零(ゼロ)
デジタル時計が示す日付と時刻を、俺はしばらく眺めていた。
今日。
今日、俺は消える。
自分が死んだ明確な時刻は分からない。即死だったのかどうかも分からない。分かっているのはバスに乗った時刻だけ。トラックに衝突された時刻ですら、はっきりとしていなかった。
俺はもう一度、腕時計を見る。現在、朝の八時半過ぎ。
「――あと二時間だな」
バスに乗ったのは、十時半過ぎ。バスに揺られた時間は、さほど長くなかった。となると、俺が消えるのは……。
俺は自分のベッドから起き上がると、台所は覗かず外に出た。成仏する前って、幽霊はどこにいればいいんだろう。――などと、間抜けなことを考える。
行きたいところに行けばいいよ。……多分、彼女ならそう言うだろう。
俺は笑うと、上着のポケットに手を突っ込んで歩き始めた。
この六日間、俺は外に出ず、ずっと自宅で過ごしていた。別に、最期の時を自宅で過ごしたいと思ったわけではない。街を徘徊しようかとも思ったが、もしかしたら進藤さんに出くわすかもしれないと考え、あえて自宅から出なかったのだ。
『私の家、また来て』
彼女の言葉が、頭の中から離れなかった。けれど俺が今から向かう先は、彼女の家ではない。精神科の待合室でも、ない。彼女と何度か話しに行った公園でもなかった。
俺が最期に、見ておきたい景色。
うろ覚えだったが、なんとか辿り着くことができた。あの時とは違い、青い空。それは、あの絵の景色と同じだった。
「――……なみだを通して見たセカイ」
俺はその風景の名前を口にする。何時だろうと関係なく、逆光の眩しいグラウンド。背後にある緑のコンテナ。――彼女が、一人で過ごしたその時間。
「こんな気分だったのかな、あの絵を描いた時」
俺は首をかしげながら、一人で呟く。
彼女があの絵を描いた時の。……あの絵から滲みだす、感情。
「自分が壊れて消える、そんな感じ」
俺の思考を、俺よりも高いソプラノが紡ぐ。俺はギョッとし、声の方向に顔を向けた。
「……そんな気分で描いた。あれ」
そこにいたのはやはり、――進藤さんだった。
小さなショルダーバッグの上で、熊のマスコットがふたつ揺れている。
彼女は俺の方に近寄りながら、グラウンドの方に目を向けた。俺の方は見ずに、言葉を紡ぐ。
「――探した。待合室にも公園にもいないし。ファミレスも覗いた。ゴミ捨て場にいなかったら、高田さんの家に行ってみようと思ってた。――私の家に来てって、言ったのに」
「……ごめん。忘れてた」
「山寺さん。今日。消えちゃうの」
俺の空々しい嘘を華麗にスルーし、彼女はいつものカウントダウンをする。声が若干震えているのは、探しまわっていたから、だろうか。
「まだ聞いてない。山寺さんが、私に言いたいこと」
「――ああ、うん」
もう、それを言うつもりはなかった。ありがとうと伝えられたら、それで。
彼女は俺のそばにやってくると、頭を抱えるような格好でその場にうずくまった。俺は驚いて、彼女の隣に寄り添った。
「進藤さん? だいじょう……」
「慣れてないの、私。人が死ぬのは、当たり前。だから悲しいことじゃないと思ってた」
胸に手を当てて苦しそうに呼吸をしながら、彼女は必死に声を出す。
「――違うの。人が死ぬのは当たり前だけど、『勝手に悲しくなる』。そういうものなんだ。……好きな人が死んだら、勝手に悲しくなって、泣くの」
……彼女は今、なんて言った?
ぼやけた俺の視界と、滲んだ彼女の目。
「……俺、は」
言わずに消えようと思っていた。その方がいいって、思ってたのに。
「俺は、――君のことが好きだった。……いや。今も、ずっと」
伝えたかったのは、その一言だけ。二週間も待たせて、言いたかったのはその一言だけ。
言ったから何かが変わるわけではない。
俺が生き返るわけでも、彼女が幸せになるわけでもない。
むしろ、この言葉は彼女にとって『リード』になる可能性があるんじゃないか。
そう思って、言えなかった、言葉。
「……六日前に聞いておけばよかった。それ」
彼女は苦笑しながらそう言うと、右腕で涙を乱暴にぬぐった。俺の視界が、更にぼやける。
「六日前に聞いておけば、簡単なデートくらい出来たのに。勿体なかった」
「……でも、そんなことしたら、余計に別れるのが辛くなるから」
「そうだね。でも」
彼女は思いっきり鼻をすすってから、ため息をついた。
「でも、いい思い出がいっぱい出来る。それこそ、忘れるのが勿体ないくらいの」
彼女の笑顔が、世界が、更にぼやける。それは自分の涙のせいではないのだと、ようやく気付いた。
腕時計で時刻を確認する。――……十時、三十六分。
「――幽霊は口内炎じゃなかったのか?」
俺が苦笑すると、
「違うみたい。山寺さんの姿、さっきから滲んできてるの。……このまま、景色の中に溶けちゃうんじゃないかって思えるくらい。いつの間にか消える、ってわけじゃないんだね。幽霊は。……ううん、山寺さんは」
彼女はそう言って笑うと、口元を両手で覆った。彼女の両目から零れる涙を、俺は視認することすら難しくなっていた。
「……君のリードとか、首輪にはなりたくないんだ」
俺が言うと、彼女はうなずいた。いや、俯いた。
「俺のことを、君は忘れないかもしれない。けれど、君には『これから』がある。そこにはもう、俺はいないから。――たまに思い出す程度でいいんだ。あんな人もいたなって、思い出すくらいで」
「……うん」
ぼやけた視界は、徐々に白くなりはじめていた。
彼女の顔も、表情も、もう分からない。けれど声だけははっきりと聞こえる。
声を出すことも、まだできる。
「進藤さん。……下の名前」
俺が言うと、彼女は思い出したように笑った。
「みき。未来って書いて、みきって読むの。そういえば、教えてなかった」
「未来」
彼女に俺の顔が見えているかは分からない。けれど、出来る限りの笑顔で伝える。
「君は生きて。未来を」
――ありがとう。
真っ白になった世界で、もう一度。
俺は彼女の名前を、呼んだ。