邂逅《4》
風友や麗蘭が都を離れている間、聖安と茗の戦争は激化していた。
甬帝治政下九年の冬。聖安帝国領地の岱銅にて、麗蘭の父甬帝崩御。戦死であった。
茗軍は聖安の各軍拠点に兵を進め制圧を続けている。残された聖妃は侵略を食い止めるため、夫の死を悼む暇もなく休むことなく動いていた。
そして、運命の日。追い打ちを掛けるように悲劇が起こる。
「陛下!」
「如何したのですか?」
聖妃は疲れ切っていた。日に日に痩せ細ってゆき、白磁の肌が病的に白く為っている。聖安一の美女と謳われ褒め称された美貌は、此処数週間の激務のために翳ってしまっていた。
戦況は悪くなる一方で、夫までも亡くした。慈悲深く聡明で優れた皇妃と民にも臣にも慕われた彼女も、体力的にも精神的にも限界が近付いていた。其れでも、決して臣には疲労の色を見せようとしない。
「蒼桐宮にお隠れになられていた、蘭麗姫が……」
使者の言葉に聖妃の顔が益々蒼白に為っていく。
「蘭麗が……如何したのです?」
普段の皇妃らしくない動揺振りに、使者は堪らず目を逸らしてしまう。
「珠帝の人質となられました……」
「蘭麗が、捕えられた……」
余りの衝撃に崩れ落ち、傍に在った長椅子に座り込む聖妃。
――恐れていたことが、現実に為ってしまった。
皇女蘭麗とは、麗蘭が生まれた一年後に誕生した皇女で、麗蘭の代わりに皇位継承者として育てられていた。
事情を知る者には、麗蘭を隠し通すための囮だ等と批判もされた。それでも聖妃や甬帝にとっては、唯一自らの手の中に残された宝だったのだ。
「珠帝自ら、蒼桐宮を占拠しています……陛下がお出でになるよう要求しています」
「行きます。馬車を出しなさい」
聖妃は間髪入れずに命じた。自らを奮い立たせるように、厳しく険しい声色だった。
主の痛みを受け取ったのか、使者は必死に訴えかける。
「……恐れながら、罠です。どうか……」
「解っています。兎に角早くなさい」
有無を言わせなかった。平生は穏やかで臣下達にも優しげに接する彼女らしからぬ、厳しい口調である。
聖妃を乗せた馬車は、蒼桐宮へと一気に駆け抜ける。
蒼桐宮は帝都紫瑤の郊外南に位置する古い城で、蘭麗は数か月前より其処に隠れていた。既に茗帝国軍は、紫瑤に入り込んで来る程侵略を進めていたのだ。
更に蘭麗の居場所が知られる程、情報が漏れている。不利になる一方の状況に、問題が山積している。
しかし今の聖妃には、蘭麗の無事を祈る気持ちしか無かった。
「陛下、聖妃さまがお見えです」
「……お通ししろ、丁重にな」
珠玉――長い髪を束ね、真赤な鎧に身を包んだその姿。真赤な瞳には、果てのない野望を秘めている。正に、女傑と呼ばれるに相応しい風貌だ。
珠玉は氏を赤といい、茗帝国の名門の生まれで強力な神人でもある。代々将軍を出す家柄の出身で、自身も武の達人である。皇帝と婚姻したのち権力を蓄え続け、やがて様々な策を用いて夫を暗殺し、遂には自ら女帝となった。
暫らくして、聖妃がやって来る。傍らに護衛を二人付けているだけのようで、敵陣に入って行く君主としてはそれらしくない防備だった。
此の二人が会うのは初めてではなかった。確か甬帝が帝位についた時、まだ戦争が始まっていない時、珠玉が聖安に来賓として招かれていたのだ。
「珠帝、貴女は何をお望みですか?」
単刀直入に切り出す聖妃。
「流石は聖妃さま。察しがよろしゅうございますな……皇女を連れて参れ」
珠玉に命じられ、控えていた兵が蘭麗を連れてきた。
「蘭麗……!」
蘭麗は今年六つになる。茶色の長い髪を下ろし、透き通る水のような瞳をした、聖妃に良く似た顔立ちの姫だった。
逃げられないよう二人の兵に挟まれ怯えていてもおかしくない状況の中、毅然とした態度を取っている。
「……良い姫だ。此の姫を、此のまま帰すのは実に惜しくてな」
珠帝は蘭麗に目をやりくっくっと笑う。そして聖妃に向き直った。
「聖妃さま、此の通り皇女は無事。だが今は我らが捕えた捕虜。此のまま帰すわけにはいかぬ」
蘭麗は母をずっと見ている。母の出方を見ているようだ。
「そこで……交換条件だ。妾は貴国と和平を結びたい。此の皇女の身柄を預かる代わりに、我が国は今後貴国を攻撃しないと約束する」
「……」
予想していた範囲内の、条件だった。此れは「和平」ではない。思った以上に戦いが長期化したこともあり、流石の大国茗も此れ以上続けていくのは危険を伴う。そこで一旦戦争を中断させようという魂胆なのだろう。蘭麗を人質に捕れば、侵略せずとも聖安を従わせるには十分過ぎる。
「……身柄を預かるということは、皇女を茗へ連れ行き幽閉するということですか?」
「どう捉えるかは、貴女次第だ」
聖妃は蘭麗を見る。蘭麗は頭が良く、幼いながらに自分が置かれている立場を良く解している。何も言わず、母に判断を任せようとしていた。
決断を迫られる。娘を宿敵に差し出すか、国を治める者としての責務を果たすべきか。
「何を迷われる? 貴国にとっても其れが最良であろう」
此処で申し出を断れば、戦争は続く。そして、今のままでは確実に負ける。
暫し沈思した後、聖妃は重い口を開いた。
「和平条約を結び、我が皇女をその証として差し出しましょう」
その言葉に、珠玉は満足そうに微笑む。
蘭麗は暫らく母の方を見ていたが、やがて何も言わぬまま視線を落とした。一方で聖妃は、珠玉に是という答えを出した後どうしても蘭麗の顔を見ることが出来なかった。
「……聖安は良い皇后陛下をお持ちだ。そうであろう? 蘭麗」
こうして、蘭麗は珠玉の手の中に捕らえられ、長年続いてきた戦争は、和平という形で中断されたのだった。