも、下水道内部は猛烈な臭気を発するだけではなく、迷宮のように入り組んでいるため、目的地への方角が頭でわかっていても、進行のためには明後日の方向へ進まなければならない事もままあるせいだ。それがこの下水道というダンジョンの最も恐ろしい所であった。
その恐ろしさと言ったら、自分たちがいる現在地点が把握出来ていても、壁に阻まれ、別れ道に阻まれ、思うように進む事が出来ないばかりか、脱出さえ困難になる感覚はレトロなロールプレイングゲームのダンジョンをリアルに再現していると表してもいいだろう。
例えて言うなら、すぐそこに宝箱が見えているのに、そこへ到達する道の方は発見し難く、また、多くの別れ道と少なくない距離を歩かされる感覚に似ていた。
「先日、ラジオで聞いたんだけどね」
お下劣女は物憂げな顔をして言った。
「東京フェアリーランドへと続く車の列は、ついに北海道にまで達したらしいよ」
「恋に悩むような顔して何かと思えば、そんな事かよ」
別段、面白くもないというか当たり前のようなニュースを聞いた俺は笑って続ける。
「俺が渋滞に参戦したのは一年ちょっと前の事だが、その時でさえ、列は青森まで続いていたんだぜ。それが今更、北海道まで広がったなんて驚くような事ではないだろう」
お下劣女は一瞬、足を止めると、何か考え込むような顔をして言う。
「弦次郎くんはさ。東京フェアリーランドについて、どこまで知っているの?」
「そりゃあ世界で唯一、本物の妖精が見れるっていうテーマパークだろうよ。運営方針は妖精の希少性保護、並びに安全を最優先。そのため、車でしか入場を許されず、来場の際は車内から妖精を鑑賞する事になってる」
「成程。つまり、みんなが知っている程度の知識しかないって訳ね」
自分で聞いておいて、なんて言い方だ。
お下劣女のあまりの口ぶりにそんな事を思ったが、今回ばかりは言い返す事もしない。
それっていうのも、ここは臭すぎるもんで、文句を言うために口を開くのは最も無駄で愚かな行為となるからだ。
四方八方へと繋がる道とも言えないような路は延々と続く。
それは、人道からも外道からも任侠道からも外れてしまった地獄へと続く道と言ってもいいくらいだった。
俺たちは、ある時はマラソン中の鼠を蹴飛ばして、またある時は見た事もない妖怪のような虫を踏みつけ、右へ左へと曲がりくねった道を歩き続けると、やがて、その先に割と小奇麗なー
と言っても、内部には蜘蛛の巣が張り、ゴキブリの二、三匹程は這いずり回っている小さな配電室の跡らしき部屋が見えた。こいつは牛浜から聞いていた一つの目印だ。
しかし今思えば、野郎のきつい体臭の原因はここにあったのかもしれないな。
「何とも風情のある家だなぁ。むしろ、風情に溢れすぎて縄文時代の人間さえ住みたがらないであろう縦穴式住居以下のお家だぜ」
「しかし、目印としては価値がある。この先、しばらくの間は直線で行けるよ。距離にしておよそ、二十三キロメートル程になる」
元配電室周りにある小さなひび割れ石段を降りた俺たちは、その先へと続く苔むした小路を眺める。
その先の奥へと続く闇は、いよいよ俺たちを魔界にでも迎え入れようかと手を伸ばして来るようで、本当に道という物が広がっているのか、ここは日本なのか疑いたくなるようなものであったが、せっかくここまで来たんだ。憧れのフェアリーランドを思えば、今更引き返すなんて有り得ない。
きりのいい場所まで辿り着いた俺たちは、この辺で休憩を取る事にした。




