#1
大型スクランブル交差点。駅とビルを行き来する人々の頭上で繰り返し流れる音声は、天貫くステーションビルの壁面に張り付く有機LEDディスプレイからのもの。採光性はそのままに、ビルの一面を表現自在な広告塔へと変える薄い膜は、今その上面に迫力満点の映像を映し出していた。
凶悪な顔をした、いかにも悪役然とした黒龍。紅き炎を滾らせるその目が射るのは、甲冑に身を包んだ人間。己の背丈と同等の大剣を背負い、頸烈な視線を悪しき龍へ向ける者。言葉で説明するまでもない、王道中の王道の勇者。
龍が咆哮をあげ、勇者が剣を構える。煉火燃ゆる一撃が、剣を覆う蒼き光にぶつかる寸前で、画面が暗転した。金管楽器のファンファーレとともに響きわたる、凛とした少女の声。
『その伝説は、やがて君の記憶を灼き尽くす。未体験全感覚RPG! 『翼狩りし者たち』、今冬正式サービス開始! 世界初被服型コントローラと超軽量ヘッドディスプレイで、もうひとつの世界へ』
暗転した画面の中央から金粉散らすような光が瞬き、スターターキット販売開始、との字幕。ゲーム内シリアルコード特典一覧とともに、初回限定デザイン版と銘打たれた、ゲームのロゴが印刷されたコントローラ等が映る。お値段二十四万九千八百円。
スクランブル下で立ち止まって広告を眺めていた数人の若者が、なんとも言えない表情と軽い財布を持って、ちらほらと散っていった。
そんな交差点をビル内七階のカフェから見下ろす。ぼくこと細谷竹馬。かれこれ二時間の待ちぼうけである。
「あんな高いコントローラなんか買って、ゲームする人どれくらいいるのかな」
マドラーをいたずらに回転させる。二時間のうちに三回追加注文したキャラメルラテは、既に飲み干した。底に残る泡やら何やらが渦巻き模様を描くだけだ。溜息が出る。本日十三回目の溜息だ。何故こんな都会の中央部で退屈な時間を過ごさねばならないのか。倦怠に似た感情とともに秋晴れの空を仰ぐ。憎らしいほどの晴天である。今日の待ち合わせ相手が恋人だったら、この後の予定がデートなら、小躍りしたくなるような陽気だ。しかし残念なことに、ぼくに恋人はいない。生まれてこのかた居たことがない。かなしい。
ぼくが待つのは、依頼人。仕事で来ているのである。因みに場所は相手の指定だ。好きでこんなところにいるわけではない。ただしキャラメルラテは趣味だ。馬の合わない依頼人との気の重くなるような商談をする前の、戦前の腹ごしらえだ。糖分は一時的に血糖値を上昇させ、常に低くで停滞しているぼくの精神を高揚させてくれる。が、しかし、あくまで一時的に、だ。それが過ぎれば逆に血糖値は下がっていき、ますます脳味噌は使えなくなる。依頼人にいいようにこき使われる。――それを避けるために、効果が切れそうになるごとに、甘いラテを頼み直しているのである。
手元に置かれた重なる伝票。経費が嵩む一方だ。相手が相手じゃなきゃ、切り上げて帰るところだ。ちらりと手元の端末に視線を落とす。時刻を確認して、再び下界の観察でもしようと眼を動かすと、よく磨かれたガラスに自動ドアが開くのが映った。
と同時に、マシンガンもかくやの全力全速早口が。
「やあやあやあ、細谷君。待ったかい細谷君? 悪いねぇー、途中で渋滞に捕まってしまってねぇ。たまには外界人の移動手段でも使ってみようと考えたのが間違いだったよ細谷君。しかし景色は良かったね、あの雑然としたビル街と常に流れている人波というのは面白いねぇ。今度君も一緒にどうだい細谷君。もちろんこの仕事が終わったあとの話だけど」
人波がどうとか、言葉の波にさらわれてさっぱりである。この台詞の間に四回も名前を呼ばれたが、その必要性を全く感じない内容だったことだけは理解できた。兎にも角にも御誘いをいただいたらしいが、この依頼人と仕事以外での付き合いなんてそれこそ冗談じゃあない。丁重にお断り申し上げると、我が尊大で傲慢たるお得意様は上機嫌このうえない表情を崩さず近付いてきた。この人にとってぼくが誘いを断るか否かなんて、感情を動かすことも出来ない程度の些細な事象なのである。
「つれないなぁ細谷君。外界での仕事が順調なのかな? それはそれで喜ばしいことだ。あ、私も彼と同じものを。キャラメルラテ? ふぅん、細谷君、君は意外にも甘党なんだねぇ」
ウェイトレスに爽やかな笑顔を見せつけ、依頼人はさも当たり前のように、ぼくの隣に座る。さらさらの黒髪を一つかきあげるその仕草。後ろで見惚れていたウェイトレスに依頼人がもう一度微笑みかけると、彼女は顔を真っ赤にして立ち去った。満更でもない表情をうかべながら。
あの娘かわいいねぇ、と、その様子を目だけで追って依頼人が澄ました顔している。如何とも返事し難い。
――決して、けして依頼人に嫉妬しているのではないのだ。そもそもぼくがこの唯我独尊を顕現させたような依頼人を『依頼人』としか呼べないのは、この人を彼と呼べばいいのかそれとも彼女かと、短い人生の長い付き合いの中でまだ決めあぐねているからなのだ。事実だけ述べれば、この人は男と言われれば男にも見えるし、女だと言われれば違和感なく受け取ってしまう。中性的を極めた、かつ絶世の美形なのである。正直声でも判断つかない。
さらに厄介なのが、この人は男女のべつなくお付き合いしてしまうのである。これがぼくにとって一番の混乱の元だ。性別が分からないのなら伴侶の性別で判断つけようとしたのに、それが全く叶わない。しかも常に何股も掛けている。勿論男女の区別はない。恋愛関係において最低の奴ということだけは判明している。そういう輩だからこそ、お誘いはきっぱりはっきり断らなければならないのだ。確率二分の一がハズレた時のことを考えてのことである。
そうこう無駄な思考を走らせているうちにも、隣に座る依頼人は興味津々で下界をみおろしていた。
「おお、すごいな細谷君! ここからの眺めは絶景だと伝聞していたが、まさに文言違わずだな! みたまえ細谷君、いや君は待機中に充分堪能したか、いやはや大量の人間だ。ホモサピエンスがアスファルトの上にひしめいて蠢いているぞ! 此方を見ても人、彼方を見ても人。これだけ潤沢な資源に満ち溢れているとは。外界とは我々が進出する上で必要な物資に不自由しない理想郷だな、細谷君」
「あの、室長。ここ外界なんで過激な思想を大きな声量で暴露するのはご遠慮できますか……」
焦った。焦りすぎて依頼人を前の肩書きで呼ぶほど。
「私はもう室長ではないぞ細谷君。そうか、ふむ、私もつまらぬことで警戒されるのは不本意だからな。慎む」
幸いにして依頼人は素直に従ってくれた。理解と思慮のある人で本当に良かった。……が、依頼人に理解と思慮があると油断していたゆえの先程の失敗である。服装も浮いてないし言動もギリギリ通報されないレベルの依頼人でさえ、外界ではいつも通りの会話をすべきではないという分別がないのだ。地下組との交信を一手に引き受けるぼくの普段の気苦労は絶えない。
少し離れた場所にいる二人組の女性客からの視線を感じつつ、溜息を一つ。流石絶世の美貌、見惚れているが会話の内容には一切注意を払われていないようだ。こういうとき美形は得だとつくづく思う。隠し撮りされるのは嫌だが――この位置だとぼくも映るではないか。
「あの二人組、あとで消しておこう」
「写真をですよね? 映像データを消すんですよね?」
硝子窓から下界を眺めるままに恐ろしいことをのたまう依頼人に一応確認する。背後どころか横にいるぼくすら見ず、依頼人はその横顔に好奇の微笑みを浮かべて答えない。ノイズなのだ。ぼくも、彼女たちも、この人が世界を愉しむことを邪魔する塵に過ぎない。依頼人が欲するときだけ発言を許され、行動の支障になると判断すればそこから除外される。
学習したのかぼくだけに聞こえるよう言った物騒なセリフに、ぼくだけが背筋を凍らせる。足音とともに、ウェイトレスがやってきた。注文のキャラメルラテを置いて、一礼して去っていく。ちらちらと依頼人に色のついた視線を送りながら。
嬉々としてストローに吸い付く依頼人。一口飲むと、笑みを崩さず一言発した。
「凄まじい糖分量だ」
この身体にすこぶる悪そうな味は嫌いじゃない、と付け加えると、一旦カップを机に置く。さて、と、白くて長い指が組まれる。爪の先まで桜色で整っている。細谷君、と本日何度目かの名前を呼ばれる。
「二時間と現在までの待機中、君はここから見える景色を楽しんだことだろう。其の間ずっと流れる人波に目を奪われていたかもしれないが、私の知る君はそこまでして人間観察が好きではないはずだ。しかし端末で暇を潰していたら、私がやってきたとき何を見ていたか根掘り葉掘り訊かれて面倒くさい。然るに君は茫洋とした眼差しを適当に動く巨大なものに向けていただろう。例えば――あの巨大なモニターとか」
反論はあるか? と尋ねられ、ありませんと首を横に振る。実際眺めていたし。それにこの人がこのような物言いをするときは、続きがあるのが常である。黙って芝居を鑑賞するべしかな。
麗しき隣人は、満足そうな表情をみせるとさらに質問を重ねた。
「では、あのプロジェクタに映っていた広告。ゲームの広告はどの程度の頻度で流れていたかな?」
まばたきを数回。
「えー、と……すくなくともここにいる間の半分は、ゲーム広告を眺めてましたかね……」
「その中で一番多く放映されたものの名前を覚えているか?」
覚えている。
「『翼狩りし者たち』……ですよ」
もしかして、万が一にもな話だが、目の前の依頼人は日本のポップカルチャーに興味があって、話題の新作ネットゲームを体験したいとかだろうか、と阿呆な考えが脳裏をよぎった。
答えたゲームタイトルは正解だったのだろう。依頼人は満足度星五の大変喜ばしいといった雰囲気をそこらに振り撒き、怜悧な瞳を細めた。
「今回の依頼はそれだ」
まさか予想が当たるとは。
唖然困惑しているぼくなど気にもとめず、依頼人は続けた。
「いいかい細谷君。『翼狩りし者たち』は規格外のゲームなのだよ」
「でしょうね」
なにしろ世界初被覆型コントローラとかでプレイするものらしい。表情筋を動かす暇もなく即答したが、依頼人はゆるゆると首を横に振った。
「違う、ちがうぞ細谷君! 『翼狩りし者たち』は凡庸で発想力貧弱な君が考えているような普通のゲームではない。ウェアラブルコントローラだとか没頭型美麗3Dグラフィックだとかスキルツリーとかマルチクエストとかそういう括りの外にあるものだぞ」
混乱がさらに攪拌される。
「はぁ、そうなんですか」
これしか言えない。とういか、他にどんな反応をすればいいというのか。強いて言うなら依頼人はぼくの予想よりよっぽどネットゲームとやらに精通していそうだということである。いったいいつの間に……まさか地下に民間のインターネットを敷設したんだろうか。情報漏洩が心配だ。
生返事をしていると、全てを見透かすような深い瞳でみつめられた。ぼくはこの人の正面顔が苦手だ。あまりに整いすぎていて、正視できないのだ。細谷君、と、もう何度でも名前を呼ばれる。
「疑問に思わなかったか? いくら世界初の機構を備えた娯楽といえ、たかがゲームだぞ? あの巨大広告塔に一本の広告を一度放映するだけで如何程の金額になるか知っているか?」
知りませんと答えると、教えてくれた。ちょっと気軽には払えない額だ。二時間のうちおよそ半分――いや、今でも流れ続けているということは、大量取引の割引があったとしても庶民にとってはとんでもない額である。
「広報の人すごい気合入ってますね。予算大丈夫なのかな」
自分の給料の額面を思い出して虚しくなる。当該ゲームの広告はここだけでないぞ、と、依頼人は少し声量を落として続けた。
「ここ一週間の新聞、テレビジョン、あらゆる検索サイトに動画サイト、そしてラジオ。ゲーム関連の雑誌やレビューサイトなどはもっと前から。家電量販店や玩具屋、地方ではドーム貸切でオフライン版体験イベントも行なっている。クローズβは個人の撮影を許可し、様々な媒体でゲーム内の様子がうかがえるようになった。SNSでは正式パックとプレイ用品一式贈与キャンペーンなんかもしている。あの常軌を逸した価格のコントローラやディスプレイは、手のでない『お客様』のためにリース契約なんかもご用意しているというわけだ。兎にも角にもあらゆる手段を用いて認知度と、プレイ人口を増やそうとしている」
驚いた。この依頼人が、自らの口でここまで一つの物事に言及するとは。俳優もかくやというほどの長台詞を息も乱さず言ってのけるなんて。それではいつも周囲に侍らせている秘書という名の説明係りは、もしかしなくとも依頼人がひたすらに楽をするための存在なのだな。なんてことを考えつつ円く見開く目の前で、依頼人のすらりと長い人差し指が揺れる。
「遅い、遅いぞ細谷君。私が意外と執拗な性格だと判明したことに驚くのは構わないが、はやくそこから復帰するんだ。何のために『翼狩りし者たち』がここまでの告知と宣伝を打ったのか。君が疑問に思うべきはそこなんだよ、細谷君」
茫洋と新事実に浸っていたら催促された。しかもぼくの内面に対する推測が間違っている。この人でもこんなことがあるのかと思いつつ、今は覗き見されていないのだ、と、少し安心できた。それこそがこの人の思うつぼなのかもしれないが。話す言葉どころか思考まで先方から指定されるのは若干癪だけども、そうしなければ応えてくれないのだから仕方ない。言われたとおりの台詞を返そう。
「ええと……、どうしてそこまでして、『翼狩りし者たち』は宣伝されてるんでしょうね」
普通の世界なら、つまりぼくたち基準でいうところの『外界』、すなわち地表の世界の常識的に考えれば、だいたいの理由は儲かりそうだから。それで大抵かたがつく。パッケージやコントローラも高額だが、ゲーム内もかなり課金への誘導があるのかもしれない。高額コントローラ等を貸し出すというのも、間口を広げて多くから少しずつ回収したいのだろう。しかし、単価を下げるだけでは、総売上が飛躍的に伸びることはなかったはずだ。確かに物の値段を安くすればその分たくさん品物は売れる。しかし、安くした分売れた時の利益は少なくなっている。生活必需品でもない娯楽品でそうした現象が起こったとき、結局の利益は値段を下げる前とそう変わらないのが常である。詰まる所、ただの娯楽で終わらせないことが必要とされるわけだ。何かしらのギャンブル性を持たせるとか――
「最初に言っておくが、金はおそらく二次目的だぞ」
ずばり言い当てられて、思案はかき消された。その顔じゃあ、採算のために賭け事中毒でも仕掛けてるのではと考えてたのだろう? と追い討ちされる。
金じゃない――ならば、情報か。しかしこのゲーム、専用機がないと遊べない。それぞれ紐付けされた本人認証用の個人情報や課金用クレジットカードを手に入れるのが狙いなら、PCにインストールするタイプのもののほうが効率が良かったのではないか。それなら前者二つのみならずPC内の情報を抜き放題である。ああでも、すぐに対策されてしまうか。悪評が広まるのも早い。
「細谷君……そういうことではないのだよ。ついさっき言ったばかりだろう、『翼狩りし者たち』は、君の経験してきたようなゲームではないのだ」
やれやれ、と依頼人が肩を竦める。太いストローを咥えてキャラメルラテを啜る依頼人へ向けて、ぼくは湿った視線を送った。
「さっきから、ぼくの思考を読んでますよね? そういうのやめてくださいよ。いい気はしないんですから」
小声で。店内の誰にも聞こえないように、釘を刺す。依頼人は、長い睫毛に縁取られた目を円くすると、心外だとでも言いたげに整った眉を寄せた。
「ひどい、ひどいぞ細谷君……。私は君やその他駐在員の報告書に隅から隅まで目を通したんだぞ。外界で能力を使うのは最低限にした方が良いと書いたのは他ならぬ君達じゃあないか。信頼する君達からの忠告だからこそ、ここに来るまでの間とここに来てからの時間、不随意以外の能力の使用は慎み、呼吸を止める想いで発動も抑えているというのに……」
再び驚いた。一つはぼくの言葉が依頼人を傷付けたらしいということに。この人の前でのぼくの存在など塵にも等しいという認識でいたのに。信頼していると聞いて悪い気はしないけれど、その上に立った行動をしていた依頼人を疑ってしまったのは少々気まずい。もう一つは、依頼人が能力を使っていないどころか、常時周囲に振りまく影響をも抑えていることに。そうか、だから先程は珍しく読みを外したのだ。合点がいった。しかし全ての能力を抑えるなど、危険すぎやしないだろうか。
依頼人がストローでキャラメルラテをかき混ぜる。冷たい氷がからころと鳴る。
「それは、その……疑ってすみませんでした。配慮には感謝します。――でも、いつ身に危険が及ぶかわからないので、通常以上に能力を抑えることはしなくていいと思います。ぼくじゃ守れないので」
謝りつつも進言すると、伏せていた眼がこちらを見た。整いすぎた顔だ。けれどいつも自信に満ちて爛々と危ないお薬でもキメてるような瞳が、若干不安そうに潤んでいる。……ように見えた。多分光の加減だ。この人が怖がったり泣いたりするなんてことは天地返ろうとも無いだろうから。今迄の経験から推測すると。
気まずいを通り越してどきまぎしてきたぼくの前で、依頼人はグラスを上から下へゆっくり撫で下ろした。冷えたグラスについた水滴が、すらりとした指にからんで落ちていく。それを見下ろす依頼人の、俯く頬にさらりと黒髪が垂れる。形の良い唇が、緩く弧を描いて笑みが漏れた。
「そうだな。君が護衛に適さないのは私もよくわかっている。そして私は今日、単身でここへ来た。多少は警戒しておいたほうがいいかもな」
今、とても恐ろしいことを聞いた気がする。
全身から血の気が引いていくぼくに向けて、依頼人はにこやかに脱線した話を元に戻し始めた。
「護衛も無しにこんなヒトの犇めく都会に出てくるなと言いたい気持ちはわかるぞ細谷君。しかしね、細谷君。今回の仕事は一片たりとも我々の痕跡を遺すわけにはいかないのだよ」
今度の相手は――と、白い指がグラスを撫で上げる。黒い瞳がきゅうと細くなる。
「かつての同胞、袂を分かった者たちだからね」
からり、と、氷が音を立てた。ぼくの背中はそれより冷たいものが走った。
昔の話になる。
ぼくも、依頼人も、かつてある組織の一員だった。依頼人はそこで室長という肩書きで、いろいろと采配を下していた。ぼくはというと、あるなさけない事情により、とんでもなく場違いな部署に配属され、しかし当然ながら何の役にも立たないためにその部署での仕事はほぼ任されず、不名誉な二つ名と共に今のように依頼人にこき使われていた。ぼくが受けた扱いとか依頼人が相も変わらず傲岸不遜だとかいうのは、正直関係ない。問題は、その組織の存在した理由。そして所業。
ぼくがかつて属したのは、一般から外れた能力を持つヒトを狩り集め、選別し、支配する組織だった。薄暗い地下に拠点を置き、逆らう者、逃げ出す者は容赦無く処分する。蟻の巣のように広がる各拠点は城と呼ばれ、地表の世界、つまるところ普通の、いわゆる世界地図に暮らす人々がいるようなところは外界と呼ばれた。自分の意思かどうか問わず組織に属した者は行動を制限され、狩り以外での外界への接触は原則禁止。城の誰かが外界へ出るとなれば、その理由は未知の能力者狩りか、秘密を知った一般人を消すためか、大抵そのどちらかだった。
組織は血気盛んな気質で、内外問わず毎日誰かが消えていった。依頼人より上の命令系統も一応存在したが、むしろ蠱毒を極めて雄を決めろ、が方針だったから、歯止めが効かないどころかそもそも無かった。狂気染みた血生臭い組織は、しかし、ある日現れた外界の能力者によって解体された。少年と、その仲間たちに。城の一員だった者達の間では、彼はちょっとした有名人になったが、今どこで何をしているのかは不明。それもそうだろう、少年は組織を解体しただけで、その構成員については全く手を出さなかった。結束が破ればらばらになった城の元構成員達は新たにいくつかの組織を立ち上げて、それらの大多数は彼とその仲間の行方を追っている。追う理由は様々。城を壊された復讐のため、仲間に引き入れて組織を盤石にするため、捕まえて実験台にするため、その他いろいろ。
そしてそれは、ぼくが今いるこの組織でも同じである。
ぼくの所属するこの組織は、城崩壊後すぐに依頼人が立ち上げた。地下に残された城の施設をそのまま利用している。外界で好き勝手暴れようとする者達に仕事を与えてコントロールしようという趣旨の組織だ。仕事をこなすかわりに、衣食住が提供される仕組みだ。暴れることしか知らない元構成員達は、最初こそ一人で生きていこうとしていた。配給制だった衣食の調達ができなかったり、安全な住居を得るために、次第に依頼人の元へと集まってきたのだ。今では城崩壊後の組織で二番目の規模を誇る。
……そして今、前述のような経緯で分かれた組織のどれかが、『翼狩りし者たち』に関与していると依頼人は言う。
予め説明しておくと、かつて同じ城に属していたからといって、崩壊後の組織同士の関係は決して良好ではない。
あぶれた元構成員達がなぜ安全な住居を求めたかといえば、元同士討ちが絶えなかったからだ。理由は様々あるのだが、要するに同じ城に居た者同士でも、全く容赦無い。さらに言えば、お互い相手がどんな手を使ってくるかだいたい分かっているので、市井の能力者と戦うよりも手強い。かの少年とその仲間を除いて、組織の唯一の天敵と言えよう。
そんな奴らが、今回の相手なのだ。
ぼくは頭を抱えた。
「君が今すごく逃げたいのはわかるよ、細谷君。でも今回の任務を任せられるのは君しか居ないんだよ細谷君。なにせ君は、私と同じでほとんど顔を知られてない、そして探知に掛からない貴重な人材なのだから」
落ち込むぼくの隣で、依頼人がカウンターの上に肘をつき、その手で顔を支えて覗き込んでくる。普段通りの根拠不明の自信に満ち溢れた表情だ。
なるほど確かに、依頼人は崩壊後の他組織にはほとんど顔を知られていない。この人の顔を見たが最後、大抵の人間はこの人の味方になってしまうからだ。好かれようと進んで従うと言ったほうが正しいだろうか。とにかく抗い難い魅力があるのだ。依頼人自体あまり表にはでてこないのだけれど、この人と対面して、それでもなお別の組織へ行くという人は、この人と同等以上の能力者か、相当意思のかたい人だということになる。そして幸か不幸か、この人と同等以上の能力者は城の中ではほんの一握りしかいなかった。依頼人が能力を抑えている今、探知にも掛からないし隠密にはもってこいなのである。
……かくいうぼくはというと、二つ名こそ不名誉な方向で有名だが、本名を知っている人間はそれこそ一握で済む。顔なんて三回会った人に覚えてもらえないくらい印象薄いらしい。たまに激烈な反応を示す人もいるが、今は関係無い。
そして何より、ぼくは絶対に相手の能力者探知に引っかからない。万が一引っかかることがあったとしても警戒すらされない。今回のような元構成員同士の腹の探り合いで、これ以上のアドバンテージは無いのだ。戦闘が絡まなければの話だけど。
「念のために訊いておきますけど、この依頼、ただの調査でいいんですよね? 戦闘は、しなくていいんですよね?」
いくらぼくに拒否権はないといえど、これだけは真偽のほどをはっきりさせておかねばなるまい。戦闘力皆無のぼくが能力者同士の争いに首を突っ込むなど、殺してくださいと言うようなものだからだ。ぼくはまだ死にたくない。
我ながら情けなくなるほど震える声で尋ねたところ、依頼人はにんまりと形の良い唇の端を三日月状に吊り上げた。
「調査と言えば調査であり、戦闘と言えば戦闘である。しかし安心したまえ、細谷君。我々が君を全力で後援する」
これである。
眩しいほどの朗らかな笑顔から目を背け、器の底で乾燥しかけたキャラメルラテの渦を見下ろす。よし大丈夫、深呼吸だ。
ずぶずぶと踵から砂地に埋まっていくような絶望的気分を、なんとか前向きに修正できた。そうだ、さっき胸中で確認した通り。依頼人にとってぼくはそこらへんに舞ってる砂塵と同等だとわかっていたじゃあないか。死ぬのはもはや既定路線だというのも然り。しかし有難いことに、今回はバックアップをつけてくれるらしいじゃないか。涙ちょちょぎれるほどの好待遇だよ。そう思っておこう、そうじゃないと壊れる。
細谷君、と、依頼人の囁く声が耳元で聞こえる。気付けば依頼人はカウンターの椅子を寄せ、俯くぼくの懐に入り込むようなかたちで、静かに距離を詰めていた。うなじにすうと呼気が触れる。この人の息は、少し冷たい。くすくすと可笑しそうに押し殺した笑い声。
「その横顔から察するに、死を覚悟してくれているのだろうね。臆病な君でも私にそれだけ尽くしてくれるというのはとても嬉しいよ、細谷君。けれど君は、また誤解している」
ぴん、と人差し指が立つ。艶やかな爪が、つう、とぼくのグラスを撫で上げる。
嫌でもどきまぎしてしまうぼくの耳元へ、より一層顔を近づけて。
調査も戦闘も、現世では行わないよ、と。
「君には、『翼狩し者たち』の中で奴らの様子を監視してほしいのだよ」
漆黒の瞳がぼくを見つめる。深淵に、堕ちてしまいそうだ。
呼吸も忘れて硬直する指に、冷たいものが触れた。鍵だ。カード型の薄いそれは、表面に透かし彫りしてあるロゴに見覚えがあった。この近くのビジネスホテル。そこに先述のコントローラ一式が置いてある、と、依頼人が言う。けぶるような睫毛が、上目遣いの目元を際立たせている。
「ゲームを始めるにあたり必要な補佐も手配してある。君はこういった電子的娯楽は体験したことがないし、色々戸惑うこともあるだろう。わからないことがあったら彼女達に訊くといい」
駄目押しとでもいうように、もう一度極上の笑みを浮かべると、依頼人はぼくの前に積まれた請求書をまとめて席を立った。諾否の意思を示す間も無く、流れるような動作で会計を済ませている。女性店員からレシートと、その下に忍ばせた連絡先を書いた紙を受け取る様子が見えた。気付いているくせに気付かないふりをして、それでも愛想を振りまく罪作りな依頼人に、店員はすっかり熱を上げている。流し眼でこちらを一瞥し、微かに笑んでみせると、依頼人は姿を消した。僅か四十秒あまりの出来事をただ眺めているだけだったぼくも、その場で我に返った。危ないあぶない、完全に依頼人に魅せられていた。半分ほどもう依頼人がどっちの性別でもいいからこの後誘ってみようかな、なんて思ってしまうとは。危険信号すぎる。確率二分の一が外れたらどうしろっていうんだ。
惚けた頭を二、三度振って、ぼくも店を出た。行き先は、依頼人から告げられたビジネスホテルだ。