第64話 回収対象と、逆回収の封鎖線
倉庫の奥で、布がかすかに擦れた。
煤と香の混ざった匂いの中、澪の瞼がゆっくり持ち上がる。
焦点は定まらない。だが――目は開いた。
高橋が息を呑んだ。
「澪さん……!」
澪の喉が小さく動く。声は薄い。風に溶けそうな、かすれた音。
「……しん、や……」
その1言で、空気が変わった。
俺はコタツの上で指を組み直し、声だけ落とす。
「澪。動けるか」
澪の視線が微かに揺れる。頷くというより、意識を「寄せる」動きだ。
「……だい、じょうぶ……」
大丈夫じゃない。だが、生きている。戻ってきている。
俺は無駄を削った指示を落とす。
「1号。口を作れ。高橋、受注は回せ。足りなければ雇え。澪は最優先。俺は出ない」
「了解」
1号の返事は刃みたいに短い。
「はい!」
高橋は声を震わせたまま、仕事の顔に切り替える。
「すぐに人を――」
「感情は後」
ソフィアが冷たく言い、澪の呼吸だけを見る位置に座った。
「澪さん、今はゆっくり。喋り過ぎると吐く」
レオンが収納ボックスを開き、清潔な布と水と薄い毛布を吐き出す。
必要なものだけが、必要な量だけ出てくる。
「マスター。澪さんの体温、上げます。……あと、出口、作ります」
「作れ」
1号が言う。
「ここは倉庫。出入口は1つに見せて、実際は3つ潰す」
「潰すの好きだね」
ロザリーが笑った。
「黙れ」
1号が切る。
袋を被せられた小物――さっき捕まえた回収役の下っ端が、床に転がっている。震えている。呼吸が荒い。恐怖の種類が、こちら側の人間と違う。怒鳴られるより、時間を奪われるのが怖い反応だ。
1号が小物の耳元に、淡々と落とした。
「喋れ。RETURN COMPLETEの意味。澪さんを攫った理由。地球側の本部――どこだ」
小物は首を振った。喋れない仕込みか、喋れば死ぬ仕込みか。どちらにせよ「口」ではない。
俺は声だけ落とす。
「なら、持ち物で割る。喋らせるより安い」
「了解」
レオンが収納ボックスの口を、小物の胸元へ寄せた。次の1瞬、懐の物が1気に消えた。
通行票。鍵束。硬い筒。薄い札束。小型の防水カプセルが2つ。最後に、折り畳まれた紙片。
高橋がそれを受け取り、灯りの下で開く。
紙質が均一すぎる。印刷の匂いが冷たい。地球側の工業品だ。
英文字と、数字。座標ではない。時刻でもない。だが、規格のような並び。
高橋の喉が鳴った。
「……管理コードです。QC-17の上位……QC-00。それと……RETURN 대상……回収対象……」
ソフィアが低く言う。
「澪さんは餌。回収対象は別」
俺は声だけ落とす。
「俺だ」
倉庫の空気が、1段冷えた。澪の指が、毛布の上で微かに動く。何かを掴もうとしている。
高橋が慌てて手を伸ばし、澪の手をそっと握った。
「澪さん、大丈夫です。……ここにいます」
澪が、また小さく言った。
「……しんや……」
胸の奥が焼ける。だが焼けたまま動いたら、負ける。
俺は声を硬くする。
「澪。寝てろ。ここから先は仕事だ」
澪の瞳が少しだけ潤んだ。それでも頷く。俺のことを知っている頷き方だ。
――外の蜘蛛が揺れた。
倉庫の梁に置いた斥候蜘蛛の映像が、入口側の闇を拾う。足音、2つ。呼吸、抑えている。金属の擦れる音。鍵。静かに入ってくる連中だ。
ロザリーが楽しそうに笑う。
「来た。少数。……本気だね」
1号は即断する。
「光を落とす。澪さんを奥へ。レオン、正面扉を迷路に。窓は布で塞げ。裏口は重量物」
「了解です、マスター!」
レオンが収納ボックスを開き、資材を吐き出す。
木箱、鉄棚、布。外から見れば倉庫の通常在庫。だが内側からは動線を奪う障害物。棚が1つ落ちるたび、侵入者の未来が狭くなる。
ソフィアは澪の横に座ったまま、淡々と指示する。
「澪さんは動かさない。ここが安全になるまで」
高橋が澪の手を握り、声を殺す。
「澪さん……大丈夫です。真也さんが……」
俺は声だけ落とす。
「高橋、俺の名前を外で言うな。音は武器だ」
「……はい」
扉の外で、鍵が回った。だが、扉は開かない。レオンが内側に積んだ鉄棚が、扉の可動域を殺している。扉が少しだけ開き、止まる。
そこへ紙が滑り込んできた。高橋が拾う。また英文字。
『RETURN COMPLETE』
その下に、短い追記。
『NEXT: YOU』
次は、お前。俺は湯飲みを置き、声だけ冷たく落とした。
「……次は俺を返すつもりだ」
1号の声が凍る。
「来るなら、取る」
ソフィアが澪の呼吸を見たまま言う。
「追跡札は抜いた。向こうの優位は消えた。つまり、今日は力技で回収に来る」
ロザリーが口角を上げる。
「力技なら、潰せる」
扉が、もう1度押された。今度は力任せじゃない。角度を変え、棚の隙間を探る。鍵師の手つき。細い棒が隙間から入り、棚を押す。
――上手い。
だが倉庫は、こちらの仕事場だ。
レオンが床へ収納ボックスの口を向けた。吐き出すのは砂袋。ズン、と重い塊が落ち、棒の先を押し潰すように固定する。棒が動かなくなる。外で、小さな舌打ち。
次の1瞬、窓の隙間から黒い影が滑り込んだ。虫に見える。聖都の害虫に。だが動きが規則的すぎる。偵察だ。
ソフィアが低く言う。
「視界取り。向こうも蜘蛛を使う」
「蜘蛛じゃない」
1号が即答する。
「ただの道具だ。――潰す」
レオンが布を吐き出し、窓を塞ぐ。見える穴を潰す。見えない穴は、蜘蛛が拾う。
ロザリーが指を鳴らす。圧が走る。虫の影が床に落ち、震えながら動かなくなった。
「かわいそ」
ロザリーが笑う。
「黙れ」
1号。
扉が、内側の棚を押し退ける形で開いた。入ってきたのは女だった。白い外套。聖印。フードの影で顔は見せない。だが足運びが軍隊だ。狭い倉庫に入るための歩幅。迷いがない。目だけが、こちらを測る。
上。
1号が影から1歩出た。
「ここは聖都の倉庫だ。権力を借りても、通らない」
上は笑わない。目が動くだけ。そして、低い声で言った。
「……回収は完了した?」
言い回しの癖が違う。聖都の言葉じゃない。地球側の抑揚。高橋が奥で息を呑む。
1号が条件を叩きつける。
「澪さんを攫った目的は何だ」
上の目が細くなる。
「澪さん?」
嘲るように繰り返し――
「……澪」
俺は胸の奥が冷えた。呼び捨てを知っている。そして、それを刺すために使う。上が続ける。
「目的は簡単。回収対象は君だ。九条真也」
真也。下の名前まで正確に。高橋が震えた。
「……なんで……」
ソフィアが低く断定する。
「確定。地球側の人間」
俺は声だけ落とす。
「……出たな」
上が動いた。速い。静か。狭い倉庫で最短の角度。狙いは1号ではない。奥――澪のいる方向。
1号が踏み込んで止める。
「止まれ」
上は止まらない。だが床が止めた。
蜘蛛の糸。見えない高さで張られた線が、足首に絡む。上の足が1瞬引っかかる。
その1瞬で、レオンが鉄棚を吐き出した。ドン、と床が鳴る。進行方向が潰れる。
上が跳ねる。跳ねた先に、ロザリーの圧が立っている。空気が薄い。肺が止まる。上の動きが半拍遅れる。
1号がそこへ入る。腕を固める。関節は壊さない。静かな確保戦。
――捕れる。
そう思った1瞬、視界がざらりと削れた。本部干渉。押さえつける嫌悪。映像が白く飛ぶ。
白が引いた時、上の体勢が変わっていた。上は糸を切っている。刃物ではない。細い金属線。工業製の切断線。蜘蛛の糸が、スパッと落ちる。
上が囁く。
「……なるほど。蜘蛛は道具。ドローンじゃない」
こちらの設定を理解した言い方。読んでいる。観察している。地球側だ。
1号が歯を食いしばる。
「逃がさない」
上は初めて、笑った。口元だけ。
「逃げない。今日は確認だ」
上の視線が奥へ投げられる。澪の位置を見た。そして、淡々と言う。
「澪は返す。代わりに――君を返す。九条真也」
返す。地球へ。
澪が毛布の中で、かすかに身じろぎした。
「……しん、や……?」
その声が、胸の奥をさらに焼く。俺は、焼けたまま指示を落とした。
「1号。上は追うな。澪を守れ。――代わりに口を確保しろ。ここで1人、生け捕り。ROIが高い方を取れ」
「了解」
1号は即答する。
上が身を翻し、入口側へ滑る。追わない。追えば澪が危険になる。ここは守るが安い。
その代わり、蜘蛛が拾っていたもう1つの気配――扉の影に潜む黒い外套が動いた。小物だ。回収担当の実働。
1号が踏み込む。
「今だ」
レオンが収納ボックスから木箱を吐き、出口を塞ぐ。ソフィアが袋を投げ、声を殺す。蜘蛛の糸が足首を沈める。
小物が床に崩れた。――捕獲。
上はその1瞬、扉の隙間から外へ滑った。暗渠へ逃げる気配。だがロザリーの圧が、追撃の意思を1拍鈍らせる。
「またね」
ロザリーが甘く言った。
「逃げても、ずっと追いかけるよ」
返事はない。闇だけが動いて消える。
倉庫に静けさが戻る。1号は袋を被せた小物を引きずり、壁際へ座らせた。逃げられない角度で関節を固め、糸で足を沈める。
レオンが収納ボックスを構える。
「全部出します。綺麗に」
ソフィアが淡々と付け足す。
「喋れない仕込みでも、持ち物は喋る」
高橋が澪の手を握ったまま、震える声で言った。
「澪さん……大丈夫です。真也さんが、います」
澪が、薄く笑ったように見えた。そして、また呼ぶ。
「……しんや……」
俺は声だけ、柔らかくはしない。だが確かに言う。
「澪。もう大丈夫だ」
澪の瞼がゆっくり閉じる。安心で落ちる眠りだ。香の眠りじゃない。
1号が小物の耳元に、淡々と落とした。
「言え。地球側の本部はどこだ。回収の目的は何だ。そして、次の手は」
小物が震える。呼吸が荒い。だが、どこかで諦めた匂いがする。
俺は湯飲みを置き、最後の刃を落とした。
「回収完了。――こちらがな」
机の端で、鈴が小さく鳴った。ちりん。戦いの音ではない。帰還の音だ。
そして俺は次の確信を得る。上は逃げた。だが逃げても、もう回収はできない。澪は戻った。口も捕った。
次は――地球側の喉元を、こちらが封鎖する番だ。




