伸ばされた手
私は、怯えながら伸ばされた腕を弾いた。その腕の主は弾かれた腕を呆然と見つめ、それからまた私に伸ばした。その腕はやはり怯えている。まるで私を助けていいのかどうか分からないとでも言うようにだ。
そんな手が煩わしかった。私は一人、これからずっと独り。誰の助けもいらない、孤独に寄り添いながらこれから先の人生を歩んで行こうと思っていた。でもそんな本当の暖かさに触れてしまったら、こんなに暖かい感情を思い出してしまったら、――固いと思いこんでいた感情が、手に落ちた雪結晶のように溶けて消えてしまう。それが嫌で拒絶しているのに何度も伸ばされる腕、暑さでちょっとだけ汗をかいている腕、ごめんねと汗を拭くその仕草、私の強情もここまでだった。汗を拭かれた腕を私は遠慮して握った。グイッと引っ張られるような感覚、突然くる体全体を包み込むような暖かさは気温の暑さなんかじゃなかった。
繁華街の大通りから少し路地裏に入った、プラスチック製のゴミ箱と生ゴミの入ったゴミ袋が乱暴に置かれている場所。そこで私は彼に拾われた。
第二次高度経済成長期。とある国の爆発的技術革新が原因の地球全体を巻き込んだ超インフレ。便利になっていく電化製品、絶対安全を謳った車、自家発電が完全実用化し電力供給の不用化。人間の生活はどんどん最小の行動で最大の効果を得られるようになった。
だが、その反面で問題も生じるようになった。それは育児放棄の急増だ。親という言葉からは想像も付かないような理由で起こっていくことになる、それが“育児ほど不便で面倒なものはない”というものだ。近年では少しでも安全確保された道から離れると一人は確実に捨てられた子供と出会えると言われているくらいだ。しかし、この状態が長く続くと人口は急速に減り続けることになってしまう。そこで国が出したのは子供一人に対して補助金を出すというもの、さらに生まれてきた子供が捨てられないように保育所を大量に作り、そこで子供が一人で生きていけるまで育てるというものだ。
「そろそろ朝御飯ですよ」
優しい声が聞こえる。私は新聞から目を離して声のした方を見た。
そこにいたのは寂しそうな目をした優しい顔の神父がいる、私を拾った男だ。彼の周りには数人の子供が楽しそうに歩いている。その子供達は全員親から捨てられて彼に連れられてきた子供達だ。最初はどの子も暗いのだが、ここに三ヶ月もいればどの子も明るくなっている。私はというと、そこまでは行かないが幾分も明るくなったという自覚がある。
彼の周りには子供達だけでなく、虫や鳥も寄ってくる。昔からそういうのに好かれやすい匂いがあるみたいです、と言っていたので嗅いでみたことがあるがそんな匂いは全然しなかった。朝のパンの香りが深く残っていたと思う。
待たせる訳にもいかない、私はそう思ったので、素早く立ち上がり彼の方に走って向かう。
「新聞を読んでいたのかい? いつも勉強熱心だね」
「新聞は好きです。いろんなことを知ることができるから、それに神父様から教えてもらった文字を使うのにとても役立ちますから」
「そう言われると教えた甲斐があるというものです。さ、朝御飯にしましょう。今日はパンにチーズを乗せたものに冷たい牛乳を用意していますから」
それはとても彼の出す食べものの中でもかなり贅沢なほうだ。何しろこれだけの人数を一人で養っているのだ。どれだけ貯蓄があるのかは分からないがこういう所からでも節約していかないとお金が保たないのだろう、私はそう推測している。彼に聞いたところで言葉を濁されるだけで明確な答えが得られないことはこれまでの知識から分かっていることだった。
彼の教会は人のいる都会から結構な距離を置いた田舎にある。訪れるのは本当に信心深い信徒か、スーツに身を包んだ強面の男達くらいだ。後者の彼等がどのような理由でこの教会にくるのかはわからないが、子供達からの評判はあまりよくない。見た目が怖すぎるのが原因なようだが、一部の子供にはそれがいいという子もいるので神父は強く彼等がこないようには言えないようだ。
私は彼と拾われた子供達と一緒に教会へと向かう。わいわいと楽しい雰囲気に包まれたまま歩いていると、教会の前にある噴水の前に一人の目深に帽子を被ったスーツ男が立っていた。だがその男はいつも来ていた同じ姿の人達とはどこか違う気配がして、私は反射的に彼の服を掴んだ。
彼は私が服を掴んだことに気付くと優しく微笑み、私の手をそっと握ってくれた。それから目の前の男をじっとみつめた。向こうも彼を見つめて動かない。いつもなら気持ちいい朝の風が今はどこか重たく感じられた。二人が見つめ合って数秒、スーツの男がようやく口を開いた。
「良い朝だ。久しいな、プロフェッサー」
「久しぶりだね。でも私をプロフェッサーと呼ぶのはよしてくれないか? もう、プロフェッサーではないよ」
「いつでもどこでもお前はプロフェッサーだ。例えお前が否定しようともな」
男は帽子を取って胸の前に置く。その下から現れたのは、彼と同じ歳ほどの男だった。少し歳をとり、彼よりも老けてやつれている印象があるが、それでも何の支えもなく自分の力だけで立っているところを見ると元気なようだ。だがそれは見た目だけの印象だ。今の時代、完全な義足というものは完成していて、やろうと思えばどれだけ体が麻痺していようと動かすことのできる体を手に入れられるのだ。しかしそんな様子は微塵も感じられない、おそらく本当に自分の足で立っているのだ。
この男が私は一目見た時から嫌いになった。何故だか分からないが直感的にそう感じたのだ。
「朝御飯がまだなのです。子供達もお腹を空かせていることですから、先にいただいてもいいかな?」
「しばらくはここにいようと思っている。部屋を一つ貸してくれないか?」
「分かりました。では、先に奥へ行って朝御飯を出してくれるかい? 私はこの人を部屋まで案内してくるから」
最後の言葉は私に向けられたものだった。毎日朝御飯を用意するのを手伝っているので、置いている場所は分かっている。だからこそ私にその役目を任せたのだろうけど、どうしてか彼とこの男を二人にさせることに抵抗があった。思ったころには既に体は動いていた。私は男の腕をひっつかんでいた。
「私が部屋に案内するので神父様は先に行っててください」
言って、返事がくる前に男を教会の奥に案内する。奥には通常参拝してきた信者達が体を休めるために使う部屋がいくつもある。今は一人もそういう人がいないので適当に開いている部屋に男を連れて行った。できるだけ遠くの部屋を選んで。
「どうぞこの部屋をお使いください」
「ああ、ありがとう。お嬢さん」
無愛想な私に対しても礼儀を忘れないその姿。何事にも貫くものがあるということなのだろう、その姿をどこかで見たことがある。それがどこなのかは覚えていない。
無性に逃げたくなった私は、掴んでいた腕を乱暴に解いてもと来た廊下を走った。自分がなんでこんな行動をとっているのか分からない。
いつも御飯を食べている場所まで走りきって息が切れている私を、彼と子供達は不思議そうな目で見つめている。自分用に用意されている椅子に座ると、目の前には美味しそうなパンにチーズが乗ったものがおいてある。久しぶりの豪華な朝御飯だ。
私が席に着くと朝御飯の前のお祈りが始まる。彼と子供達は瞑目して手を合わせている。しかし、私は瞑目しない。お祈り中ずっと彼のことを見ていた。見ていない間にどこかに言ってしまうんじゃないかと怖かったから。彼には見えていないのでずっと、目が乾くほどずっと見つめていた。
お祈りが終わると子供達は一斉に自分の前に置かれたパンにかじりつく。私も彼から目を離して自分の目の前に用意されたパンを手に取った。まだほんのりと暖かさが残っていて、その上に乗っているチーズが手頃なほどにとけている。やっぱり普通のパンよりもこっちの方が美味しく感じられる。
私はそれを早めに食べきると、いつもと同じように部屋から出た。背中に楽しそうな会話が当たるのを感じながら。
教会から噴水の前を通って少し行ったところに私のお気に入りの場所がある。大きな木が作った影で外の暑さが嘘なくらい涼しい場所、そこに設置してある木製の長いベンチだ。自然が作り出した影は暗いわけではないので読書をするにも最適な環境となる。雨が降ってきた時は一日中このベンチで過ごしていたこともあった。
ベンチに座り一息をつく。どうしてかまだ朝のはずなのに体は重く、ここにくるといつも落ち着くはずの気持ちがいつまでたっても落ち着かない。鼓動が早鐘のように鳴っている。
「また会ったな。お嬢さんは孤独が好きなのか?」
話しかけられた瞬間、心臓が飛び出るのではないかというほど驚いた。何故あの男がここにいるのかと、私の大切な領域を侵しにきたのかと。
「プロフェッサーのところに行こうと思ったのだが子供達と楽しそうに話していてねな、しばらく時間をおこうと思ってこの辺りを見て回っていたんだ。ちょうど大きな木があったから木陰で涼もうと思っていたら、君がいたというわけだ。君はあの楽しい輪には加わらないのか?」
「別に。孤独が好きだからいい」
「なら私と同じだな。隣に座ってもいいか? もう少し時間を潰さないといけないんだ」
拒否する暇もなく男は隣に座った。何か言おうと思っていたタイミングを逸し、ついでにこの場から立ち去ることもできなくなった私は憮然とした態度でベンチに座っていた。そこには食後はここで一休みするという私の日課を、こんな邪魔者が入っただけで止めたくはないという気持ちもある。
風が吹き、二人の座る木陰にも涼しい空気が通る。
「君はあの神父のことが好きか?」
「もちろんです。私を拾ってくれた、本当の意味で私を孤独から引っ張り上げてくれた人ですから」
「なるほど、それは実におもしろい理由だ」
男は私から目を離さずに言いきった。助けて貰ったということを面白いと。
それに対して私が何かを言い返す前に男は続けた。
「本当におもしろい。まさか、自分が孤独になる原因となった男に好意を抱き、あまつさえそのことを知らずに生きてきたとは」
「……言っている意味がよくわかりません」
「なら問おう、お嬢さん。あいつは君達孤児を子供として登録していると思うか?」
その質問にどんな意味が込められているのかは分からない。彼は毎朝、自分達に向けていくつかの本を読んでくれる。その中で毎回同じフレーズが登場するのだ。『汝の隣人を愛せよ』と。それはきっと、子供だとか親しい関係だとか関係なく、困っている人や助けを求めている人に手を差し伸べよと言っているのだと思う。それが正しいとするなら、彼はきっと私達を子供として登録していない。子供として接しているのは変わらないのだが。
「していません。神父様はそんな形だけの関係に拘るような人ではありませんせんから」
「だろうな。私もそう思う。だがそれでは国からの援助はこない。援助なしでこの人数を養うにはそれ相応の地位に居なければできない芸当だ。だがあいつは今では金のまったく入らない神父をやっている。おかしいとは思わないか? そんな職業にいながら何故あれだけの人数の孤児を養うことができるのか、どうやって食料を調達しているのか、その金はどこから出ているのか。君は正体不明の男に好意を抱いているに等しいのだ、お嬢さん」
不思議に思っていた。けれど私はそれを疑問として捉えることができなかったんだ。
同時に私は目の前の男が危険な男だ認識した。何故なら本当のことを隠している今でさえ私をこんなにも不安定にさせているのだ、これから先この男が話す内容はもしかしたら私という人格を完全に崩壊させてしまうかもしれない。だから私は席を立った。もうこの男と話すことはないだろう。
離れていく背中に、男は聞かせるわけでもないように言った。
「あいつはこの世界で最高のプロフェッサーと呼ばれた男だ。なんせ発明したものは全てこれまでの発明品とは一線を画していた一級品だった。第二次高度経済成長期に発明された物の大半はあいつが発明したものだ。特許による収入だけで軽く億を越しているはずだ」
聞こえない。私は自分にそう言い聞かせてお気に入りだったベンチから立ち去ったのだった。
お昼は悶々と考えている間に時間が過ぎてしまった。途中昼食があったが、私は自分に用意されたパンをひっつかんで自分の部屋に閉じこもった。彼の前にいるとあの男のことを思い出してしまいそうになるから、楽しいはずの御飯を嫌なことを思いながら食べるのはしたくない。
部屋で一人もくもくと食べた。その行為がひどく懐かしく感じられる。昔はずっとこうやって一人で部屋に篭もって食べていた。あの時は本当に誰も信じることができなかったし、信じようとする相手もまだ彼一人だった。
それから数年、彼はふらふらと都会に出ては捨て子を拾ってきた。ようやく小学生に届いたような年齢の子供もいれば、まだ立つ事もできないような子供までいた。なので彼は毎回でていく時は私に子守を頼んだ。最年長であったし、私を部屋から出すには良い理由だとでも思ったのだろう。私はいつもしぶしぶその頼みを聞いていた。拾って貰った身なのだから、それくらいはしてもいいかなと思ったのだ。
そんな経緯があり、私は部屋からでるようになった。最初のうちは彼が帰ってきたら部屋に戻っていたのだが、そのうち子供達に好かれて部屋にいても無理矢理外に連れ出されるようになった。ただ私は体を動かすのがあまり好きではないので、いつも子供達から離れた位置で子供達の様子を見ているばかりだった。ある日そんな私を見た子供達が、「お母さんみたいだね!」と楽しそうにいった。どうしてそうなるのか分からなかったが、とりあえず話を合わせようと思い、「じゃあお父さんは?」と言ったのが駄目だった。その答えなんて分かりきったことだったのに。
コンコンと部屋の扉がノックされる。控えめに叩かれた音だけで誰がきたのか分かる。
「僕だよ。入ってもいいかな?」
「はい、……どうぞ」
返事を待ってから扉は開いた。彼はちょっと困ったような微笑を浮かべてそこにいた。胸がキュンと締め付けられるような気がして、拳をより強く握りしめた。
平静を装い、頭の中で何をされてもいいように気を張った。一瞬でも彼に今の私の何かを見破られたらそこから何もかも決壊してしまう気がした。だから強く自分を保とうと何度も心の中で言い聞かせる。
彼は部屋に入り静かに扉を閉める。そして私の隣に座った。何をされるのかと身構えたが、彼は私が想像していなかったことをした。
ただ困ったような微笑をしたまま、まっすぐ前を見つめるだけだった。何かをするわけでもなく、何かするのかと思わせるわけでもなく、ただ一番落ち着く場所に帰ってきたとでもいうように私の隣に座っただけだった。
それが不意打ちだった。平静を保っていられただけでも奇跡だと思う。緊張の糸はもう千切れそうなくらいに張っていて、今何かをされると確実に千切れてしまう。だがしなかった。
彼が何もしないことを選択してしまったため、自然と私も何もすることができなくなってしまった。嫌ではないけど気の張る時間が続いた。
部屋は片づいているというより物がなく、何も見るものがない。彼はどこを見て、なにを考えているのか気になって仕方がない。
「何を、見ているのですか?」
思わず口にしてしまった。だが何も喋りだせないと思っていたのだから僥倖だった。彼は私の方を向いた。
「何も、見ていなかったよ。ただここにいたいと思ったんだ」
優しい声。怯えながら私に手を伸ばした時と同じ声。胸の辺りが熱い、せき止められている想いが膨張してしまっているのか。
だが、その想いと同時に胸に響くのはあのスーツの男の声だ。自分を孤独にしたのは彼だ、スーツの男はそう言った。もしも彼が何もしなければ、私は今どうしていただろうか。家族と楽しく過ごしていたかもしれない。友達と和気藹々と学校に行っていたのかもしれない。きっと彼に会うこともなかった。それが悲しいことか、そうじゃないことなのかは分からない。原因が彼じゃなくても彼は私を拾ってくれたのだろうか。
心配が心配を生み、熱かった胸中は急激に冷めていく。これが不安というやつかもしれない。一度独りを選択してしまったものが忘れてしまう一つの感情。
気が付いたら、私は彼に、拒絶の意志を示していた。立ち上がって距離を置き、彼を睨み付ける。彼の一挙一動すべてに警戒してしまっている自分がいる。
「……何しにきたんですか?」
やっと絞りだした言葉が、相手を疑うもの。今まで一番信頼していた人間をたった数分で疑うことができる自分に、もしかしたら私はやっぱりどこまでいっても独りなんじゃないかと思ってしまう。
彼は警戒しまくって脅えている私を見ても気にした様子はない。ただ、心のそこから困ったという表情をした。
「うん。僕は何をしにきたんだろう? 今日の君を見ていたら、ここに来なきゃって思ってね。でも自分でもおかしいと思うけど、理由もないのに今ここにいるのが正しいことだって思ってる」
「……どうして?」
「うん。正直な君を見ることができたから、かな」
「私はいつも正直です!」
「うん。知ってるよ」
諭すように言われて無性に苛立ちを覚える。何故そんな気持ちを持ってしまったのか分からない。けどこのままだと今までの私に戻ることはできなくなりそうだった。
止めたいと思ってる、これは嘘じゃない。でも止められない。手を震わせて、拳を強く握る。鋭かった目つきはさらに鋭くなって彼を睨んでいる。
彼はそんな私の姿を見ても表情一つ変えなかった。さっきのように困ったような顔をして、優しい目で私を見ている。
「取り繕っていない君の方が素敵だよ。ううん、それも違うかな。我慢していない君の方が……かな?」
「わ、私は!」
「こっちにおいで?」
そう言って彼は私から目を離して何も飾られていない壁の方へ向いた。私には何もしない。手でどこに座るかを示すわけでもなく、招くわけでもなく、ただ私の居場所をその隣に作ってくれた。
警戒心が削がれる。彼になら身を委ねてもいいと思えてしまう。
「私は……っ!」
だからこそ私は部屋を飛び出した。このまま身を預けるようなことはしたくなかったから。何故かと言われてもわからないけど、こうしないと自分じゃない気がした。どこに行こうなんて考えずにただ走って自分の部屋から遠ざかった。
日はすっかり落ちてしまった。結局教会から結構離れたところまで行って、そのまま歩いて帰ってきただけだった。ここを出てもどこも行く宛もないし、人がいる場所までたどり着くには何日もかかってしまう。そんなところまで行く体力も勇気もない。
暗くなった教会は日が出ていた時よりも雰囲気があった。怖いというより荘厳というのだろうか、何故だか自分の居場所はこんなところには無いんじゃないだろうかと思ってしまう。
私は教会には入らずに裏側に回った。少し行ったところに一つだけ小さな家がある。そこが彼の寝泊まりする家だ。ふらふらとどっかに行ってふらふらと帰ってくる人だから、子供達と一緒にいない方がいいと考えたらしい。私はその家の鍵を持っている。よく掃除を任されていたから、頼んだら作ってくれた。これは誰にも言っていない私と彼だけの秘密だ。
そろそろと鍵を差し入れたところで開いていることに気が付いた。いつもはどんなに近い距離行く時でも締まっている鍵が開いている。もしかしたら彼が私を待っているのかもしれない。
「……お邪魔します」
小さい声で言ってから中に入る。中はそれなりに広く、全て繋がった一部屋の空間だ。月明かりだけが照らす床を歩き、慣れた足取りでベッドに向かった。
彼が寝ている。彼はいつもベッドの半分しか使わない。何回か寝ている彼を見にきたことがあるが、いつも彼はベッドの半分しか使っていない。
と、彼が苦しそうにうめいた。
「……どこに行ってしまった……、折角、お前のために作ったのに……、お前がいなければ、何もかもが無意味になって……」
彷徨って伸ばされる腕はもう半分の誰もいないベッドの上。
「夢……悪い夢でも見てるの?」
なんとなく、私は今朝あのスーツの男が言ったことが本当だと思った。でも、もう混乱しない。走っている間に気付いたことがある。今まで忘れていたことだ。
あの日あの時、怯えながら伸ばされた腕を握りしめて私に本当の暖かさをくれたあの瞬間から、きっと私は彼に恋をしてしまった。
私は彼のふるえる手を握りながら半分空いているベッドに潜り込んだ。途端に強く握り返される。
それから安心した声が聞こえる。
「ああ……ここに……いたのか……」
握られた手から彼の暖かさが伝わってくる。安定した鼓動もよく聞こえる。それに比べて、私の鼓動はなんて不安定なんだろうか。今だってこんなにも早くなってる。
彼の顔を見て、それから窓をみた。雲が空を覆い尽くして、本当に深い闇がそこにあるようだ。
「おやすみなさい」
それでもその向こうには明るい空がある。それは分からなくてもいいから、今この瞬間を大切にしよう。
「ありがとう」
暗い空。家は静かになった。
企画名:二文百物語
概 要:最初と最後の二つの文章を固定して物語を作る。
趣 旨:文章をどう捉えるかを楽しむ。とにかく楽しむ。
各指定:1、小説家になろうのアカウントを保持していること。
2、文字数は10000字程度。
3、投稿日は指定されている(後述)。
4、指定された文章は「句読点」の付け加えのみしてよい。
5、R-18での投稿は禁止。
6、宣伝はしてもよい、しなくてもよい。
7、短編形式で投稿する。あるいは、短編集の一話としても構わない。
8、それぞれに感想はできるだけ書く。
9、指定無しはフリー。
10、タグに「二文百物語」と載せること。
投稿日:8月12日(日)0時~12時
指定文:最初「私は怯えながら伸ばされた腕を弾いた」
最後「暗い空家は静かになった。」