第五話
「あ、おはようございますクロード様!」
たった今セドリックと談笑していたアンヌは、階段を降りてきたクロードを見付けるなり花が咲いたような笑みでそちらへ駆けていった。
そんな様子を、セドリックは微笑ましげに見送る。
あの日からというものの、アンヌとクロードは一気にその距離を縮めていた。
それは他の従者達から見ても一目瞭然で、確実に数日前の不仲な二人とは正反対だった。
アンヌはクロードを見付けるなり溢れんばかりの笑顔で駆けていくし、対してクロードもアンヌを見掛けると自分から声を掛けている。
その表情があまりにも優しげで、今までアンヌに向けていた冷ややかな態度とは似ても似つかない。
そんな二人は、屋敷内の従者達の密かな観賞対象であった。
しかし当の本人達は周囲の人間からの微笑ましげな眼差しなど、微塵も気付いていなかった。
「眼鏡、新調されたんですか?」
久しぶりに見たクロードの眼鏡姿に、アンヌは首を傾げた。
「ああ。酷く目が悪いわけではないのだが、これがないとどうも落ち着かなくてな」
「そうなんですか…クロード様は、眼鏡を外された方が素敵ですのに」
残念そうに眉を下げて言ったアンヌに、クロードはいつもの如く男心を擽られる。
「ああ、でも、あんなに素敵なお姿を晒されては、他の侍女さん達がきっと見惚れてしまいます。それはそれでなんだか…」
語尾を弱くしていきながら恥ずかしげに俯くアンヌの耳は、赤く染まっている。
クロードの荒々しいそれとは比べ物にならない程の愛らしいその嫉妬は、またもやクロードの男心を擽った。
―――まったく、この娘はどれ程この私を翻弄すれば気が済むのだ。
「お前が女を好きになるなんて珍しいな」
「はい?」
昼食後のお茶を優雅に飲んでいた主が突然含み笑いを浮かべて言った言葉に、クロードは怪訝そうに声を漏らした。
「最近屋敷内が変に色めき立っていると思えば、発端はお前とあの侍女見習いらしいな」
「どういう事でしょうか」
「お前が例の侍女見習いと屋敷内で親しげにしているものだから、周りの従者達までもがそういう雰囲気になっているらしい」
何が可笑しいのかくっくと喉を鳴らして穏やかに笑い声を漏らす主に、クロードはあからさまに眉を寄せる。
「まぁそんな顔をするな。良かったな、上手くいってるんだろう?その侍女見習いとやらと」
「上手くいくもなにも、私は彼女に想いすら伝えていません」
しらっと言ったクロードの言葉に主は驚いたような表情をした。
「それは本当なのか?」
「何故こんな嘘を吐かないといけないのですか」
「それならさっさとその想いとやらを伝えに行け。でないと近いうちに他の男に掻っ拐われるぞ」
やけに真剣にそう言った主のその後に続いた言葉を、クロードはすぐには理解できなかった。
「…はぁ……」
ぼんやりと掃除をしながら、アンヌは重い溜め息をつく。
あの日から、クロードはよく声を掛けてくれるようになった。
それが嬉しくて笑顔になると、クロードは優しげに目を細める。
毎日毎日顔を合わせる度に他愛のない話しかしていないのだが、アンヌにとってはそれが至福の時なのだ。
少し離れた場所にクロードを見付けると、不意にクロードの目もこちらへ向けられる。
その瞬間、クロードは必ず優しげな瞳をアンヌに向けて、去っていく。
ただ目が合ってそう勘違いしているかもだけかもしれないのに、それでもアンヌは天にも登りたい程の幸福感に包まれた。
そんな心地よい日々を送っている中、父親からの一通の手紙が届いたのだ。
いやに浮かれた文面で綴られたそれは、"お前の縁談が決まったので帰って来なさい"という内容だった。
元々は嫁ぎ先が決まるまでの間だけという約束だったので、当然この屋敷を辞めて家に帰らねばならない。
しかし今のアンヌは、どうしても後ろ髪を引かれるのだ。
それは、クロードへの恋心からだった。
漸く二人の間の蟠りがなくなり、アンヌはクロードへの想いを恋心だと理解して大切に育てていた。
それなのに、こんなにも早く縁談が決まってしまった。
自分の我が儘を聞いてこの屋敷へ送り出してくれた父親に、これ以上駄々を捏ねるわけにはいかない。
それなりの家に生まれた娘が親に決められた相手に嫁いでいくのはごく当たり前の事であり、恋をしらないアンヌはそれを受け入れるつもりでいた。
しかし、この屋敷へ来て。
この屋敷の執事頭という位置に就く男に、恋をしてしまったのだ。
クロードと恋仲になろうなどと、そんな大層な、おこがましいことなど考えてはいない。
ただ、自分の想いだけはクロードに伝えておきたかった。
でも、どう切り出そう。
いきなりこんな自分に想いを告げられて、クロードは迷惑に思うだろうか。
想いを押し付けるだけ押し付けて言い逃げのように辞めるなんて失礼甚だしい事など、アンヌには到底できるはずもなく。
結局何も告げられず仕舞いで、とうとう屋敷での侍女生活最後の日を迎えてしまったのだった。