第六話
『あの侍女見習いは隣町の伯爵令嬢だ。嫁ぎ先が決まったから辞めると聞いた時はてっきりお前のところに嫁ぐのかと思っていたが…思い違いだったようだな』
先程主がやけに真面目な顔で言った言葉が、クロードの頭から離れない。
アンヌが伯爵令嬢だったなんて、クロードは何一つ本人から聞かされてはいなかった。
その上、嫁ぎ先が決まったから辞める?
「冗談だろう…」
主の部屋を出てからどうやってここまで来たのか。
殺風景な自分の執務室をぼんやりと眺めながら、クロードはぽつりと呟いた。
アンヌとの間の蟠りが無くなってからは、クロードはすっかり安心しきっていた。
焦らずとも、時間はある。
徐々に徐々に距離を詰めて、こちらに振り向かせればいい。
そんな悠長な事を考えていた時には既に、アンヌの縁談は着々と進んでいたことになる。
得も言われぬ感情が、クロードの心に沸々と沸き上がる。
縁談を進めているくせに、自分へあの様な思わせ振りな態度を取ったアンヌが腹立たしいのか?
―――それもあるが、それだけじゃない。
アンヌとの距離をたった一歩縮めただけで浮かれて、余裕ぶっていた自分が酷く腹立たしい。
何故優しく微笑み掛けることすらしなかった。
そうしていれば、彼女との距離がもう一歩でも縮まっていたかもしれないのに。
何故手の一つも握らなかった。
そうしていれば、彼女も自分を意識したかもしれないのに。
何故、この想いを告げなかった。
そうしていれば、あの時そうしていたなら、もしかしたらほんの少しでも今の状況が変わっていたかもしれないのに。
「くそっ……!」
悔しげに歯を食い縛り、クロードは唸るように声を漏らした。
アンヌが他の男の物になるなんて耐えられない。
あの温かな笑顔が、この先一生他の男に向けられるなんて我慢ならない。
花が咲いた様に笑うアンヌがこの屋敷に、自分の傍らにいないなんて、クロードには考えられなかった。
しかしその後クロードは、想いを告げるどころかアンヌと言葉を交わす事すらなく、とうとうアンヌが屋敷で働く最後の日を迎えてしまったのだった。
その日は、アンヌは屋敷内で会う人会う人に別れを惜しまれた。
しかし結局クロードと言葉を交わす事はなく、夜を迎えた。
明日の早朝には、アンヌはこの屋敷を出なければならない。
そしてその少し後には、縁談の相手との婚儀が待っている。
そうなると、クロードと話ができるのはこの夜が最後になるだろう。
せめて、この屋敷でお世話になったクロードにはきちんと別れの挨拶をしておきたい。
そして、一目でも顔を見て、一言でも言葉を交わしてから別れたい。
そんな想いから、アンヌはクロードの執務室を訪れていた。
たっぷり小一時間逡巡して扉の前をうろうろと行ったり来たりして漸くノックをしたアンヌ。
がしかし、中からの返事は一向に聞こえない。
不思議に思って声をかけつつ開けた扉の向こうには、クロードはいなかった。
相変わらず殺風景な部屋を眺めながらどこかほっとしたアンヌは、綺麗に整頓された机からペンと紙を探し出した。
言葉で伝えられなかった言葉を、たった一言。
書き終えて穏やかな笑みを浮かべたアンヌは、それを机の上に置いて部屋をでた。
宛名も差出人の名前もない手紙とは到底言い難いそれを、クロードはどう思うだろうか。
たった一言だけを綴って、余分なものは何一つ書かれていないそれを。
差出人が自分だと、気付いてくれるだろうか。
淡い期待と不安を胸に抱えたアンヌは、翌日屋敷の従者達に見送られて帰っていった。
アンヌは自分を見送っている従者達の中から、クロードを見付け出すことはできなかった。