第二十話 目が覚める
前話から丁度一ヶ月。
趣味とはいえ遅筆過ぎる。
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ゆっくりと瞼を持ち上げる。
大地に手をつき、不思議なほど硬直した身体を無理矢理起こす。頬の辺りでべリッという薄気味の悪い音と、生温い何かが頬を伝った気がした。
全身が総毛立つ、凍える様な風に腕を撫でられ縮こまるように身を震わせる。
……寒い。
寒過ぎるな、これ。間違いなく氷点下に達している。体感で-36℃、シェワードの森では、いやバリタイン全域でもではありえない気温だ。
視線を下に向ける。
先程の音と生温いものの正体、剥がれた皮膚と流れた血がある。周辺の白いものは……雪、か?その下には……氷がある。
次いで、視線を上に向け…………絶句した。
「…………なん、で」
目に入ったのは、白。
それ以外の存在の一切を拒絶した純白。辺り一面見渡す限り目の眩むような白一色の雪景色。
ここは、生者を拒む氷の世界だ。氷雪の大地と凍風の吹き荒ぶ極寒の地なんだ。
そんな場所で僕はどれくらい眠っていた?防寒対策などしている訳がない、こんな薄着ではとっくに低体温症或いは凍傷に────────なってないな。この世界の人間は丈夫だな、ありがたいことだ。
しかしそれでも寒いものは寒い、暖をとらねば。
「も、くせいよ……薪を、置け。火精、よ、ほのか、に、燃え、ろ」
シュボ、と小さな火が燃える。
口が上手く動かない上に魔力消費が大きい。しかしそれも当然か。
精霊術は自然を操る魔術。そこに有るものならば干渉するだけなのだが、無いものは生み出さなければならない。こんな場所に火や草木がある筈がないのだから、必要となる魔力量が多いのは必然となる。
何はともあれ体を温めないと。
火に当たりながら、落ち着いて状況の把握に努める。
あの二人組に気絶させられた後、どうなったんだろう。せっかく捕らえたものをわざわざこんな所へ放置していくとは思えないから、あちら側でも何かトラブルがあったと考えるべきだろうか。
もし何らかの理由で僕をここに置いて、また戻ってくるつもりならば拘束していないのは不自然だな。そもそもこんな環境に放置する事自体が不自然の極みだ。
とするとここに居るのは僕一人と考えた方がいいかもしれない。
困ったな、僕ではこの場から脱する手段がない。生活する方法なら思いつかない事もないのだが……あ、風に煽られて火が消えそうだ、それに寒い。氷で覆うか、いっそかまくらでも作ろう。
寒さに凍える唇を無理矢理動かし、詠唱を開始する。
「氷精よ、我が魔力を糧とし、風を退け死を弾く、守護の砦を…………おや?」
周辺の氷で自分と火を覆うドームを創りかけて、気付いた。
これ、氷の大地と呼ぶには随分と薄いな。精々十数メートルという程度か。
そうか。この気温、この氷、ここは──
「北極、か」
果てなき地球の極地が一つ、世界の4分の1の天然資源が眠ると言われる夢と希望の地。
日本列島と同じく、この世界の地図にない場所。今まで未発見だったという事か?
地球よりも氷が厚いのは異世界故だろうか。
断言は出来ないが、ここが北極だと仮定するととても困った事になる。端的に言って帰れない。
北極に一番近い国はロシア連邦、この世界ではソヴェート帝国に当たる。随一の軍事力を有していると言われ、また皇帝も相当な野心家で、魔王復活の兆しがないこの機に領土を広げようと画策していると噂される国だ。
そんな帝国に入国したら無事にバリタインに帰れるとは考え難いし、そもそもそこまでの距離が遠すぎる。海を凍らせていくとしても魔力が続かないだろう。
上空に魔術を放って僕の存在を知らせるとしても、都合良く近辺を船が通っているとは思えない。
…………八方塞がり、か。
兎にも角にも空腹だ。ずっと眠っていたせいで食事も取れていないし、この環境ではエネルギーは刻一刻と失われていく。元来常人より多くのエネルギーを必要としているのだ、何か食糧を得なければならない。
しかし、このような場所で植物は期待できない、苔や藻が精々だ。となると、肉か。北極の動物といえば、白熊、海豹、海象…………
────気配。
参ったな、見られてる。この寒さで思考力も五感も鈍ってしまっていたか。周囲に身を隠せる場所もないしな…………
地球ならざるこの世界の北極には、白熊でも海豹でも海象でもない、この存在があった。
獣らしからぬ二足による直立、その手足も異様に長くシルエットだけならばまるで人間のようだ。
だが、全身を覆うこの北極と同じ純白の体毛が、人間との決定的な差異を物語っている。所謂類人猿だ。
それについて、僕は知らない。家の本には記載されていなかったものだ。
だが、それに似た存在を僕は知っている。
「魔獣……それも雪男、或いはウェンディゴ型か。北極にもいるとは知らなかったなぁ……」
|雪男、もしくはウェンディゴ。
どちらもアルプス山脈やカナダなど、気温の低い地域に現れると語られる伝承の存在である。
しかし北極にも出現するとはついぞ聞いたことがない。尤も、魔獣発生の法則を知らないのだから仕方のないことか。気温等の条件が揃えば発生するようになっているのだろうか。
そんな事はさておき、だ。
「こっち向かってきてるよね、あれ……」
その雪男は、こちらへゆったりとした歩みで近付いている。まだ僕の姿をはっきりとは捉え切れていないようで、見慣れないものの正体を掴もうとしているらしい。
彼我の距離は57.82メートル。相手の速力が不明なため判断は難しいが、歩幅と歩行速度から鑑みるに逃走も不可能ではないだろう。
しかし何処へ?そもそも逃げてどうなる?
脱出の目処も立っていない、食料もなく寝床もない過酷な状況下に追い詰められている現在、これは千載一遇の好機かもしれない。
ここが分岐点、決断の時だ。
相手の力量が不明且つ十全に実力を発揮できる環境ではない、勝利の保証のない戦いに身を投じるか。
危険を避け、豊かな大地など存在しないこの地にてあるかどうかも定かではない安全に獲れる食料や寒さを凌げる寝床を探し求めるか。
…………そんなの、悩むまでもないか。
ここで逃げたら、僕はきっと生き残れない。仮に食べる物、寝る場所を見つけられたとしても、今日のこの逃走の記憶は一生僕に付いて回る。
極限の状況下で賭けに出られず、戦うことを選べなかった僕は、この前例を理由に逃げ続け、何時か何処かで死に果てる。そんな確信がある。
逃げの一手は有り得ない。ならば狙うは先手必勝、一撃必殺。
──50メートル。
「風精よ、我が魔力を糧とし、影を落とさぬ姿なき刃となれ。其は皮を裂き肉を切り骨を断ち首を狩る、二の太刀要らずの鋭き一閃。不可視の斬撃音速の暗殺、至高の魔剣よ此処に在れ」
冷たい空気を吸い込み、一息に詠唱。転生して初めての殺人、僕とアレクの関係を引き裂く要因となったあの魔術以上の威力を求めて魔力を練り上げる。
──40メートル。焦点が合った、走行体勢に移行した。
……まだだ。これだけじゃ足りない。
イメージを保持、魔術を発動前で待機状態へ、続けて次の言葉を紡ぐ。
「氷精よ、我が魔力を糧とし、生者を手招く死出の門を喚び給え。白闇の奈落は軋む顎を開き、|骸を晒してその足を引く。触れて掴んで熱を剥げ、死者の世界よ現世へ来たれ」
──30メートル。まだ最高速度じゃない、このまま加速していくとすれば────
演算開始。並行して再度魔術を待機、身体中に魔力を通し身体強化。失敗した際の即時離脱の為に腰を落とし脚に力を入れる。
その時でも逃げはしない、先手の優位性がなくなっただけ。五分の条件、いや体格や環境の劣位性がある中戦うのみだ。
手は打った。後は勝利を掴むのみ。
世界が色彩を失い、時の流れは緩やかに減速する。
──25メートル。もう少し引き付けるべきだ。
──20メートル。まだ足りない、ハイリスクをもってハイリターンを狙うべきだ。
──15メートル。あと少し。危険域ギリギリで叩き込む。
──10メートル。今!!
待機状態解除。雪男の踏み出した足の着地点を中心に極小の地割れを形成、足場を失い前のめりに倒れ込む雪男の首に風刃を───────────────
────地の底から、氷を削る音が聞こえた。
雪男の真下から風よりも速く、音よりも速くそれは現れた。
首を伸ばしたそれは雪男を僅か一口で口腔に取り込み、瞬きさえも許さぬ程の速度で弧を描いて再び底へと消えてゆく。
氷の大地に僕の作り上げた地割れなど比べるべくもない、海原を覗く大穴が二つ開いた。
その合間に僕が成し得た事など唯の一つもなく、遅れて飛んだ僕の魔力の半分を込めた風刃が尾に弾かれ微細な傷を負わせたのみ。
────傷を負わせて、しまった。
頭上でやたらと騒いでいたモノを喰らったかと思えば、今度は自分に歯向かい、手傷を与えるモノがいるではないか。そう認識させてしまったのだ。
「……っ!!」
余計な思考を挟む隙もなく瞬時に真横へ跳躍。しかし遅い。
刹那、再び飛び出た首が次なる獲物を呑み干さんと僕に食らいつく。
幸運だったのは、横に跳んでいたおかげでそれの牙に激突してそのまま吹き飛び、雪男と同じようにそれの胃で消化コース行きとならなかった事だろう。
だが、そこまでだ。
超音速で迫る牙に身体を打ち据えられ、待ち受けるものが冷たく硬い氷の大地とあっては最早動く事もままならない。どのみち餌となる運命は変わらなかった。
それは海へ戻ることなく、長い首を伸ばしたままこちらを睥睨している。大方獲物を仕留めたと思い油断しているのだろう。だからといって何ができるということもないが。
改めてそれの姿を見やる。
雪男を捕食し、僕を瀕死まで追いやったその頭部は爬虫類、それも蛇に近いと言える。
だが、あまりにも巨躯に過ぎる。全長は不明だが海から首を伸ばしている所を見るに10メートルを優に超える怪物である事は間違いない。
水棲の大蛇、察するに大海蛇型の魔獣という所だろう。
まさか異世界で同じ日に、しかも北極で二体ものUMAにお目にかかれるとは、なんという奇運だろうか。哄笑を上げたいところだったが、残念ながら呻くような苦悶の吐息と内臓から逆流した血が口端から漏れ出るのみだった。
僕が脅威と認めた雪男も、結局の所この北極では食物連鎖の頂点の座には居らず、ただ一方的に食われる立場だった。
ああ、自分はなんと傲慢だったのだろうか。
たかが地球という一世界で比肩する者がいなかった程度で異世界でも同様だと高を括り、才に胡座をかいて上を目指す努力を怠った。
井の中の蛙大海を知らず、とはこの事だ。僕は一つの小国の、一都市を見て、世界を知った気になっていたのだ。思い上がりも甚だしい。
国王が問い、僕が答えた覚悟とはなんだ?
家族を、友人を守る?人を理解せず、己を過信した愚か者が何を守れるというのか。
全ての結果が、代償がこれだ。
守るとほざいた友を奪われ、挙句自分の身一つ守る事が出来ていない。
磨かぬ才に価値などない。世界には、天賦の才のみでは到底覆す事の出来ぬ圧倒的な差というものがある。その至極当然の事実を、今になって漸く理解した。
だがその授業料はあまりにも高額だった。
大海蛇の首が迫り来る。勝ち取った戦利品を貪り喰らうために。
……いや、勝ち取った、というのは正しくないな。勝敗など決していない。戦闘にすらなっていないのだから。強者が弱者を蹂躙したのみ、それだけの差があった。
「ああ……悔しい、なぁ…………」
悔しい、本当に悔しい。
初めて味わったこの感情は、僕が人間であることの証明であるかのようで嬉しかったけれど、それ以上に、鉄の味がしてとても苦かった。
これが……敗北か。
十九年の人生で初めてのそれを噛み締めて、病みつきになりそうなほど深く味わい尽くして、記憶に刻み込んで未練と共に嚥下する。
もう手遅れだけれど、この味を知った今なら頑張れる気がする。忘却せず、されど縁を断ち切るために、足掻く事ができると思える。
もし、次があったなら。
その時は、人間になれるかな。
大海蛇の首が迫り来る。狩り獲った狩猟品に牙を突き立てるために。
きっと痛いだろう、苦しいだろう。
でも、その苦痛が今の僕と次の僕を繋いでくれると信じて。
大海蛇の首が迫り来る。上顎を持ち上げ、牙を剥き出して────────────────────
大海蛇の首が落ちた。
「……あれ?」
今回クロムが中二感のある詠唱してますが、これは「そういうもの」だと思っていたからやっていただけなので、これ以降使わないと思います。考えてると更に難産になるし。