3か月前 (1)
恥ずかしながら、俺は統合失調症のことをよく知らなかった。
だから、例の女子中学生……シンドウさんに、
「私、統合失調症なんです」
とカミングアウトされた時も、正直よく分からなかった。それよりも、彼女がそうやってさらりと自分の病名を口に出したことに驚いた。
大抵の患者は、自分の病気や症状について、話したがらなかったから。
「そうなのか。……えーっと」
「ああ、山寺さんは無理に言わなくていいですよ、病名とか。私が勝手に言っただけ」
彼女は相変わらず、薄い笑みを浮かべていた。
彼女と初めて話したあの日から、一か月が経っていた。前回別れる時に「二週間後に」と言われたものの、すれ違ってしまったらしくて会えなかったのだ。気づけば年も明けていて、彼女と待合室で再会した時の挨拶は「明けました、おめでとう」だった。
「学校は? もう始まってるの?」
薬を待つ間に当たり障りのない話でもしようと、俺が質問してみると、
「始まりましたけど、登校する気はあまりありません。保健室登校だし、行っても特に楽しくないので」
……当たり障ってしまった感じがした。
気まずさのあまり沈黙した俺。何も言わない彼女。
テレビの音だけが、待合室に響く。
「――消してください。いや、チャンネル変えてください」
そんな中、シンドウさんがふいに口を開いた。
自分の膝の上にある鞄、そこにつけてある熊のマスコットを見ながら。
「え?」
「テレビ」
彼女に言われてテレビを見ると、ちょうど夕方のニュースが始まったところだった。番組トップは、三日前に起こった一家惨殺事件についてだ。黄色いテープと青のビニールだけが浮いているように見える、それ以外は何の変哲もない一軒家が、斜め上のアングルから映し出されていた。
「……嫌いなの? テレビ」
俺は質問しながら立ち上がり、チャンネルをいじった。待合室にあるテレビは、患者がチャンネルをいじってもいいことになっている。俺が適当にまわしたチャンネルでは、数年前に大ヒットしたドラマの再放送をしていた。
彼女はちらりとそのドラマを見てから、またもや熊へと視線を戻した。
「嫌い。いや、テレビは嫌いじゃないんですけど。ニュース。いや、政治とかは大丈夫なんです。だめなのは殺人。いや、殺人じゃなくても人の命がなくなったようなの、です。ドラマじゃなくて。小説でもなくて。本物の死。誰かの。命が終わった場所。事故、事件」
「……別に、敬語じゃなくていいよ」
怪しげな敬語と言葉を聞いて、俺の笑顔はひきつった。彼女は熊のマスコットをいじったまま、視線を上げようとしない。まるで熊に言い聞かせているかのように、……独り言のように、話を続ける。
「あれが見えるから嫌い。あれが見えやすい。現場を映すのやめてほしい。どうして取材するかな。なんで気付かない。なんで皆、聞こえないんだろう。あんなはっきり、叫び声、猫みたい、いや、もっと。もっとこう」
「えーっと、あの」
「シンドウさーん」
薬局に名前を呼ばれた途端、彼女の独り言はぴたりと止まった。それからこちらを見て、いたずらっぽく笑った。
「……いま、ちょっと引いたでしょ。山寺さん」
「え?」
「山寺さーん」
ちょうど俺の名前も呼ばれ、二人で仲良く立ち上がった。
「誰が差別をしているのか」
帰り道、一か月前と同じ紺色のマフラーをした彼女が、俺の隣で呟いた。どこかでお茶でも飲まないかと誘ったのは俺で、ハンバーガーショップのアップルパイが食べたいと言ったのは彼女だった。ということで、病院から一番近いバーガーショップに向けて二人で歩いている時、彼女が不意にそんなことを言った。
「え、なんて?」
二十七の俺が、中学生をお茶に誘うのはまずかったんじゃないかと思いつつ、俺は出来る限り明るい声で返す。周りから見たら、年の離れたカップルどころではない気がする。
彼女は今日も制服姿だ。もしも同じ中学の生徒や教師にこの現場を見られたら、彼女の立場はまずくなるかもしれないと思った。
「――私たちは、弱者?」
身長百五十センチほどだろうか。百七十五センチの俺から見たら、彼女はひどく小さく見える。俺は眉をひそめながら、彼女の次の言葉を待った。
「私たちは弱者なのだと、本人たちが言う。なのに、区別されると差別されたと言う。都合のいい区別だけ受容して、他の区別は差別だと言いはる。『あちら』はあちらで、手をこまねいている。『こちら』のことを弱者だと思っているのかどうかは、知らない。ただ、『こちら』が少しでもおかしな行動をとれば、それは病気のせいだと考える。病気という言葉におさめて、納得しようとする。おかしいね、笑っちゃう」
……俺は、彼女の言葉の一割も理解できなかった。彼女は一人でくつくつと笑う。しかしその笑い声が、何かのスイッチでも切ったかのようにプツリと途切れた。
「山寺さん、幽霊って信じる?」
彼女の声はどこまでも澄んでいて、真剣だった。しかし、いきなり方向転換する話題に、俺はついていけずに振り回される。
「えっと?」
「幽霊って信じる?」
同じ質問を二回され、俺は返答に困った。残念ながら俺には霊感がない。いるかいないかと訊かれれば、正直なところ
「信じてないんだね。その様子だと」
俺が答える前に、彼女の方が言い当てた。相変わらず、うっすらとした笑みを浮かべている。彼女が心の底から笑っている顔を、俺はまだ見たことがなかった。
「……心霊特集で、霊能力者が出てくるでしょう。お祓いしたりする」
彼女は心持ち首をかしげながら、俺の方を見上げる。ちょうどその時、数メートル間隔で植えられている街路樹が、一斉に光り出した。空はまだ薄明るいのに、青色の人工的な光が点滅する。彼女は幽霊の話を中途半端なところで区切ると、
「――これ、夕方四時になったら光るように設定されてるんだね。もう十二月も終わったのに。クリスマスは関係ないのか。……冬の間はずっと、この調子かな」
青白く光る木を見上げて、ため息をついた。
「光が冷たい。……なにもしなくてもね、木は綺麗。なのに、それを黒いコードでぐるぐる巻きのがんじがらめにして、人工的な明かりをつけて。――何が楽しいのか、私には分からない」
そう呟いた彼女の背後から、イルミネーションが綺麗だと騒ぐ女子高生の声が聞こえてきた。