第二章 物語と心理療法
私が学生時代(あぁ、もう40年以上も前のことだ)、心理学の実験レポートの書き方を教わったとき、当時の助教授にこう言われたことを思いだす。
「いいですか、仮に一人で実験を行ったとしても、レポートでは『われわれ』という表現を使います。そして『私はこの実験を行った』ではなく、『この実験はわれわれによって行われた』と客観性を持った文章として表現しなければなりません」
「私はこの実験を行った」と言えば、私と実験は近い関係にあるが、「この実験はわれわれによって行われた」とすると、私と実験はそれよりもずっと距離感がある。
私を含めたわれわれが実験を行ったのだから、『なんらかの意味で自分と関連してくるのですが、それをできるかぎり自分との関係を切って述べようと』(P.71)するのが自然科学的な方法なのだ。
このような、世界と自分とを切り離して対象化する手法は、確かにこれまで科学技術を発展させる上で大いに貢献してきたと言わねばならない。
しかし一方、この手法は自分と世界との関係性を希薄にし、われわれが心豊かに暮らすことを妨げる下地にもなったのである。
「……あまりに自然科学的な方法が有効になったので、自由意志をもった、命をもった人間にまで十九世紀ごろの自然科学的な手法を使うようにしすぎて、何かを失ってしまった。何を失ったかというと、自分と自分の世界との関係ということを失ってしまった」(P.71-72)
それでは、自分と世界との関係を修復し、再構築するためには何が必要なのだろうか。
それは一つに「語り」ということを考えることだろう。
語るというのは、先ほどの例で言えば、
「私はこの実験を行った」という風に私という人間が、その実験の中に入ってこなければならないということだ。(もちろん、この場合は実験のレポートであるから、あくまでも客観的に記述し、追試、追実験が行われうるような内容に仕上げなければならないのは当然であるが)
人と世界との関係は、心理療法家とクライエントの関係とも共通する部分がある。
心理療法家の大きな仕事はクライエントの自己実現というべきもの(河合はこの講演ではそれを<リアライゼーションの傾向>と呼んでいる)を助けることにあるが、それはクライエントの話を聞くことから始まる。
心理療法家はクライエントの話を「語り」として聞くことが多い。
それは、クライエント自身が話しの中に組み込まれているからで、そうなると、その話は客観的な、いわゆる自然科学的な内容ではなくなり、主観や感情が入る。そして、話しているうちに、クライエント自身も意識しないものが心の中で動き、それなりの筋道がつき始め、ストーリーが出来上がって行く。そこには、幾分かの誇張や曖昧さが現れ、もしかすると、話の流れで、自分が話そうとは思っていないことが出てくるかもしれない。
心理療法家は、そしてクライエント自身もその「語り」の中に、語られようとしている筋を見つけ、ストーリーを見つける。この心理療法家とクライエントの両者の絡み合いが心理療法に大きな意味を持ってくる。
そこに展開されるストーリーに何が表現されているのか、心理療法家はクライエントとともに考えて行く。
ストーリーとして考えるということは、それを物語として捉えるということである。物語は人間の無意識の心の動きを表していることが多い。
物語と心理療法が大いに関係していると考えられるのはこのためだ。
物語をもっと深く掘り下げて行くと、通常の意識を超えている「神話」に行きつく。
クライエントの物語る内容を無意識の心の動きと関連づけると、神話や日本の昔の物語について考えることは大きな意義がある。
だが、問題もある。
キリスト教を背景とした西洋の神話は、日本の物語とは違うということである。
たとえば、日本にはいわゆる「英雄伝説」はありそうでない。
本書では、落窪物語についてその独特の世界観が述べられているが、もう一つ。
大昔、私が知ったかぶりで、ある人に「物語というのは、英雄が出てきて、閉じこめられたお姫様を助けるために怪物と戦う話が多いですね」と言ったら、「いいえ、日本ではそんな話はあまりないんじゃないかしら。日本で特徴的なのは『見てはいけないと言われたものを見てしまい、結局それが原因で別れが生じる』みたいなものが多いと思いますよ」と言われ、顔が赤くなったことを思いだす。
キリスト教文化圏で有名なこの英雄伝説は、自我確立の経過を示しているという点で、非常に重要である。日本人がこの自我の確立というものをこれまで行ってきたかといわれると、日本にその典型的な物語がないように、自信がない。それゆえ逆に英雄伝説は日本人にとっても重要な物語なのだ。しかし、また、西洋にはない日本的な物語構造というものもあるのだということを世界に示す必要があるのではないか。
結局、色々な物語があるが、心理療法家はクライエントに対してどのような態度でもって臨めばいいのか。河合はこう語る。
「これからのわれわれとしては、そういうたくさんの物語を心に描きながら、クライエントに会って、クライエントがどういう物語を生きようとしているのか考えて行くべきだと思います」(P.86-87)
そして、事例研究に関連してこうも言っている。
こうした心理療法家とクライエントとのやりとりや「語り」をもっと深いところで探っていくと、もはや個人としての心理療法家とクライエントの関係というよりも、一つの普遍性をもった出来事として捉えることができるようになる。それが事例研究というものの本質なのだと。
最後に「われわれの心理療法のほうの物語は、私をできるかぎりかかわらせながら普遍性をもとうとしているのに対して、自然科学のほうは自分をできるかぎりかかわらせないことによって普遍性をもたそうとしている」(P.99)という哲学者の坂部氏の話を紹介し、「便宜上非常にちがうものとして分けたことがどこかでつながってきて、物語の意味ということが自然科学とも関連するようになってくるのではないか」(P.100)と締めくくっている。
(要約を終えて)
本章では物語と心理療法について、様々な角度からスポットが当てられている。項目として書けば、「リアライゼーション」、「話す、告げる、語る、歌う」、「詩的言語と自然科学言語」、「ナラティブ(文体)」、「神話」、「日本人の自我」、「受胎告知におけるマリアに対する告げ方と心理療法家との関係性」、「事例研究」、「生命誌」などなど。
私が要約したものは、この章のほんの一部にしか過ぎない。しかも、当初の、『できるだけ自分に引き寄せながらまとめていく』というもくろみも、冒頭くらいで、後は文章の引用が主になってしまった。
上に挙げたように、実際の講義はもっと広範囲に渡っており、内容が濃い。
これらを途切れなく話していく河合隼雄の凄さは、要約を試みた者でないとわかりにくいだろう。
しかも、最初に書いたように、読んでいるだけではスラスラと行き過ぎてしまう感がある。
だが、じっくりと読み込むと、なかなか難しいことを話している。
そして、どこかでフッと誤魔化されたように、理解したと思っていたもの、見えていたものが消えてしまう。何が消えたのか考えてもわからない。そこなんだろうと思う。彼の肝心な部分が捉えられないのは。
底なしの井戸を覗いているようで、その深さを測ることができないでいるため、自分なりの要約が困難なのではないか。そう感じた。
威勢よく「要約してみる」などと見得を切っているが、要約どころか、まともな感想にもなっていない。専門家の方でなくても、少しでも河合隼雄氏の著作を読まれた方からしてみれば、苦笑、失笑しそうな内容だろう。
この文章は8年前に書いたもので、当時、ユングの「共時性」(シンクロニシティ)に興味を抱き、ぽつぽつとそれに関係する本を読んでいた時期であった。これに関連して「易経」にも、ほんの少しだけれど、手を出していたこともある。
「こころの最終講義」はそんな頃に読んだ。
第一章のところにも書いたが、私のまったくの不勉強で、コンステレーションという言葉はこの本ではじめて知った。
しかし、読んでいても、コンステレーションという概念はどこかぼんやりとして、
なかなか理解できなかったことを告白しなければならない。
河合隼雄氏ご当人は、のらりくらりと説明しているみたいに思えたものである。
『解った!』と思ったその後、いやいや、そういうものではないと、頭を切り替えたり、『なら、こうではないか』と思いついたと思えば、『うーむ、やっぱり違うか……』と、少し前、大いに流行した漫才みたいに、頭が行ったり来たりした。
当時のメモをプリントアウトしたものがあった。そこには、
『コンステレーションというのは、外部に一つのまとまった形を持って現れてくるのか、それとも内部に何か形を持つように現れてくるのか?』
『内部でのまとまり←→外部でのまとまり?』
『内部でのまとまりが、外部に反映される?』
『コンプレックス(元型的なもの)がまとまりを持って、外部現象として顕れてくる。(シンクロニシティ)←意味ある偶然の一致』
などと、疑問点がいくつも書かれてあって、何とかコンステレーションの意味を探ろうとしていたことが分かる。
コンステレーションとシンクロニシティ、そして易経との関係など、興味は増すばかりだが、頭がなかなかついていかない。
そこで、自分なりに考えたことを書き残そうと、「要約めいたもの」を試みた。
ここに書いたコンステレーションの考え方が、それで正しいのか、今でも確とした自信はないが、取りあえず、今もそう考えておくことにする。
第二章の要約については、大昔(今からすれば、50年以上も前になる)、心理学を学んだ時のことが頭に浮かんできて、それを糸口として書いてみた。しかし、
二章にはもっと多くのことが述べられていて、それを自分のこととして、引き寄せられず、引用しただけに終わってしまった感がある。まとまりがないのはそのせいでもある。
「こころの最終講義」」は全五章ある。
どの章の内容も興味をそそられ、中身も濃い。
私は二章分しか書けなかったし、しかもそれがいくら「自分なりの」という但し書きを入れても「要約」と言える内容となったか、疑問符がつく。
とすれば、この大胆な試みは失敗だったのかも知れない。
ただ、冒頭に書いたように、「自身の足跡として残す」ということにはなったのではないかと、恥じ入りながら考えているところである。