熱と魔力と
涙でぼやけた視界。体を内側から溶かそうとする熱。
幾つもの重りを乗せられているかのような、強い倦怠感に包まれた体。
「……風邪でございましょうな」
重々しく告げた白いローブ姿のお爺ちゃん先生。傍で様子を見守っていたマルティアが、ぎゅっと私の手を握ってくれた。
よく見えないけど、多分この世の終わりと言わんばかりの悲愴感あふれた顔をしているんだろうな。
マルティアは優しくて大変情に厚いのだ。うん、雇い主であるとあるご一家とは相変わらず正反対である。
「お労しい……私が代わってさしあげることができれば、どれほど良いか」
「ベネトナーシュ皇女殿下は、皇后陛下の虚弱な体質を強く受け継いでおられますからなぁ。その代償か、他の殿下方よりもはるかに膨大な魔力をお持ちですが、それが余計に体を弱らせておるとは……難儀な姫君じゃて」
弱者に優しくない皇宮において、このお爺ちゃん先生は私にも丁寧に対応してくれる、大変奇特な人だ。
皇女相手に気安くポンポン頭を撫でたりするあたり……きっと常識にとらわれない人なのだろう。
皺だらけの大きな手。そのひんやりとした心地よい冷たさにすり寄れば、お爺ちゃん先生は「ほっほっほ」と仙人のように笑った。
「ほんにお可愛らしい姫君じゃ。あの魔王陛下の血を半分でも受け継いでおるとは、儂は今でも信じられぬ」
「私はベネトナーシュ殿下の類まれなるこの愛らしさは、スターリア皇室における奇跡と思っております。それでカノープス先生……少しでも殿下を楽にする方法はありますでしょうか?」
「殿下の器に見合わぬ膨大な魔力が体に負担をかけておる。その弱ったところを#風邪__悪魔__#に魅入られてしまったのじゃろう。魔力量が下がれば負担も軽くはなろうが……」
うむむ、と悩むお爺ちゃん先生の懸念していることは、私も分かっている。
魔力量を下げる方法は幾つかある。
例えば、魔力を吸い取る魔道具を使うとか、宮廷魔術師に依頼するとかだ。
しかし体の弱い私にとって、他の兄や姉よりも膨大な魔力はある意味生命線。諸刃の剣どころか、使いこなせず私の身体を攻撃する残念なものでしかなくても、その圧倒的な差があるから兄姉は誰も迂闊に手を出してこないのだ。
万が一、暴発でもしたら大変だからね……。
存在を無視して会いにも来ないのは悲しいけれど、うん。玩具にされて殺されるよりはずっと良い。
暗殺者はそれを知っていても構わず突っ込んでくるのだから、志が高すぎると言えば良いのか……命の価値が軽すぎると言えば良いのか、迷うところよ。
そんな訳で万が一、魔道具や宮廷魔術師が私の魔力を吸いすぎてしまえば、私は真実無力な赤子になってしまうのだ。
それに吸われた魔力を悪用されないとも限らないし……。
お父様の不興を買わないよう、皇宮で働いている人は皆息をひそめ粛々としているけれど、その腹の内までは分からない。悪いことを考える人は何処にでも、どんな時でもいる。
マルティアやアル、お爺ちゃん先生は信頼していても、その部下や同僚までは私も把握できていないから。
「先生、私が殿下の魔力を吸い出すことは出来ないのでしょうか」
「マルティア殿は魔法を?」
「ある程度は。あまり得意ではないのですけれど……」
「ならば止めておけ。魔力を奪うことは簡単じゃが、適量を見極めながら吸い出そうとするのは繊細なコントロールが必要じゃ。慣れぬうちは、逆に己の魔力を注いでしまうこともあるという。余計に殿下に負担をかける事となろう」
きっぱりとお爺ちゃん先生に言い切られ、マルティアがしょんぼりと肩を落とす。
「ならばアル様もダメそうですね。彼は単純な魔法しか使えませんし」
「アル・ファルド殿は確か魔術師の一族出身であったか……」
「大変優秀な一族と聞いております。アル様自身は魔法よりも剣に適正があったそうで、騎士団に入られたと」
「あの若さで皇女付きとなるほどですからなあ。まあそれは置いておくとして、他に出来ることはよく食べ、よく寝て体力を回復させることじゃ」
「あと、薬もきちんと飲むこと」と茶目っ気のある笑顔を披露し、お爺ちゃん先生は部屋を出て行った。
それからマルティアが水分多めのご飯を食べさせてくれたり、体を拭いたりと実に甲斐甲斐しくお世話をしてくれて、気持ち体が楽になった私。
後は寝るだけだし……付きっきりで看てもらうのも悪くて、私は彼女も体を休めるよう勧めた―――――あうあう、きゃいきゃいと喃語で。
仕方がないよね、赤ちゃんだもの!
「不安に思われたのですか? 大丈夫ですよ、ベネトナーシュ殿下……私はどこにも行きません。殿下がお眠りになられても、ずっと。ずーっと見守っております」
違うー! そうじゃない、そうじゃないよマルティア。
ちょっとぐらい休憩してきて欲しいだけなんだけど……あと、なんだろう。微笑ましい、ほっこりする場面のはずなのにちょっぴり言葉に圧があったような。
私自慢の空気読みスキルも、熱に浮かされた頭では鈍るのである。
でも、このぞわぞわとする、心臓をきゅっと縮めるような寒さはあんまり良いものではないような……。
いつもニコニコしたマルティアがまさか、なんて思っていた私は。
「さあ、寝ましょう殿下。少しでも体力を回復しなくては―――――」
突如、彼女のほっそりとした体を覆った、真っ黒な影に息を呑んだ。
「末子になにか問題でもあったのか」
寒さの正体は、きっとこの人だ。
今日も今日とて、ガラス玉のような無機質な青い瞳で私を見下ろす、精密機械のように全てのパーツが恐ろしいまでに整った男。
アルクトゥルス・アステリ・スターリア皇帝陛下……お父様が、音も無くマルティアの後ろから出てきて、寝ている私の枕元に立っていたのだ。
いや……え?
なぜ此処に皇帝陛下が?
キョトンとするしかない私はきっと、絶対悪くないはずだ。