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 御神木の前に、見覚えのある男が一人。

 黒い傘を手に、じっと折れた木を見つめていた。どこか思いつめた横顔は一瞬で、人の気配に気づくとすぐに表情を消して顔を上げる。

「透子」

 透子も驚いていたが、それと同じだけ涼平も驚いていた。慌てて透子に駆け寄り、持っていた傘ですぐに透子を雨からかばう。

 当たり前のようなその動きに、透子は俯いた。すっかり濡れた髪から、雨のしずくが頬を伝う。

 ――なんでこの人は、優しくしてくれるのだろう。

「どうしたんだ、透子。こんな雨の中で」

 透子に対する口調は穏やかなものだった。

 透子は口を引き結んで足元を眺める。頭の中には、宗太から聞いたことが反響していた。

 ――神社の悪い噂に、涼平が関わっている。

 黙ったままの透子を、涼平は訝しげに見下ろしていた。それでも辛抱強く、立ち尽くす透子のために傘を差し出す。傘はほとんど透子の頭上にかぶさっていて、本人は濡れていることもお構いなしだった。

「…………涼平」

「なんだ?」

「どうして私たちを追い出そうとするの?」

 透子の言葉の後、しばらく雨の音が耳を支配した。

 耳を打ちつけるざあざあと絶え間ない音。涼平は傘を差し出したまま口を閉ざす。

「神社の悪い噂……涼平が原因だって、聞いた。山津波で……怪我して……」

「ああ」

 涼平は短く応え、少しだけ透子から視線を逸らした。

 彼の顔には微かな罪悪感と、それ以上の悲しみが含まれていた。

「その噂を最初に流したのは、俺だ」

「りょーへ」

「言い訳はしない。俺に原因がある」

「なんで、そんな噂を……」

 透子は震える声で尋ねた。涼平がそんなことをするはずがない。そんなふうに、心のどこかで不思議と思っていた。あれほど透子たちを追い出したがっている涼平の姿も知っているはずなのに。

「………………俺が今、透子と会ったのはきっと偶然じゃない」

 涼平は言葉を選びながら言った。

「今までも、何度もこの神社に来て、永田さんたちと同じ会話をした。だけど透子と会うことができたのはこれが初めてだ。あの狸や、妖怪たちがめぐり合わせた」

 めぐり合わせた。

 そうかもしれない、と透子は思った。いつの間にか姿を消したあの狸。彼がいつも、透子を涼平の元へ案内した。

「あいつらにはわかっているんだ。たぶん、間もなくその時が来る。――あいつらは今のお前と言葉が交わせないから、目的を同じくする俺に頼ったんだろう」

「なに言ってるの? ……その時?」

 透子の問いに、涼平は低く、迷いなく答えた。

「山津波だ」

 透子ははっと顔を上げた。

 山津波。それは透子にとってこの世で最も不吉で、耳に入れたくない言葉だ。しかし、涼平は透子には構わずに続ける。

「もうすぐ、また山津波が起こる。次はこの神社も避けられない」

「嘘だ」

 無意識に強い口調で、透子は否定していた。

「もう二度と、あんなこと起こったりしない。冗談でもそんなこと言わないで」

「そう、そうやって誰も信じなかった。だけど冗談ではない」

 涼平は皮肉に笑うと、折れた御神木を一瞥した。すっかり中が枯れ、黒いうろだけが雨の中にたたずんでいる。

「山津波はもう一度、必ず来る」

「なんで……そんなこと言えるの」

「聞いたんだ」

「……誰に?」

 涼平は透子に視線を移し、少しの間透子を探るように眺めた。恐ろしいほど真剣な瞳が、冗談ではないことを感じさせた。

「この神社の、神に」

 透子は心臓を、ぎゅっと握られたような気分だった。息がつまり、呼吸ができない。

「俺はここの神を知っていた。ずっと会いに来ていた。雨の日も、山津波が起きた日も」

 そうして、山津波に巻き込まれたのだ。そう言って、涼平はかすかに唇を噛んだ。

「俺が神社で山津波に巻き込まれたことを、町の連中は『誘い出された』のだと言った。元から、妙なものがいると評判のある神社だったから、その噂はすぐに受け入れられた。俺の両親も、神社を潰したかったんだろうな――積極的に噂を広めることに協力した」

「涼平。りょうへ、それじゃ」

 透子は涼平の言葉を遮るように言った。涼平の言葉が嘘でないのなら、それなら――。

 本当に、神はいることになってしまう。

 涼平がどんな噂を流したかは、今の透子にとってみればそれほど重要ではなかった。

 だって涼平は被害者だ。

 神社にいたというのなら、本当に神がいると言うのなら――――涼平を守れなかったこと。山津波を防げなかったこと。それはすべて、その神が原因だ。

「この神社に、神様はいるの?」

「透子」

「――それなのに、また山津波を起こすの?」

 透子の低い声色に、涼平は傘を持つ手をぴくりと震わせた。

「またこの町を壊すの? またみんなをひどい目に遭わせて」

「透子」

「神様なのに、どうしてそんなことができるの! それが本当に神様だって言うの!?」

 山津波は防がない。町はめちゃくちゃにして、自分だけを守るような――。

「そんな神なら、私はいらない!」

 吐き出しきると、透子はもはや堪えきれずに涙をあふれさせた。雨の中でもわかるような涙が、瞳の奥から溢れて止まらない。


 ずっとずっと、思ってきたことだ。

 永田家に引き取られてから、毎日神社に行く栄吉を眺める日々。その神は、町の人たちの非難を受けてまで、祈る価値のある存在だっただろうか? 透子や栄吉は、そのせいでずっと町の人たちに恨まれてきたのだ。そんな、信じる意味もない神のせいで。

 ずっと、離れたいと思っていた。町の人の視線を受けるたび、透子は叫びたかった。

 透子だって、本当はこの神社なんか――――。


「透子……お前、ここの神が憎いのか?」

「憎い!」

 躊躇うことなく透子は言った。

「大っ嫌い。町の人に嫌われて、いつも祈る栄吉も助けない、何もできない神様なんて! そんな神様なんて、私は信じられない!」

 ――不意に、透子の頭に雨の粒が落ちてきた。

 俯いていた透子には、黒い傘が投げ出されるのが見えた。水たまりの中に転がり、傘の内側に雨が落ちる。

 だけど、それを見たのはほんの一瞬のことだ。透子の体は強い力に押し潰された。

 抱きしめられているのだ、と少し遅れて気付いた。


 透子は涼平の腕の中にいた。背の高い涼平にすっぽりと収まり、顔は彼の胸元に押し付けられていた。スーツ越しに熱が伝わり、夏以上の暑さを感じた。

「透子…………神が本当に死ぬのは、どんなときだと思う?」

「え?」

 唐突な行動に、唐突な問い。透子は短い疑問の言葉を出すほかになにもできなかった。

「誰も信じなくなったときだ。神を否定して、祈りの言葉もなくなって、忘れられたとき」

「りょーへー……?」

 透子の囁くような呼びかけに、涼平は腕の力を強くした。痛いほどの力だったが、透子は不思議と嫌だとは思わなかった。

「お前までそんなことを言うな、透子。お前は悪くない。お前はできることをやったんだ」

 透子、と涼平が言った。

 聞いている方が辛くなるような声色だった。


「自分のことを信じてくれ、透子」


 それは嘆願だった。透子の胸の奥がざわつく。意味が分からない、はずなのに。

「私……」

 耳鳴りがする。


 ――やーいやーい……。


 夢の声が聞こえる。


 ――もらわれっこの透子、化け物透子やーい。


 いつか夢で見た場所がここだった。今と同じように泣いていた。

 透子の頭に幻聴が響く。


 ――つらい記憶を、取り戻す。


 雨の日、夢の中の黒い影が、涼平の黒い傘と重なる。

 心を閉ざして泣くあの少女は、透子自身だ。

 忘れたいから。

 思い出したくないから。


 ふと、透子の体から力が抜けた。足元から崩れ落ちる透子を、涼平が慌てて支える。

「透子!?」

 その声を最後に、透子の意識は途切れた。

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