2週間前 (1)
病院に入ってすぐ、俺はシンドウさんを探した。
まだ来ていなければ、来るまで待とう。もしも今日会えなかったら、一週間後にまた来よう。俺の診察は二週に一度だけど、彼女の診察は週一だと言っていた。なら、来週でも会えるはずだ。
そんなことを考えながら、俺はさほど広くない待合室を覗いた。
彼女は、いた。
前にも見た、ダッフルコート。今日の彼女は私服姿だが、『いつもの鞄』を膝の上に置いている。熊のマスコットが二つ付いた、スクール鞄。手持ち無沙汰なのか、それとも癖なのか、いつものようにマスコットをいじっていた。
彼女の他に待合室にいるのは、中年の男性一人だけだ。彼女の向かいの席に腰掛けて、熱心に週刊誌を読んでいる。
俺は無言で近づくと、彼女の隣にそっと腰掛けた。『誰かが隣に座ったこと』に気付いた彼女が、ちらりとこちらに目を向ける。それから、
「山寺、さん」
何かに怯えるような顔をした。
……前に会った時は、嫌な別れ方をした。
けれど俺は、二週間前と同じセリフをわざと繰り返した。
「シンドウさん。――俺のこと、拒絶する?」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、けれど小さく首を振った。
「……会社に、挨拶に行ったんだ。復職のね」
俺が笑うと、彼女は「そう」とだけ返してきた。感情のこもっていない、――いや、わざと感情をこめていないような口調だった。……彼女は一体どれくらいの年月を、そうやって過ごしてきたのだろう。
隠して、疑われて、――拒絶されて。
感情のない、そんなふりをして。
俺は頭を掻くと、彼女に頭を下げて言った。
「今日は、会えないかと思ってた。本当にごめん」
「……別に。謝らなくていい。謝るの、私だし。この前はごめん。拒絶じゃないとか言っておいて、逃げた。診察室に」
彼女まで頭を下げてきたので、俺は慌てて首を振った。彼女に謝らせるつもりなんてなかった。それに、
「そうじゃないんだ。それじゃなくて、俺が言いたいのは――」
「いいってば。『それが普通』なんだよ。普通はそうなの。あなたが謝る必要ない。あなたの考えは、反応は、普通だったよ」
かみ合っていないようで、かみ合っている言葉。二人にしか分からない、会話。
俺達の向かいに座っていた男性患者が、ちらりとこちらを見た。週刊誌を読んでいるふりをしながら、時折顔をあげて、こちらを観察しているのが分かる。
そのことに、シンドウさんも気づいていただろう。けれども彼女はそれを気にせず立ち上がると、テレビのチャンネルを変えた。『大型トラックとバス激突 死傷者八名』の事故現場を映し出していた画面が、陽気なBGMとともに子供向け番組を流し始める。音楽に合わせて、パチパチと手を叩く子供たち。
ソファーに座りなおした彼女は、大きなため息をついた。
「酷い番組。楽しくない」
きゃっきゃと騒ぐ子供たちは無邪気で、けれどそれが悲しかった。
その日のシンドウさんの診察は、いつも以上に時間がかかった。――彼女はいま、精神的に不安定になっているのかもしれない。俺は体をゆすりながら、彼女が帰ってくるのを待った。彼女を待っている時間が、妙に長く感じられた。
三十分ほどで待合室に帰ってきたシンドウさんは、いつもの顔つきに戻っていた。無表情の仮面をつけた彼女はこちらを見て薄く笑い、それからいつもの、
「山寺さん。あと、二週間」
カウントダウン。
「――ああ、そうだね」
俺は苦笑する。彼女はきっと、最後までこのカウントダウンを辞めないだろう。――いや、彼女ではなくてこの世界が。この世界が、カウントダウンを辞めることはない。彼女はそれを、言葉にしているだけだ。
シンドウさんは薬局で、一週間分とは思えない量の薬を受け取ると、
「ここはいや。外がいい。テレビ、嫌いだから。外に出よう?」
そう言って、さっさと外に出た。俺は彼女の後に続く。病院帰りにいつも歩く歩道は、今日に限って人通りが多くて、彼女は顔をしかめた。大学生の男女混合組が大きな声で笑うのを聞いて、
「――うるさい。笑い声、嫌いなのに。あの公園も、今日は人がいるかもしれない。だとしたら面倒。……本当にうるさいね、今日」
周囲の人に気を遣う風でもなく、いつも通りの口調でさらりとそんなことを言った。数名が、彼女の方を振り返る。けれど、誰も何も言わない。
「山寺さん、時間は大丈夫?」
「え、ああ。俺は」
「だったら、うち。来て」
彼女の言葉を聞いて、俺はその場で凝り固まった。
『うち』って、シンドウさんの家のことか?
「え、いや、でも」
「大丈夫。両親、家にいるけど。どうせ私のこと、気にしてない。いや、気にしてるけど、腫れものの私に触れようとしない。だから平気。私が今更、ちょっと変なこと言ったりやったりしたところで、あの人たちは動じないよ。慣れてるから」
それに、と彼女。
「山寺さん、私のこと襲ったりしないでしょ?」
「そりゃ、そんなつもりないけど」
「ね。外うるさいし、うちに来て。お茶もお菓子も出せないけど。――いいよね?」
俺も俺で、分かってた。
シンドウさんが、俺を『誘っている』わけではないってこと。
彼女はまっすぐこちらを見据えたまま、続ける。
「……なにか話があるんでしょう。私に。……いや。私に、じゃないか。私じゃない、誰かに。まあ、どっちでもいいよ。こういうの、慣れてる。――私についてきてくれる?」
俺の返事は待たずに、彼女はさっさと歩き出す。
そんな彼女の後ろ姿を、俺は懸命に追いかけた。