1週間前 (1)
「あと一週間。……山寺さん」
精神科の待合室で熊のマスコットをいじっていた進藤さんが、ふいに口を開いた。スクール鞄につけられていた熊たちは、小さなショルダーバッグに付け替えられていた。
「――そうだね」
俺は自分の腕時計を確認した。デジタル時計は今でも正確に、時を刻み続けている。俺が死んでも、動き続けるそれ。――きっと、俺が『消えてしまう』まで、止まることはないのだろう。
そして、俺が消えても、この世界は動き続ける。この世界が『消えてしまう』まで、ずっと。
「……あのさ、進藤さん」
「高田さんに、会いに行く気になった?」
言い当てられて、俺は口をつぐんだ。
望は俺が事故に巻き込まれたあの日から、一度も会社に出勤していなかった。どうも、有休を取っているらしい。
――付き合っていた頃、彼女を家まで送ったことが何度かある。あの家までの道のりは、まだはっきりと覚えていた。
「高田さんの家、分かるの?」
熊のマスコットを握ったまま、進藤さんが顔をあげる。俺は頷き、けれど弱々しく付け加えた。
「……あいつがまだ、実家暮らしなら」
もしも望が、一人暮らしをしていたら。そう考える俺に、進藤さんはさらりと言った。
「じゃ、高田さんの実家に行こう。難しいこと考えるのは、そのあとでいい」
商店街を抜けて、最初の信号を右。そのあと道なりにまっすぐ進んでから、赤い看板の目立つスーパーの前で、右折。さらに歩くと、大きな松の木が目印になっている平屋がある。そこを左に曲がれば見える、
「――あの家?」
進藤さんに訊かれて、俺は無言で頷いた。玄関先にいくつも置かれている植木鉢。そこに咲いている色とりどりのビオラ。「私は好きじゃないのに」と望が言い続けていた、薄茶色の扉が特徴的な物置きも、十年前と同じ場所にあった。その扉の色は、『メープルなんとか』って名前で、「名前だけなら美味しそうなのに」と望はいつもぼやいていた。
「……この家だ。間違いない」
白い壁は若干くすんでいるものの、彼女の家の外見はほとんど変わっていなかった。
俺がこの家だと言った途端、進藤さんの細い指が、なんの躊躇いもなくインターホンを押した。「間違いない」という俺の声と、『ピンポーン』としか表現できない電子音が、綺麗に重なる。
「えっ!? ちょっ……」
慌てふためく俺に、進藤さんはこれまたさらりと言う。
「さっさとしないと、山寺さん迷いそうだから。押してみた」
押してみたじゃない。俺は頭を抱えたいのを必死にこらえ、どうしたものかと考えた。
望に言いたいことはあるものの、それをどう伝えるか、まだはっきりとは決めていなかった。――卒業式で、祝辞の紙を忘れた校長のようなものだ。言いたいことは「卒業おめでとう」なのだが、それをどう伝えればいいのか分からない。いきなり壇上にあげられた校長は、慌てふためくしかなかった。
『はい』
スピーカーから聞こえてきた声は、望のものではなかった。「彼女の母親だ」と俺が教えると、進藤さんは無言で頷いた。
「いきなりすみません。私、望さんの友達の、――……」
先ほどは躊躇わずにインターホンを押したはずの彼女が口ごもる。しかしそれも一瞬で、
「山寺です」
進藤さんははっきりと、そう言いきった。
『……ヤマデラ?』
途端に、望の母親の声が強張った。明らかに警戒している。……俺と彼女が昔付き合っていたことも、俺が死んだことも知っている。そんな口調だった。
「望さん、いらっしゃいますか。出来ればいま、直接お会いしたいのですが」
警戒されているにもかかわらず、進藤さんはどんどん話を進めようとする。彼女は周りに流されない。そのせいか、逆に周りを流してしまうタイプでもあった。
『……ご用件は』
望の母親の警戒が、困惑へと変わった。ここまでくれば、完璧に進藤さんのペースに巻き込まれる。その事実を誰よりも知っているのは、そして身をもって経験しているのは、俺だと思う。ある意味残念な話だが。
「望さんが会社に忘れたものを届けに来ました。個人情報が含まれておりますので、望さんに直接お渡ししなければならない書類なんです。――今の望さんは、社に取りに来れる状態ではないだろうと思いまして、友人の私がこちらに伺わせていただきました。電話もせず、いきなり押しかける形になってしまい申し訳ありません。書類の期限が迫っておりましたので……」
彼女はそこでわざと言葉を切り、こちらを見上げた。『書類の期限』とは恐らく、『俺が消えるまでの残り時間』のことだろう。
中途半端に会話が途切れれば、望の母親はきっと『向こうも困惑しているんだ』と思うだろう。いや、思ったらしい。
『少々お待ちください』
スピーカーから聞こえていたノイズが、ぶつりと途切れる。進藤さんは小さくため息をつくと、一歩後ろに下がった。
「……今の言葉、初めから考えてたの?」
俺が訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。今ここで、作り上げたお話。――慣れてるから、嘘つくの。……でも、『友達』って言葉には慣れてない。おかげで、そこだけ話が途切れた」
彼女はもう一度ため息をつくと、
「高田さんのお母さんが、一緒に出てきたら厄介。私、明らかに会社の同僚に見えないし。そこ、釘さすの忘れた」
そう言って、板チョコのような茶色の玄関扉を眺めた。
数分後、望が出てきた。個人情報を取り扱っている書類だと言ったせいか、母親の姿は見えなかった。
俺は望の姿を見て、眉をひそめた。
ファミレスで会った時とは違う、やつれた顔。生気のない顔と言いかえてもいい。なのに、その瞳だけは、割れたガラスの破片のように光っていた。
十年前の俺と、同じ顔。
今の望は。
自分の大切な者を壊され、自分の精神を壊され、そのすべてを憎んでいた頃の俺と、まったく同じ顔をしていた。