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 ちりん、とささやかな風鈴の音がする。開け放された縁側から吹き込む風は、夏の暑さと湿気を含んでいた。

 ここは離れの透子の自室。作り直した朝食も済ませ、栄吉は神社へ、透子は離れに戻って来ていた。栄吉に言われた通り、一応は宿題を広げてみるものの、さっぱり集中ができない。さっきから、世界史の課題レポートが一文字も進んでいなかった。

「あーあ」と声を上げ、透子は宿題を投げ出して畳の上に寝転がった。天井に見えるのは蛍光灯。少し雲のかかった空を、軒の下から見上げることができた。青い空は鮮やかだが、薄く伸びたくすんだ雲は、雨の予感をさせた。

 夢の中と、同じ色の空だ。透子は今朝の憂鬱な夢を思い出し、顔をしかめた。

 やけに胸に残る、妙な夢だった。夢から覚めたというのに、一言一句思い出せるほどに鮮明で、そのくせどこかおぼろげだった。

 ぽん、と胸になにかが落ちてきた。そこで透子の思考は途切れる。風のせいで、棚からなにか落ちたのだろうか。そう思って寝ころんだまま首を持ち上げ、透子は目を見張った。

 胸の上には、夏休みの宿題である、世界史課題レポートがあった。レポートと言ってもその量はすさまじく、一冊の教科書ほどの厚みのある紙の束となっていた。紐で綴じられたそれと、透子は目が合う。

 絶句した。目がある。本を横に倒したような状態の紙の束に、つぶらな瞳がくっついているのだ。しかも目だけではない。紙の隙間から生えた四本の足。猫とも犬とも違う少し太い尻尾。動物のようだが、これは間違いなく、透子が先ほどまで睨んでいた宿題だ。

 宿題は透子の視線に気付くと、悪戯がばれた猫のように身を縮め、さっと逃げ出してしまった。まるで野生動物だ。呆気にとられる透子の脇を軽やかにすり抜け、縁側から飛び出してしまう。そこで、透子は我に返った。

「こらー! 私の宿題!」

 透子は跳ね起きると、縁側のサンダルをつっかけて宿題を追った。あれがないと、透子は休み明けに宿題の提出ができなくなる。

「勝手に付喪神になるんじゃない!」

 付喪神は、長い間使用していた物が化ける妖怪だ。宿題なんて古いも何も、休み前にコピーされたばかりのもののはず。まさか近頃妖怪が増えた影響で、刺激されたのだろうか。

 縁側に駆け下りると、課題は周囲を取り囲む雑木林の、下草の中に逃げ込んだ。課題のピンと張った尾だけが草の間から突き出して、うろうろとさまよっているのが分かる。

「待てー!」

 透子はその尾を掴もうと、雑木林に飛び込んだ。


 ○


 ようやく逃げた宿題を捕えたのは、草の繁る雑木林を抜けた先だった。

 木々に囲まれた少し拓けた場所。それなりに草の手入れもされているのか、土色の地面が見える。広場の中心には根元近くで折れた木がぽつりとある。

 ――――ここは……。

 透子の勝手知ったる場所だ。腕に捕えた宿題の、動く気配がないことを確認すると、透子はそっと木の傍に近寄る。昔はよほどの大樹であっただろうが、すでに乾いて、幹の中は空洞になっていた。死んでしまったような穴の黒さに透子は喪失感を覚える。


 ――私、この中に捨てられていたんだ。


 かつて、透子はこの穴の中に、身を丸めて眠っていたらしい。

 ほとんど生まれたての赤ん坊で、置手紙の一つもなかったのだと、栄吉から聞いたことがあった。

 穴から目を逸らすと、僅かに残った木の命に縋るように、若い芽が伸びていることに透子は気が付いた。この青々と緑が茂る夏にもかかわらず、やっと一枚、二枚の葉を広げられるようなささやかなものだ。

 宿題が興味深そうに生えた手を伸ばし、葉に触れようとしていた。透子は慌ててそれを抱え直し、葉から遠ざける。

「やめなさい、もう!」

 叱るようにそれの頭を叩き、ため息をつく。

 それで頭が冷えたようだ。透子は改めて辺りを見回し、表情を歪める。湿気の多い風がさやかに流れ、周囲の森を揺らした。

「神社、来ちゃった。帰らないと」

 このあたりは神社の境内に含まれる。折れた木は、元は境内の裏手にある御神木だったのだと透子は聞いていた。周囲は社を丸ごと囲む鎮守の森の一部であり、多くの古い倒木と、若く細い木が目立っていた。

 透子が生まれる前に起きた災害で御神木が折れてしまってからは、あまり人も来ることがなくなってしまったらしい。栄吉が掃除をしに来ることもあるが、それも頻繁ではない。

 帰ろう、と透子は踵を返した。そこで足を止める。


「透子、なにやってんだよこんなところで」

 透子と同じ年頃の少年が立っていた。体格の良い少年で、短く刈り上げた髪が少し田舎っぽさを感じさせる。やや角のあるものの顔立ちは悪くない。今は半袖の制服姿で、よく日に焼けていた。

「宗太……」

「独りごと言ってたよな? 手に持ってるのなんだ? ……それ、世界史の宿題かよ」

 宗太に言われて、透子は腕の中にある紙の束を見た。それはまるきり初めから手足も瞳もなかったような、ごく普通の紙の束だった。

 宿題なんて動くはずがない。まるで自分がおかしくなった気がして、透子は首を振った。

「なんでもない。宗太、どうしてここに?」

「ばーちゃんとこ行くには、ここが近道だから。……お前、相変わらず妖怪がどうとか言ってんの? やめた方がいいよ」

「なんでもないって言ってるでしょ」

「なんでもないじゃねーだろ。あんまり妙なことばっかしてんじゃねーよ。ただでさえこの上森神社は評判が悪いのに、お前まで変な目で見られてるの、気が付いてるだろ?」

 宗太の言葉に透子は俯き、紙の束を強く抱いた。町の人々が、今の上森神社をどう見ているのか、透子はよく知っている。

「お前はさ……この神社の子じゃないし、別に嫌われる必要なんてねーんだ。普通にしてろよ、変な影響、受けないでさ」

 下を向いていると、じわりと目の奥が熱くなる。

 ああ今朝の夢だ、と透子は思った。幼い頃、この神社の養子と言うことで随分からかわれた。きっと今日、それを夢に見たのだ。

「……おい、透子?」

 宗太が透子の様子に眉をしかめ、戸惑ったように手を伸ばした。肩を掴むか、腕を取るかで迷い、その手はちょうど宿題の端を掠めた。付喪神のちょうど尾があった場所だ。

 瞬間、宿題が「にゃっ!」と叫んで跳ねた。透子の手から飛び出し、近くの茂みへ逃げ込む。反射的にその動きを追って、透子は顔を上げる。と、宗太と目が合った。

 透子の潤んだ瞳に気付き、宗太はばつが悪そうに手を引っ込めた。

 しかし透子はその顔を見ないようにして、逃げた宿題を追いかける。これ以上、宗太の傍にいたくはなかった。


 ○


 再び宿題を追いかけて透子は下草の繁る森の中を走った。宗太の前では大人しかった宿題も、今は小回りを利かせてせかせかと走る。

 鎮守の森にはそこかしこに倒れた古木がある。下草に覆い隠されたそれらに、透子は何度も足を取られた。まさか宿題をしていて森に入るなんて思わなかったから、シャツにショートパンツという出で立ちの透子は、何度も転びかけては膝を擦りむいた。

 痛みがあるたび、透子は夢や幻を見ているのではないと気が付くのだ。誘うように尻尾を振り、どこに行くのかもわからない宿題を、透子は追っている。

 妖怪なんて、いるわけない。

 そんな当たり前のことも、目の前の付喪神の存在が否定する。


「待って、待って! どこに行くの!」


 透子は夢中で追いかけ、追いかけ――。

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