邂逅《5》
――天界。
そこは、人界や魔界の上に位置する、神々の住まう至高の地。中央の天山に、天帝の住まう壮麗な陽凰宮が在った。
「天帝陛下!」
高い高い玉座に、天帝聖龍神が君臨する。彼は此の世を創造した故君神王の天子で、邪神と為った弟黒龍を封じて世界を守り、天帝を継いだ。
冴え冴えとした美貌は、その色を除いて双子である黒龍神と同じ造り。月光を体現しているかのような輝く銀糸の髪に、淡く青い瞳。
「黒神をお討ち下さい! 奴の非道を見過ごすわけには参りません」
何処からともなく現れた黒神復活の噂は、瞬く間に天界中に広まっていた。神々にとって、黒龍の存在は脅威。一五〇〇年前の天宮の戮では、立ちはだかる闘神を次々と血祭りに上げ、あっという間に神王の首級を上げた。
その時の彼は、正しく『魔神』。桁外れの強さに対抗し、止められたのは兄である聖龍神だけ。
聖龍が施した封印の神術が解けた今、一五〇〇年前天界の神々を震え上がらせた恐怖が、再び天治界を震撼させようとしている。
「聞けば、あの薺明神殿も黒龍討伐に赴き帰らないとか」
「あれから奴の力は更に巨大に為ったと聞き及びます。もし、此の天界にまた現われでもしたら……」
「今度こそ、奴を討たねばなりません。あのような残虐な殺戮を繰り返させる前に……我々は陛下だけが頼りなのです」
次々に聖龍神に向けられる、苦悶に満ちた懇願。静かに聞いていた聖龍は何も言わず、只玉座の下の彼らを見下ろしているだけである。
此処数年の間に、何十人かの闘神たちが名乗りを上げ、黒龍討伐に向かっている。しかし帰ってきた者は誰一人としていなかった。一人、また一人と黒龍の下に向う度に神気を消していく……つまりそれは、一人残らず殺され消滅させられたということを意味していた。その度神々の恐怖は増していき、次第に名乗りを上げる者も居なくなっている。
少し前に天界最強の闘神と称された薺明神が敗れたと『されて』からは、誰一人として黒龍の元に向かっていない。
「陛下、何とぞ、再び御自ら奴をお討ちください! どうか……」
ある神がそう言いかけた、その時だった。
「其れは無用な心配だ。今からおまえたちは死に逝くのだから」
低い声が静かに響き、一瞬にして辺りが静まり返る。その声は、この場に集う誰もが聞き覚えのある男性の声。そして突然、広間中が白い光に包まれた。
少しして徐々に光が消えていく。すると、其れまで其処に立っていたはずの神々が血を上げて倒れていた。どの死体も四肢を裂かれ、辺りに転がっている……自分が死ぬことにすら気付かなかっただろう。
死体の中心に、彼は居た。玉座の下から聖龍を見上げて、右手に白く輝く剣を持っている。
「……此処に来るのも久しいな。最後に来たのは……神王を弑し奉り、貴方と剣を交えた時か」
黒龍神は、足元に転がる死体を踏み付けながら階段を上り始めた。
「兄上、お久しゅうございます。『鵺』はたった今、御元に」
玉座の兄の元まで来ると、そっとその手に触れる。聖龍神は、表情を少しも変えることなく何も言わずに、弟の目を見ている。
「……一五〇〇年振りにお会いするというのに、此の弟に何の言葉もかけて下さらぬのか。『黒龍』には言葉をかけることすら憚られますか?」
黒龍は笑んでいる。しかしその目は笑っていない。そして兄から手を放す。
「此の玉座を手に入れられたのも、私のお陰だというのに……闘神を差し向けて、殺そうとさえなされた。無駄だと解っておいででしょうに……何時の間にやら貴方も神王と似てこられたようだ、失望しましたよ」
言葉とは裏腹に、彼の表情に沈んでいる様子など微塵も無い。
「まあ、たとえ貴方が止めても聞き入れるような連中ではなかったでしょうからねえ。随分と沢山私の所に来たものだから、何人殺したか覚えていないのですが……貴方の本意では無かったのでしょう?」
兄の真意や事情など解りきっているというように、嗤っている。
「……お前は、此の玉座が欲しいのか?」
漸く、聖龍は口を開く。険しい面持ちは崩していない。
「ふ……ふ。違うな。私は此の世界等、『天』も『地』も要らぬ」
その笑みは、凍り付く様に静寂とした美しい笑み。
「私が欲するのは、血の賛美と生ける者の慟哭」
黒龍神は、兄の足元に手にしていた剣を立てる。それは、黒龍を封じ込めていた兄の剣『瑞奘』。
「私は、神王と貴方が創り上げて来た此の世界が滅びゆく様を見たい」
聖龍が立ち上がる。剣を取り、その切っ先を真っ直ぐ弟に向ける。
「お前がそれを望むというなら、私は再び、お前を止めねばならない」
黒龍神はそれを見て、一層嘲笑った。
「兄上、私を見縊るな。貴方の神力が弱まり、新たな光龍が生まれても人界に降りられなかったことは分かっている……現に、先刻の奴等のように……怯える憐れな神々の嘆願を聞き入れ、自ら私を討ちに来ることも出来なかったのでしょう? 一方、私の力は封じられている間にも増し続けた……今闘えば、私は貴方を確実に殺せる」
彼の言うことは真実だった。自分よりも神力の強い黒龍を封じ込め、長い長い間抑え込んでいたために、聖龍の力は以前と比べて甚だしく衰えている。
「私は悟ったのです。私の甘さが……私の弱さが、私に全てを失わせた。再び手にした此の力で、もう二度と……何も奪わせはしない。だから、今の私は誰でも殺せる……」
聖龍は剣を下ろした。
「『黒龍』、耀蕎を殺したのは……お前だな?」
天宮の戮で唯一生き残った、五大闘神最強の薺明神耀蕎。彼女は自ら黒龍討伐に志願し、聖龍がそれを許した。しかし彼女は戻って来なかった。そして彼女の神気が消え去ったことが、彼女が消滅した事実を示していた。
「……私は一五〇〇年前、あの奈雷ですら殺したのです。驚くことでもないでしょう?」
大したことはない、何ということでもない、そんな口振り。聖龍は唇を噛む。
「……お珍しい、怒っておられるのですか? そんなに耀蕎が大切なら、何故無理にでもお止めにならなかったのです? 私が彼女だからといって見逃すとでもお思いだったのなら……大きな過ちというものです」
黒龍の言葉に聖龍は首を横に振った。
「……違う。私には解っていた。お前が彼女を殺すであろうと……にも関わらず彼女を行かせた。彼女を死なせたのは、私の罪だ」
再び、弟を見据える。
「そして……お前をそんなお前にしてしまったのも……な」
暫し、二人の間に沈黙が流れる。聖龍は黒龍から目を逸らさず、黒龍は言葉を発しないまま、相変わらず笑んでいる。
やがて黒龍は、玉座の右側に少し離れた所にある台座に目をやる。
「……『淵霧』か。やはり貴方が持っていて下さったのですね、兄上」
兄から離れ、黒龍は黒い神剣の下へとゆっくり歩いていく。彼がその剣に手を掛け強く握ると、呼応するように柄から刃、切っ先まで黒い電撃が走った。
そのまま剣を台座から引き抜くと、黒く滑らかな刀身を顔の側に持ってゆき、見詰める。
「神王に頂いた大切な剣……懐かしい、一五〇〇年前の血の香りと神々の慟哭が甦って来るかのようだ」
黒龍は呟くように言うと剣を下ろし、再び兄の方を向く。
「今日は兄上へのご挨拶と、此の剣を還してもらいに来たのですよ。貴方と戦うつもりは無い」
彼は踵を返し、階段を下りていく。そしてふと、思い出したように立ち止って玉座の方を振り返る。
「……麗蘭。新たな光龍は……確かそういいましたね。成長すれば、さぞや美しい女帝となりましょう」
「……何を企んでいる?」
「……笑止。私の願いは昔と変わらぬ……兄上も……ご存じのはずだ」
そう言って、再び闇に消えていく。あとに残るは、黒龍が作り出した死の静寂と瑞奘のみ。
聖龍は大きく息をついた。そして、既に意味を成さなくなった懐かしい名前を口に出す。
「鵺……」