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もういちど君を

作者: 依純

 毎日同じ時間に働いて、疲れ果てて寝床につく。昔はそんな風に自分も暮らしていたはずなのに、思い出すことすら難しい。

 寝たいときに寝て、遊びたいときに遊ぶ。食事ばかりは頑張って手に入れないといけないが、それだって自分の世話を買って出てくれる、優しい女性のもとを渡り歩けばいい。

 今の時代、あくせく肉体を酷使して働かなくても、飢えることもなく何とか生きていける。

 僕は今、世話になっている女性の家で、窓際の日当たりのいいソファに寝そべりながら、彼女の帰りをのんびりと待っている。

「ただいま」

 噂をすれば家主の帰宅だ。

 大きく膨らんだスーパーの買い物袋をカウンターテーブルの上に置きながら、彼女の愚痴が始まった。

「ねえ聞いてくれる? 今日、会社でね、 」

 彼女の愚痴は、たいてい仕事のことだ。それからたまに友人の話。誰が結婚したとか、誰が出産したとかそんな話。

――それで?

 優しい僕は、時折相槌をうってやる。

「それでね、 」

 今日の話題は、上司への不満だ。いつの時代も、職場にはままならないことが多いらしい。まあ、健康にだけは気を付けろよ。

――ふーん、その上司、アレだな。全然わかってねぇな。

「ね、わかってないよね、あの人」

 僕は、ああとも何ともつかない声で応える。

 買ってきたものを冷蔵庫に仕舞い、いくつかの食材は下ごしらえまでしてから、彼女はこちらを振り向いた。

「ねえ、前から思ってたんだけど」

 彼女は濡れた手を拭いながら、僕の傍にやってきてソファの脇にぺたりと座り込み、じっと顔を近づけてきた。その視線があまりに強く、僕はいたたまれなくなって、もぞりと短いしっぽを動かした。

「まるで私の話をわかってくれているみたい。キミ、本当に変わったネコね」






 

 僕の名前は康広といった。健康の康に広いという字だ。健やかによく働く子に育ってほしいと父親が名付けたらしい。

 大正の終わりに横浜のはずれに生まれた。経済的には比較的余裕があったから、長男である兄と、二つ年少の僕は中学まで出させて貰えた。学校を卒業した僕は、川崎にある印刷会社で働き始め、そしてすぐに、上司を通して師範学校教頭の娘の喜実子を紹介された。ちょうど兄が所帯を持ち、最初の子が生まれようかといった頃のことだ。

 あの当時、女性を紹介されるというのは、近く結婚を、ということだ。

 喜実子は僕などよりもはるかに聡明で、けれど、料理はまだ上手じゃないんですと言って笑った。何度か会って話すうちに、僕は彼女が嫁いで来る日が待ち遠しくなっていた。

 だがそれも、この間までの話だ。

 人目のないところで話がしたくて、僕は公園へ彼女を誘った。初冬の少し冷たい風。色の褪せ始めた植木に囲まれたベンチには、他に誰もいなかった。僕と彼女は、ひとり分以上の間を空けたまま、そこに並んで腰を下ろした。身なりのよい老人が、ゆっくりと前を通り過ぎるのを見送った。僕は彼女から目を背けたままだ。

 彼女の表情を直接確かめる勇気はなかった。ただ、彼女の両の手が、ぎゅっと強く握り合わされていることを、それをさっき見てしまったことが、頭から離れない。

「君のお義父さんのおっしゃる通りだと、僕は思う」

 つい先日、喜実子の父から、縁談はなかったことにして欲しいと頭を下げられたばかりだ。

 その前の週、医師は、僕の腹を何度も触って、血まで抜いて、そうしてやっと僕の身体の異常を明らかにしたのだ。 ここのところ疲れがとれなくなってきたという程度にしか思っていなかったのだが。僕の一生は、もう思い描いた通りにはいかないらしい。

「この先、満足に働けないかもしれない。君に苦労はかけられないし、そんな男のところに娘をやれないのも当然だ」

「康広さんが働けなくなったら、私が働き口を見つけます」

 絞り出すように答えた喜実子に、僕は拒む言葉を口にした。まるで自分の口が自分のものでないような、そんな気持ちになりなった。喜実子は最後まで泣かなかった。別れの挨拶をする時まで、ただ俯いていた。

 喜実子との話が破談になって、僕の体調は急激に悪化し、ろくに起き上がることもできない日が続いた。

 勤め先をやめ、母の世話になる自分が不甲斐ない。食い扶持を増やし父や弟の稼ぎに頼るばかりで、次第に息苦しくなりつつあった世相の中で、僕のような病人は家族の荷物になるだけだった。

 満足に働けず、何の役にも立てず、弱っていくのを待つのは苦しかった。僕は自らの終わりの時を、ひたすらに待つのはやめようと心に決めた。そして魂だけになって、いつまでも君を見守ろうと思った。







 今の家主は、天気が良い日には僕のためにベランダの窓の鍵を開けていってくれる。不用心な気もするが、正直ありがたい。

 ベランダを伝って隣の建物に移り、そのままいくつかの建物を渡り歩く。すぐに商店街に行きつくと、そのままアーケードを支える鉄骨の梁の上を歩いて、人間の喧騒を眼下に見ながら駅に向かう。

 ここには僕が昔、きちんと運賃を払って利用していた鉄道が、今も変わらず走っている。

 改札の脇を抜けて、ちょうど走りこんできた電車に乗り込む。あ、という子供の声が聞こえたが、僕はすました顔で扉の前に座る。土足のまま座席に乗って迷惑をかけるような真似はしない。

 電車はゆっくりとしたスピードで海辺を走る。窓から差し込む強い西日が、沿線の家並みの影を車両に絶え間なく落としている。

 数駅先で、乗り込んでくる人間の足元をすり抜けるように電車を降りた。海を背に、住宅の間の細い道を丘へ向かう。

 死んだらまた誰かの子に生まれ変わるのかと思っていた。

 まさか猫に生まれ変わるなんて、人間だった頃には思ってもみなかった。自ら死を選んだ人間への罰なのかとさえ、最初は考えたくらいだ。

 不思議なもので、普段の僕の意識の半分くらいは獣のそれで、残りの半分くらいはそれを冷静にみている「僕」がいる。もしかしたら生き物なんてものは、皆そんなものかも知れないけれど。

 猫になってからというもの、ふと気づくと、日当たりのいい草むらで寝転がっていたり、頭上を横切る小鳥を追いかけていたりする。

 おっと、いかん。気づいたら今も健康そうな若い黒猫が僕に向かって威嚇している。僕の右手の下には、固い毛の感触。

「にゃっ」

――お、なんとなく言いたいことはわかるぞ。これは俺の獲物だって? はいはい、じゃあ僕はあっちへ行きますよ、と。僕は鼠の干物なんかより、缶詰に入った脂肪分20%の肉汁滴るキャットフードの方が好みだ。

 こんな風に時折、猫の本能の赴くまま、毛玉を追いかけたりもしながら、



 僕は、君のところへやってくる。



 丘の上にあるクリーム色の大きな建物の、その南端にある広いバルコニー。そこに探している姿を見つけた。傍らの植木を利用してバルコニーの鉄製の手すりに飛び乗る。日当たりのいいバルコニーの手すりは、よく温もっていた。

 君の真白くなった髪を、西日が暖かく照らしている。君は微笑むような顔で、まっすぐ前を向きながら、身じろぎもせずじっと座っている。眩しくないだろうか。僕は心配になって、小さく鳴いた。

 君はたいていの時間、そうやって過ごす。じっと、もう何を考えているのか読み取れない顔で。もしかしたら思考から解放された僕の知らない世界に君はすでに行ってしまったのだろうか。

 君の口から、もう何も語られることはない。君はもう、誰の問いかけにも答えない。

 僕が君を見守ることのできなかった、この長い時間。君はひとり寂しく過ごしたりしなかったろうか。君に寄り添い、安らぎを与えてくれる誰かに出会えたのだろうか。

 僕はそれを願いながら、君に約束しながら、果たすことはできなかった。僕はそれを見守るつもりだったのに。こうして君のところに戻ってくるのにこんなにも時間がかかってしまうなんで、思ってもみなかったんだ。

「野中さん、そろそろお部屋に戻りましょうか」

 ホームの若いスタッフが、バルコニーに出てきて声をかけた。

「今日はもうじき娘さんがいらっしゃいますからね。着替えて待っていましょうね。またお孫さんご夫婦も来てくれるといいですね、あのハンサムな方と可愛らしい奥さんね。お孫さんは本当に、娘さんによく似てらっしゃいましたね」

 君の肩掛けとひざ掛けをきちんとかけなおしてくれる。行きますよ、と声をかけ、君の車いすの向きを変える。

 そうして君の正面に座り込んでいた僕に気づいた。

「あら、また来たのね、ネコちゃん。まるで喜実子さんに会いに来てくれているみたいね」

 そうだよ、と僕は、にゃあとしか鳴けない声で応えた。

 君は「僕」が死んだあと、幸せであったかどうが、もう直接知ることはできない。僕は今、君が旅立つ日まで、そっと見守ることしか出来ない。けれど、間に合った。

 僕は明日も君に会いに来る。


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