第一章 コンステレーション ――京都大学最終講義――
心を静かにして、落ち着いて考えてみると、世界は不思議に充ち満ちている。
人は生まれ、人は死に、太陽が昇り、そして沈む。
あるいは、風に飛ばされた帽子の行方とか彼・彼女の心変わりとか、ごくごくありふれた日常生活の不思議まで、ありとあらゆることが瞬間瞬間にこの宇宙で文字通り無限に生起している。
科学が進歩したとは言え、宇宙規模からすると、わたしたちが知っているのは、海岸に広がる砂浜の一粒の砂程度のことだ。
わたしたちはこの世界に関して、ほとんど何も知らない。
そんな不思議の世界のただ中にわたしたちは生きている。
しかし、こんな不思議を普段は滅多に自覚しない。
なぜ生まれてきたのか。なぜ私は今ここに存在するのか? 等々。
この本の中で、河合隼雄はこう言っている。
そういう非常に本質的な、自分の存在にかかわってくることについては、不思議なことにわれわれは考えないことになっている。そして私はよく思いますけれども、人間はあまりそういう本質的なことを考えないために毎日忙しいのではないかと思ったりします。要するに、判定表を書かにゃいかんとか、税金の申告をせにゃいかんとか、何か思っているお蔭で自分が人間に生まれてきたという大事なことを考えずに済んでいる。というか、忙しさのためにみんな普通に生きているといったほうがいいのじゃないでしょうか。(P.218)
あるいは、最近読んだ本の中にこういう一節があった。
人間が生きていることは本来それだけで大いなる非常事態なのである。だが、私たちの意識には自分自身に麻酔をかけてその事実を直視しないようにプログラミングがなされているようだ。おそらくは現実的な次元での生を大過なく生き延びるために。だが、我々は「大過なく生き延びるため」にこの世に生まれてきたわけではない。(穂村弘「短歌という爆弾」P.156 小学館)
しかし、ある時、何らかの状況下で、ふと自分自身について考えてしまうことがある。それは、親しい人や可愛がっていた動物との死別であったり、仕事上や家庭におけるトラブルであったり、理由は様々だが、自分とこの世界との関係を考えざるを得ないときがある。
あるいは、自分ではまったく意識していない心の底にある問題とか思いとかが、現実の日常で事件とかハプニングとかにより生起し、思わず内省を迫られる場合もある。
いや、もっと単純に自分の周りで「さりげなく目立っている」事象を「うん?」と気づくことの方が多いかもしれない。
この「さりげなく目立っている」事象はまったく偶然に、そして結構立て続けに起こることがある。そして、それらの事象には因果関係はなく、一見バラバラに生じたように見える。
だが、それらは偶然にしろ、自分自身に対して意味のある出来事ではないのかと感じることがある。
自分の周りに生起するこのような事象が一つ二つ見え始めると、状況によってはそれらが自分に何かを伝えようとしているかのように思える。
コンステレーションの本義は「星座」という意味だが、その名のとおり、見る人によっては、バラバラに起こった一つ一つの事象が星々と同様、まとまりを見せる。
これがユング心理学でいう「コンステレーション」である。(と私は考えた)
コンステレーションはまず、この偶発的とも思える事象(群)に気づかなければならない。気づかなければ、自分の問題とは関係ない事象としてうっちゃってしまうだけに終わる。
単なる偶然としてみるか、意味あるものとして見るかである。
もし、意味あるものとして見る立場をとるなら、次に大事なのは、それらの事象から何を読み取るかだ。
自分とそれらの事象との間に何を見出すのか。
自分の心の中の何が表象されているのかを考えてみる。
さらに言えば、「今のこの自分」と「不思議の世界」との関係を捉えなおしてみる。
あることを契機として自分と世界との関係を考え直すきっかけとする。
この考えを推し進めていくと、「易経」などの占いの本来の意義にも繋がっていくと思う。
そこに示され、現れた結果から自分は何を読み取るのか。それが一番の課題なのだろう。
ただ問題は、それらの事象に意味を見出そうとする立場をとるとき、専門的な知識を持った人とともに考えて行かなければならないということだ。
自分勝手な解釈で進めていくと、まったく筋違いの結論に至ってしまうリスクも大きい。
真にこのことを追求していこうとするなら、専門家と同行していかねば危険である。
いずれにしろ、これらの事象を契機として、世界と自分との関係を捉えるとき、物語が生まれると考える。
河合隼雄はこう言っている。
「人間の心というものは、このコンステレーションを表現するときに物語ろうとする傾向を持っているということだと私は思います」
「モーツァルトが、自分は自分の交響曲を一瞬のうちに聞くんだと言っていますね。だから、モーツァルトがぱっと把握した、これというコンステレーション。それをみんなにわかるように時間をかけて流すと、二十分かかる交響曲というふうになってしまった。それと同じようなことで、星の姿というものを話そうとすると、ギリシャ神話のような話になってくるというふうに言うことができます」(P.50)
私は酒に酔ったとき、「この世界、この宇宙の成り立ち」というものが一瞬にして理解できると感じることがあるが、大いなる錯覚にしても、そういう感覚なのだろう。もちろん、私はそれを物語にできるだけの能力もないが。
このコンステレーションという言葉、不勉強も甚だしいが、私は今まで知らなかった。
今回、この本によりその意味を知ったわけだが、この概念、ユング心理学の「奥義」の一つみたいなものに感じたのは私だけだろうか。
<要約を終えて>
一応、第一章を要約してみたのだが、自分が興味を持っている一部分の、超「超訳」みたいな感じになってしまった。本来の意味での要約にはなっておらず、また感想にもなっていない。これでいいのかどうかわからないが、とりあえず自分自身の要約として残しておく。
(おまけ)
「こころの最終講義」の要約をしようと思い立ったのだが、第一章のコンステレーションをなかなか書きはじめられなかった。どうしても出だしがうまくいかず、また内容も上手くかけなかった。(結果としてもほとんど上手く書けていないけど)
そんな中でのこと、TVで高倉健、田中裕子主演の「あなたへ」という映画が放送されていた。私はビデオに撮って後でゆっくり観ようと思ったのだが、予約したビデオは何の間違いか途中までしか録画されていない。この映画には田中裕子が「星めぐりの歌」という曲を歌っていたのだが、それがいい曲で(宮澤賢治作詞・作曲だった)、是非続きを観たいと、妻にTSUTAYAで借りてきてもらった。で、妻は「あなたへ」ともう一本「天地明察」というビデオも借りてきた。それは、天体の運行を観察することにより新しい暦をつくる物語なのだが、星のことに関わる話なのだ。
このように、コンステレーションの話を書こうとしているときに、偶然にしろ「星めぐりの歌」や「天地明察」という星に関係したものが私の周りに現れた。これを偶然とみるか、意味あるものとしてみるか。
「ただし、何でもいいことというのには悪いことがあるものでして、コンステレーションとか、こういう考え方が好きになり過ぎるのも問題です。こういう人は、何でもコンステレーションに見えてくるんですね。例えば、きょう、ここへ来られて、コンステレーションというお話があるなと思って、帰りにそこらを歩いておられますと、イタリア会館で占星術について話をしている。これは星がコンステレーションしている。今晩から天文学をやろう(笑)とかすると、現実からがたがたとずれてしまうんです」(P.37)
うーん、そうだな。私の場合もその類いのかも知れない。