はじめに
2013年(平成25年)、新潮文庫から河合隼雄氏の「こころの最終講義」が出版されました。私にとって、非常に興味ある内容だったので、自分なりにこの本の要約をしようと思いつき、その当時書いたのが、この「要約してみる」です。(感想文、あるいは覚書とも言えそうです)
第一章と第二章しかできていませんし、今読み返しても、きちんとした要約になってはいませんが、自身の足跡を残しておくという意味で今回投稿する次第です。
河合隼雄の本を読んで、いつも感じることがある。
それは、河合隼雄の本はわかりやすく、すらすら読めるが、彼の言っていることを自分の言葉でもう一度語ってみろと言われるとなぜかできない。うまく語れない。
読んでいるときは「ふむふむ」と理解しているつもりなのに、それを本を見ずにしゃべってみろと言われると、途端にできない。
これはなぜなんだろう?
この疑問がいつもあった。もちろん、彼の言っていることをきちんと理解していないのが根本的な原因なのだが、それならば、なぜすらすら読めて、わかった気になるのだろうか?
今回、つらつら考えてみて、こうではないのかと三つほど思いついた。
まず、知識の量、経験の量が自分とは桁違いに大きい。
当然のことながら、自分よりはるかに広大、豊富な知識・経験を持っている。
一つ一つが膨大な知識に裏打ちされた話なので、自分で話そうとすると、話を繋ぐ細かい部分で整合性がとりづらい。
二つ目。文章表現が非常に適切だ。
「うまい!」と読者に意識させないくらい上手い。
すらすら読める。
彼の文章をそのまま書き写してみるとよくわかる。微妙な表現がさりげなく適切な言葉で表されている。自分ならこうは言えないなと書き写しながら思ってしまうほどだ。言葉の使い方が本当に巧みである。
だから、文章の流れに身も心も任せてしまう。よどみなく読み進めてしまう。悪く言えば、立ち止まって考えさせない。わかったと錯覚する原因の一つだろう。
そして三つ目。
彼の話していること(書いていること)を自分のこととして捉えていないからではないのか。
読んでわかった気になっているが、実際のところ、自分の中で具体的な実感を伴わないまま読み進めており、真に腑に落ちていないのではないか。言ってみれば、他人事として読んでいるから、記憶に残らず、自分の言葉として再生できないのではないか。
そう考えた。
今回は、この「こころの最終講義」の要約をするのだが、できるだけ自分の言葉で書いてみるよう試みたいと思う。すなわち、ここに書かれてあることを自分の問題として捉えてみようと思う。
これは結構難儀なことであるが、やってみるだけの価値はあるのではないか。
もちろん、自分の言葉で書くと言っても限度はあるし、本の内容すべてを完全に理解しているわけでもないので、見当違いなことを書いてしまうかも知れないが、「こころの最終講義」の本の要約をするという目的を原点に据え、できるだけ自分に引き寄せながらまとめていきたいと思う。