君の夢を見た
気まぐれにやって来た猫が、気まぐれに姿を消しただけのこと。ドアの鍵は開けておくから、君はいつ戻ってきてもいい。
玄関の外に夜のあいだ置いていたドライフードは減っていなかった。
出しっぱなしにしておくと「野良猫に餌をやるな」と隣の部屋のおばさんに説教されるのでしまっておく。
やっぱり行っちまったのかな、あいつ。
実家から盆には帰ってこいと電話があった。
その実家にも猫がいる。
だから知っている。あいつらの気まぐれなんか。甘えたいときにはすり寄ってくるのに、こっちが手を差し伸べればそっぽを向くんだ。
大学を出て五度目の夏。
満員電車に揺られ、改札から吐き出され、朝から目が眩むような暑さの中を押されるように歩く。
あいつが消えてもう数日経った。
食えているのかな。
だれか優しい人に拾ってもらえたかな。
なあ、いつ戻って来たっていいんだぞ。
うちのアパートのまわりの野良猫なんて猫らしい猫ばかり。呼んでも来ないし愛想も悪い。その中で、あいつだけは変わっていた。初夏の開けられた窓。ここは二階なのに、あいつは布団の上ですやすやと眠っていたんだ。
実家にも猫がいる。
だから目くじら立てて追い出す気にもなれなかった。
目を覚ましておれと目が合っても、あいつは嬉しそうに一声鳴いただけだった。
ばかだな。
わかっているはずなのに。これがあいつらのやり方だってわかっていたのに。まんまとおれたちはそれに乗ってしまうんだ。
その日は鯖缶で済ませた。
会社からの帰りに駅前のスーパーで猫缶と猫ミルクを買った。
もちろん、朝には部屋を追い出した。オレがいない間にいたずらされたりトイレされても困る。このアパートはペット可じゃない。部屋に戻ると猫缶と猫ミルクを皿にあけ、窓を開けてあいつを待った。
そうさ。
そんな時には来ないもんなんだ、あいつらは。
バカバカしくなって、スーパーの弁当をビールで流し込んだ。そして、うとうととした頃。ぴちゃぴちゃとミルクを飲む音が聞こえてきたんだ。
嬉しかった。
子供のように嬉しかった。
猫トイレを揃えた。
猫用の食器も揃えた。
猫砂は意外とやっかいなのでハンディクリーナーも買った。
猫トイレを覚えたようなので、そのまま部屋に残して出社するようになった。まだ子猫ぽさが抜けていないあいつだ。昼間は騒いでいるかもしれない。隣にバレてしまうかもしれない。ペット可の物件を探し始めた。
久々に自分が高揚しているのがわかった。
新しい生活をはじめることができるのかもしれない。そう思った。
だけど、あいつは消えてしまった。
わかっている。
あいつは野良猫だ。風来坊だ。ただ気まぐれにおれの部屋のドアを叩いただけだ。
夢を見た。
おれは泣いていた。
あけすけに子供のように。もうすぐ三〇になるおれが。いや、だからなのかもしれない。さみしい。さみしいんだ。そうだ、おれはさみしいんだ。
あのとき、なぜ言えなかったのだろう。
もっと、君と一緒にいたかった。
もっと、夢を語る君の声を聞いていたかった。
もっと、暖かい君の笑顔を見ていたかった。
好きだった。君のことがほんとうに好きだったんだ。
きっと突然なんかじゃないんだ。
おれが気づかなかっただけなんだ。
君のことを、おれは探さない。
夜の地下鉄駅で、一度だけ君の長い髪を見かけた。
君の人生のままに、君は君の道を意志的に歩いていった。
そして君は、君を待っている人のところに帰る。幸せな灯りのもとに。君の夢のもとに。だからおれは君を探さない。
部屋のドアの鍵は、もう少しかけないでおくよ。
いつ戻ってきても、君たちが迷うことがないように。
夏は駆けていく。
閃いて雲の狭間に。
秋は佇む。
通り過ぎる人々のざわめきに。
そして今夜も、おれはドライフードを入れた皿をドアの外に置く。