2週間前 (3)
――今日は復職の挨拶に行って、望に会って話をして、それから病院へ行こう。
俺は一日のスケジュールを確認すると、布団から起き上った。
「あと二週間、か」
カーテンをあけて朝日を見ながら、進藤さんに言われるであろう言葉を一人で口にする。彼女と会えなくなるまで、あと二週間。
考え事をしながら作ったスクランブルエッグは見事に失敗し、そぼろ状になった。
会社に向かうため、二年前は毎日のように乗っていたバスに乗りこむ。通勤ラッシュを避けたおかげか、バスは空いていた。
適当な席に座り、窓の外に目をやる。――街の風景はすっかり変わってしまっていた、というわけではない。ただ、見たことのない建物や真新しい看板がちらほらと見えた。見覚えのない新地を見ながら、二年前はここに何が建っていただろうかと考えたが、思い出せなかった。
口内炎って、治った途端にその存在を忘れちゃうでしょう。そんな言葉を、思い出した。
その時。
大型トラックが、こちらに向かって突っ込んでくるのが見えた。
「……え?」
我ながら間抜けだとは思うが、これが俺の最期のセリフとなった。正面衝突ではなく、バスの横腹にトラックが突っ込んできた形の事故。二つの物体は一瞬だけTの字になり、突っ込んできたトラックは電柱に激突、バスは横転した。――らしい。進藤さんが待合室で見ていた、ニュースによれば。
そのバスに乗っていた俺はといえば、トラックがこちらに突っ込んできた直後、大きな衝撃を感じたことしか覚えていない。体の内側を揺さぶられるような感覚に、意識を持っていかれた。
意識を取り戻した時、俺はやっぱり例の事故現場にいた。無傷で。だから、それを見た時は、
――自分の死体が横転したバスの中にあるのを見た時は、何かの冗談かと思った。
間抜けな電子音。やばいやばいと叫びながら、ぐしゃぐしゃになっているバスを携帯で撮影している学生。電子音は断続的に続く。やばいと叫ぶその声は、どこか楽しそうだった。
俺は唇を噛む。――あのバスの中で、人が死んでるのに。
「……何してんだよ!!」
叫んでみたが、誰もこちらを振り返ってくれなかった。
そこでようやく、俺は自分が本当に『そう』なったのだと思い知った。
「もしかしたらバスが爆発するかもしれない、下がった方がいい」と誰かが言いはじめ、蜘蛛の子を散らすように野次馬たちは逃げだした。間抜けな電子音も、ほとんど聞こえなくなった。
爆発しようがどうなろうが、俺にはもう関係なかった。
爆発しようが関係ないだろ、幽霊なら。
そこまで考えて、俺は進藤さんのことを思い出した。いや、むしろ、今まで忘れていたのが不思議だった。
『――私には幽霊が見える』
半信半疑で俺は彼女のもとへと向かった。今日は、彼女も診察日のはずだ。病院に行けば、きっと会える。――彼女に、俺の姿は見えるのだろうか。……見えないかもしれない。彼女の言っていたことは本当にただの妄想で、幻覚かもしれないじゃないか。そう思いながら。
病院の待合室にいたのは、彼女と中年の男性だけ。……その男性にも、俺の姿は見えていないようだった。
俺は無言で近づくと、彼女の隣にそっと腰掛けた。気づいてもらえないかもしれない。彼女にもやっぱり、俺の姿は見えないのかもしれない。そう思った。
けれど彼女は、ふっとこちらに目を向けた。そして、
「山寺、さん」
何かに怯えるような顔をした。
――生きている人間と死んでいる人間の区別も、できるらしい。驚愕している彼女の瞳を、俺は見つめる。
『――私には幽霊が見える』
彼女の話は、本当だった。それを自分自身で証明した俺は酷く間抜けだと、思った。
二週間前と同じセリフ。けれど、二週間前とは違う意味で、俺はその言葉を口にした。
「シンドウさん。――俺のこと、拒絶する?」
幽霊になってしまった、俺のことを。
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、けれど小さく首を振った。
「……会社に、挨拶に行ったんだ。復職のね」
そしたら、死んでしまった。
俺が笑うと、彼女は「そう」とだけ返してきた。感情のこもっていない、――いや、わざと感情をこめていないような口調だった。彼女は一体どれくらいの年月を、そうやって過ごしてきたのだろう。
幽霊が見えるという事実を、隠して、疑われて、――拒絶されて。
俺は頭を掻くと、彼女に頭を下げた。
「今日は、会えないかと思ってた。本当にごめん」
彼女の話は作り話、――いや、彼女の妄想なんだろうと思っていた節があった。全ては幻覚で、幽霊なんかではないのだと。だから今日、病院に来ても彼女には『見えない』かもしれないと、思っていた。
「……別に。謝らなくていい。謝るの、私だし。この前はごめん。拒絶じゃないとか言っておいて、逃げた。診察室に」
彼女まで頭を下げてきたので、俺は慌てて首を振った。彼女に謝らせるつもりなんてなかった。それに、俺がいま謝りたいのは二週間前のことじゃない。
「そうじゃないんだ。それじゃなくて、俺が言いたいのは――」
「いいってば。『それが普通』なんだよ」
『それが普通』。
――彼女の言い分を信じないのが、『普通』。
「普通はそうなの。あなたが謝る必要ない。あなたの考えは、反応は、普通だったよ」
かみ合っていないようで、かみ合っている言葉。二人にしか分からない、会話。
俺達の向かいに座っていた中年男性が、ちらりとこちらを見た。週刊誌を読んでいるふりをしながら、時折顔をあげて、こちらを観察しているのが分かる。
――ああ。あの男性から見れば、進藤さんが『一人で』話しているように見えるだろう。
彼女は中年男性の反応を気にせず立ち上がると、テレビのチャンネルを変えた。『大型トラックとバス激突 死傷者八名』の事故現場を映し出していた画面。トラックの運転手は重傷。死者は、バスの運転手と乗客三名。
その内の一人は、――俺だった。
見覚えのある事故現場から一変し、テレビは陽気な子供向け番組を流し始める。音楽に合わせて、パチパチと手を叩く子供たち。
ソファーに座りなおした彼女は、大きなため息をついた。
「酷い番組。楽しくない」
きゃっきゃと騒ぐ子供たちは無邪気で、けれどそれが悲しかった。
その日の進藤さんの診察は、いつも以上に時間がかかった。――彼女はいま、精神的に不安定になっているのかもしれない。もしもそうなら、その原因に俺のことも含まれているんじゃないかと考え、酷く不安になった。
三十分ほどで待合室に帰ってきた彼女は、薄く笑った。
「山寺さん。あと、二週間」
いつものカウントダウン。けれどそれは、俺が復職するまでの時間ではなくて。
俺がこの世界から、いなくなるまでの、時間。
『幽霊、二週間で消えちゃうから』
「――ああ、そうだね」
きっと、彼女の話は本当なんだろう。
俺がこの世界から消えてなくなるまで、あと、二週間なんだ。