2か月前 (2)
会社にも行けなくなり、精神科通い。まともに食事もとらず、風呂にも入るのも億劫。一晩中声を押し殺して泣いて、朝になってようやく眠る。そんな生活。
自分が『こうなった』原因を、全て他人に押し付けようとした。
仕事のストレスによる、鬱病。でもきっと、それだけじゃない。
高校生のころから抱えてきたものが、破裂した。きっとそうだ。
――犯人を殺してやろうかとも考えた。
天井の一点を見つめて、数時間を過ごす。馬鹿みたいに。ただただ時間を浪費して、死ぬのを待つ。包丁を見つめながら、それで犯人を刺し殺す自分を、そのあと自決する自分を想像する。笑う。
そんな俺のことを、死んだ両親はどう思っているのだろうかと考えた。
「心配は、してると思う」
目の前に立っていたはずの彼女は、俺の隣のブランコに座りなおしていた。彼女は俯いたまま、ブランコを少しだけ揺らす。彼女の言葉も、揺れる。
「でもね、山寺さん。親は、子供のことを簡単に諦めない。そういうものなんだって。……多分、山寺さんの親も、そうだと思う。会ったことは、ないけど。あなたの親は、きっと」
あなたの、親は。
彼女の言葉には、どこか棘があった。何かを、責めるような。けれどそれは、俺に向けられたものではなくて、もっとどこか、――別の。
「――私は世間知らずだし、あんまり言えない。えらそうなこと。でも、これだけは言いたい」
ブランコの揺れが止まると、時間も一瞬だけ止まった気がした。無表情、けれどもどこか寂しげな彼女と目が合う。深い茶色の瞳。それはまるで、
「山寺さん。――あなただけは、自分のことを諦めないで。味方でいてあげて」
なにもかもを見透かしたような、けれど何も見ていないような、そんな色をしていた。
冷たい風が通り過ぎて、俺はそこでようやく現状を把握した。彼女は中学生で、辺りは真っ暗だ。……とりあえず今日は、家に帰さないと。
俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べようとして、――右手が軽く痛むことに気がついた。そういえば、右手に思いっきりホットコーヒーをこぼしたんだった。多少、火傷したのかもしれない。俺は差し伸べていた手をポケットに突っ込み、彼女に向かって笑いかけた。
「ごめん、送っていくよ」
彼女は俯いたまま、首を振った。紺色のマフラーをしっかりと巻き直して、こちらを見上げる。
「帰れるから。大丈夫、私は一人で」
「いや、危ないし送るよ。ここら辺、結構物騒だから」
「本当に大丈夫。慣れてるから、こういうの。家、ここから近いし」
彼女は立ち上がると、鞄を肩にかけた。新品のように見える、スクール鞄。それはきっと彼女が丁寧に扱っているから、――ではなくて。
「…………君の味方は?」
鞄につけられている骨折熊と包帯熊を見ながら、俺は尋ねる。既に歩きはじめていた彼女が、こちらを振りかえった。
綺麗なスクール鞄。それはきっと、――あまり使われていないから。
学校に、君の居場所は?
君の、味方は。
「……さあ?」
彼女ははぐらかすように笑い、肩をすくめた。
「私の味方、か。少なくとも、家にも学校にもいない。――ううん、拒絶してるだけかもね。私が」
「だったら、」
俺が君の。そう言いきる前に、彼女はこちらに手のひらを向けた。
これ以上何も言うな、の合図。
口をあけたまま絶句する俺に、彼女はうっすらと笑いかけた。
「言ったよね、いま。拒絶してるの、私。だから、いい」
それに、と彼女は付け足す。
「山寺さん、『大切な人』がいるでしょう?」
「それは……」
「私は大丈夫。慣れてるから」
風が、シンドウさんの長い髪を揺らす。彼女は目を細めた。
「――夜道を一人で歩くの、私は慣れてるから」
それだけ言うと、彼女は踵を返した。
自宅に向かって歩き始めた俺の足を止めたのは、携帯の着信音だった。
望からではない、とすぐに分かった。
彼女は、返事を待っていると言った。恐らく俺が返事をするまで、連絡してこないだろう。望は、そういうタイプの人間だった。
案の定、着信は望からではなく、大学時代の友人からだった。電話ではなく、メール。
結婚するから式に参加してほしい、という趣旨の。
俺は返事をせず、携帯をポケットに突っ込み再び歩き出した。
「――……結婚、か」
友人の幸せを、素直に喜べない自分が鬱陶しかった。
俺が気になっている相手は、まだ法的にも結婚が許されていない。なんてことを考えて、俺はぶるぶると首を振った。
彼女にとって、俺はただの『通院仲間』に違いない。
『私たち、もう一度やり直せないかな』
望の言葉が、頭の中で自動再生される。――望のことを嫌いになったわけではない。いやむしろ、嫌いになっているのなら、こんなにも悩まない。
悩んでいるのは、俺がいまだに彼女のことを好きだからだろう。
「……おっかしいな。俺、浮いた話とは無縁のはずなんだけど」
俺は頭を掻きながら、家の扉を開けた。
一人暮らしにしては広い家。
高校二年生のあの日までは、三人で暮らしていた家。
そう。この家は、三人で住むにはちょうどいい広さだった。
広い家に一人でいると、孤独が浮き上がる。空気中から寂寥感だけが分離して、身体中を支配する。
それでも、俺がこの家に住み続ける理由。
台所に立つ母の姿が、新聞を広げながらテレビを見ている父の姿が、見えるんじゃないか。
二人はまだ、ここにいるんじゃないのか。
そんな気が、したから。
『幽霊、二週間で消えちゃうから』
抑揚のない彼女の声が、頭をかすめた。