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 十七年前、上森町を山津波が襲った。長い長い雨のあとのことだった。


 町には大きな被害が出た。

 人々は早めに危機を察知して逃れたため、奇跡的に死者はなし。しかし重傷者が一名。山裾の家々は、大半が飲み込まれた。

 ――その中で、同じ山裾に位置しながらたった一軒だけ、被害を免れた場所がある。

 それがこの上森神社だった。山津波の直撃を受けた神社だけが不思議と守られていた。

 土砂の多くは、鎮守の森の手前でせき止められていた。それでもいくらかの土砂流が、神社の一部と御神木をなぎ倒したが、土砂に埋もれた裾野の家々に比べれば小さな被害だ。

 神の加護だと、誰かが言っていた。半信半疑だった神様は本当にいたのだ。町を土砂で飲み、自分の住まいだけを守る身勝手な神が。

 町の人たちは、神社を避けるようになった。神社への疑惑はゆっくりと噂になって流れた。

 本当に神がいるなら、なぜ山津波が起こったのか。自分の住処は守れて、どうして町は守れなかったのか。

 神は町を見捨てたのか。神は自分だけが大切なのか。

 ――それは、本当に神なのだろうか?


 ○


 今日も雨だった。長い雨だ。

 透子は空を見上げ、ため息をついた。

 勉強をする気にもなれず、透子は縁側に顔を突き出した。ざわりと、最近は隠れもせず妖怪たちの気配がする。

「涼平……今日も来ないのかな…………」

 涼平はあれ以来、姿を見せてはいなかった。寂しい、と思うのも妙な心地だ。結局あの男は、透子たちを追い出しに来たのだ。

 ――でも。

 透子は無意識に頭に触れていた。おかっぱの髪をくしゃりと握って、息を吐く。涼平が頭をなでてくれた。子供のようで、大人のような彼のことを、悪いように思えないのだ。

「ああ、もう!」

 心の内がもやもやとする。声を上げても全く気分は晴れなかった。だけどこれ以上腐ってもいたくなく、透子は苛立ち紛れに立ち上がった。

「どっか歩いてこよう。気分変えないと」

 縁側に立てかけた傘を手に、透子はサンダルを履いて離れを出た。

 雨が作った水たまりを跳ねさせて、あてもなく透子は歩いた。


 石段を下り、坂を下る途中で、透子は宗太に出くわした。彼は隣に、腰を丸めた祖母を連れている。

 透子の姿を認めると、宗太の表情は一瞬緩みかけ、すぐに仏頂面に変わる。

「……よう」

 いつものぶっきらぼうな宗太の声に、透子は軽く会釈を返す。そのまま。彼の隣の彼の祖母にも同じく頭を下げた。

「こんにちは……宗太のおばあちゃん」

 宗太の祖母は、重たげな仕草で透子を見上げた。彼女は透子の姿をまじまじと眺めると、不意に両手を合わせた。

「ありがたや、ありがたや……」

「ばーちゃん?」

「神様、今日も平和をありがとうございます」

「透子、悪い、うちのばーちゃんちょっと呆けてるんだ。今日も病院に行くところで」

 戸惑う透子に、宗太が苦い顔で言った。やめるようにと祖母を促すが、彼女は手を合わせたまま口の中でもごもごと、仏教と神道が入り混じったような祈りの言葉を述べている。

 宗太はうんざりしたようにため息をついた。祖母に宗太の声は届かない。このまま、透子がいなくなるまで拝み続けそうな様子だった。

 もう、気の済むまでさせてやるしかなさそうだとでも判断したのだろうか。宗太は祖母をそのままに、透子に顔を向けた。

「……透子、どこか行く予定だったのか? あいつはいないのか」

「あいつ?」

「あの、胡散臭い男」

 吐き捨てるように宗太は言った。その表情は不快感を隠そうともしない。

「最近、毎日この辺りをうろうろしているんだ。気取った車乗り回して、町の連中とは口を聞こうともしやがらない」

「……そうなの?」

 胡散臭い男とは涼平のことだろう、とはすぐに予想がついた。夏場にスーツで、いかにも都会らしい空気を持った男なら、たしかに町では奇異の目で見られるだろう。

「めちゃくちゃ金持ちで、町の役場に顔が効くらしいけど……透子、あいつ気をつけろよ」

 宗太は祖母を支えながら、透子の目を見た。一瞬のためらいの後、口を開く。

「ばーちゃんから昔聞いたんだ。あの山津波で、神社の噂をあることないこと言いふらしたの、あいつが原因なんだって」

 え、と透子はかすれた声を上げた。傘に落ちる雨粒の音が、やけに大きく聞こえた。

「子供の頃、神社で山津波に巻き込まれて怪我を負ったらしくてさ。あいつの親が、責任を神社に押し付けたんだ。役場の偉い人と付き合いがあるとかで、すぐに話が広がった。あいつ自身も、山津波がまた起こるとか言い回ったんだって。透子が今、町の奴らに文句言われるのもそいつの所為だ。だから」

「ありがたやー……」

「ばーちゃん!」

 宗太の言葉を遮り、老女が祈りの言葉を強くした。宗太は困ったように彼女の肩を掴む。

「どうかこの町をお守りください。また、あの山津波から……」

「ばーちゃん、やめろ、透子の前だぞ!」

 宗太は立ち尽くす透子に気が付いたらしく、慌てて祖母を叱責した。しかし、彼女の祈りは止まず、透子は次第に表情を失っていく。

「透子、悪い。ばーちゃんに悪気はないんだ。……じゃあ、もう行くから」

 透子は無表情に頷いた。言葉は忘れてしまったかのようだ。呆然とする透子に気まずい視線を寄こすと、宗太は祖母を連れて坂道を下って行った。


 雨がざあざあと降り注いでいた。

 傘にうちつける重たい雨が、透子の心の中まで浸していく。冷たく、うつろな気分になる。

 雨煙の中、透子はそれからどれほど立ち尽くしていただろう。この雨では、山裾の林業も作業を中断しているのだろう。人が通る気配もなく、透子の赤い傘だけがぽつりと隣で雨音を反響させていた。


 ――……そろそろ戻らないと。

 どれほど時間がたっただろうか。やまない雨の中、透子がようやく顔を上げたときだった。

 目の前に一匹の狸がいた。雨に濡れ、すっかり毛並みの色を濃くしている。それは黒い瞳は透子を映したまま、ぴくりとも動かない。

 いつの間にそこにいたのか、透子は気が付かなかった。それともまさか、ずっと透子の前にいたのだろうか。雨に濡れ続けたまま?

 狸は透子を窺い見ると、ふい、と背を向けた。そして、坂の上を目指してゆっくりと歩き出す。狸の小刻みな歩調に合わせて、尻尾が左右に揺れた。どこかで、見覚えがあった。

 しばらく歩いてから、狸は透子を振り返った。立ち尽くす透子を見つめ、尻尾を重たげに落とす。

 と、弾かれたように駆け出した。

「ま、待って!」

 透子は反射的に、傘も投げ出して狸の姿を追いかけた。狸のあの尾が、付喪神と重なる。いつかの光景を思い起こさせる。

 狸は坂道を駆けあがり、山道から脇のけもの道に逸れた。

 透子は迷わずそれを追う。地元の人間でも入らないような山道であったが、不思議と躊躇はしなかった。狸は小回りが利かず、足の遅い透子に合わせて、時折立ち止まって追いつくのを待つ。

 ――なんだか、前も、こんなことがあった気がする。

 既視感を覚えながら、泥を蹴り、水を含んだ枝葉を掻き分けて、透子は走る。


 そうしてたどり着いた先は、折れた御神木の前だった。

 見覚えのある男が一人、立っている――。

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