牛鬼
気高くも美しい交響曲が鳴り響く車内。
俺はペンを握りながら言った。
「会心の作品が出来たぜ。こりゃあ恋の詩の女王、小野小町も真っ青になること請け合いの芸術的ポエムだ。ほら、これ見ろよ。お下劣女」
「弦次郎くんは本当に節操がないねぇ。一体いつからその日記帳は青春と恋愛を歌うラブ・ポップスになったの」
「願わくば、この美しいポエムを選ばれし美少女が拾ってくれますように。欲を言えば天国の小野小町にまで届いてくれると嬉しい」
「弦次郎くん、死出の旅路の折には小野小町に引っ叩かれるよ」
「そいつは死ぬのが楽しみだな」
全く、芸術を解さない女だな、と思ったが、口に出す事はやめておく。
まあ天才なんて、いつの時代もこんなものだからな。
たった一人の天才が認められるまでに少なく見積もっても百人の天才が凡才に潰される。
俺くらい教養深い男になると物事の本質が見えすぎちまって、逆に生きるのに難儀するもんだが、それと似たようなものだね。
もしも親愛なる読み手の皆さんが社会に迎合出来ずに弾かれるって言うなら、そいつは十中八九、皆さんが天才だからだと俺はお世辞抜きにして高らかに叫ぶ事が出来る。
※※※
ある日の夕刻の事、俺は車内で最高に美しいクラシックを聴きながら読書をしていた。
座席を大きく倒し、足でハンドルを握って古風な文学作品を嗜む――。クソみたいな渋滞の中にあっても気品というものを忘れない、まこと、我ながら優雅な姿であったという事も、ここに付け加えておくが、その優雅にして優美な時間は突如として崩された。
それも、もっと美しいものが現れたからだぜ。
「弦次郎。ねえ、流星の奴を見なかった?」
啓示を告げる天使か何かのようにやって来た綺羅星ちゃんだが、しかし、その声音は焦燥感に溢れるようなものでもあった。
「よう、綺羅星ちゃん。流星なら見てないぜ。あいつ、また行方不明かい。全く、いつまで経っても世話の焼ける弟くんだな」
「トイレに行くって車から出て行って、もう二時間も戻らないの。お願い。一緒に探して、弦次郎」
「そりゃあ全然構わないぜ。ただし、汲み取り便所の穴の中を探すのでなければね。流石の俺でも、そいつだけはデンジャーが過ぎるからな」
「ありがとう、弦次郎。大好きだよ!」
赤い夕陽をバックに美少女の声からは焦燥が消え、その代わりに色気が降りてくる。
俺はその芸術をひとしきり堪能すると、視線だけを動かして通りに面した歩道で覗き行為をしているドブネズミを一瞥した。
その下品な行動から察するに奴らの十八番、人攫いからの挑発行為でもしているのだろう。俺は軽く中指を立ててから降車する。
「弦次郎くん」
ドアを閉める直前、助手席で極道漫画なんか読んでいるお下劣女が声をかけてくる。
「面白そうな状況になったら小型デバイスを録音モードに切り替えておいてよ」
「俺がそいつをするより前にドブネズミが死ななければな」
「それで結構だよ」
俺は背中を向け、一言放ってからドアを閉めた。
「車、頼むぜ」
※※※
帰宅祭とでも言うべき何もおめでたくない祭りのような人混みの中、脇目も振らずに俺たちは覗き魔の方へと向かって歩を進める。
「ねえ、弦次郎。あいつ?あいつが犯人なの?」
「さあな。少なくとも今わかっているのは奴が俺たちに興味津々の覗き魔であり、俺たちを誘っているって事実だけさ」
「じゃあ何か知ってるんだね、あいつ」
綺羅星ちゃんは俺の太い腕に自分の細腕を絡ませながら息巻いた。
その姿はまるでコアラか何かのようで、柔らかく、もちもちした胸の感触が心地いいが、これは逸れないための手段であり、合法的な悦びの時間だという事だけは忘れてはならない。
覗き魔は時折、こちらを振り返りながら路地裏へと入っていく。
堂に入った態度で歩みを進める俺は、いよいよ薄暗い路地裏へと入り、綺羅星ちゃんを後列へ回すと、右に左と入り組んだ迷路のようになっている狭い道を戦車のように進んだ。
「弦次郎、いつもごめんね。私たち、何度も助けて貰ってるよね。トラブルばっかりで疲れるでしょ」
綺羅星ちゃんはしんみりしたように口を開く。
その声は、すっかり人気のなくなった裏路地の闇に吸い込まれていくようであった。
とは言え、ここも一応は街だ。生きているのか死んでいるのかわからないような覇気の無い奴が、たまに座り込んでいるのも見えるが、場所が場所だし、驚くような事でもない。
「なあに、気にする事なんてないさ。俺はインテリだが、暴力沙汰は好きなんだ。だって、俺の得意分野だし、母親から授かったこの素晴らしい体格も有効に使ってやれるからね。何より、君の弟君に手を出したんだ。懲らしめてやるのは俺の大義であり、役割であり、領分でもあるのさ」
「弦次郎ってば、本当に口がよく回るんだから。ね、今まで何人の女の子に同じような事を言ってきたの?」
しんみりしたのも束の間、綺羅星ちゃんは猫撫で声で言った。
「そりゃあ俺くらいの男になると――」
いつものように飄々と言葉を返してやろうとした俺だったが、出した言葉を言い終わらない内に、前に広がる暗がりの中からぬるりと五人の男が現れた。
一人は先日、俺が殴打してやった売人だ。野郎は顔面に包帯を巻き、恨みがましい目でこっちを睨みながら、虚勢を張るようにして、もごもごと口を動かす。
「こないだは世話になったなぁ、喧嘩自慢のお兄ちゃんよぉ。だが、今度は俺がお兄ちゃんの世話をしてやる番だよ。こいつら、牛鬼を使ってなぁ」
包帯まみれの売人野郎が聞きたくもない口上を垂れると周囲にいる四人がじりじりと距離を詰めるように動き出す。
おそらくは全員で飛び掛かって俺を殴打したら海にでも投げ捨てようって腹なんだろう。強襲された俺は、立ち込めてきた暴力の匂いにすっかり嬉しくなっちまう。
さて、こいつらをどんな風に痛めつけてやろうかって、一瞬だけ思考すると、右手でベルト代わりとなっているチェーンを外し、ぶっきらぼうに一振りしてから言ってやる。
「来いよ、群れて粋がるしか出来ねえクソったれのネズミども。てめえらの骨をハイエナの餌にしてやるぜ」
自分を屈強な男だと信じて止まない野郎どもは挑発を受けると、それを開戦の合図とするかのように襲い掛かってくる。
なんてやり易い愚鈍な三下どもだ、なんて思いながら俺はチェーンを構えた。




