第6話 【回想】祇園町事件②
「別所くん、申し訳なかったね。諫花くんには、君の推薦通り、祇園警察署署長の座についてもらうよ」
総監の意に背いた決定が行われたことによって、冷たく重い空気が会議室に流れていた。皆は機嫌を損ねた総監からの飛び火が飛んでこないように、会議が終わるや否やそそくさと退室していくなか、総監は別所にゆっくり近づいてそう言った。
「石川総監。私こそ出過ぎた真似を」
「なあに、構わんよ。私は一度も推薦していないのでな。別所くん、推薦責任は君にあるのだから。くれぐれもこの石川のキャリアを汚すような不祥事は起こさぬよう、諫花の手綱は握っておけよ」
総監は自身の鼻に指をつけて牛の鼻輪を模しながらそう言った。そして別所の肩を軽く2度叩いた。別所は静かに深く頭を下げた。
「そういえば、別所くん。刑事局長の机が汚いという密告があったんだ。しっかりと片付けておけ」
総監の言葉に別所は小さく返事をして、総監が踵を返して部屋から退室するまで頭を上げなかった。
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別所は深いため息をついた、そして、キーボードのEnterキーを強く打った。無意識の行動だったが、刑事局の職員の視線は別所に集まっていた。別所は慌てて、難しい顔をしてパソコンを睨む演技をした。
「別所さん、どうかしましたか。コーヒーでも飲みますか?」
諫花は別所にそう訊ねて、給湯室へ向かおうとした。
「諫花!コーヒーはいらない。ちょっと付き合えるか?」
別所は左胸ポケットから煙草を出して、諫花にみせた。諫花は慌てて机に戻って、鞄の中から自分の煙草を出して右ポケットにしまった。そして二人は3階の外廊下に向かった。
「諫花、まだその煙草を吸っているのか。相変わらず渋いな」
「ええ。よく驚かれるんです。高校生の時の彼氏がこの煙草を吸っていて、その影響で」
「シビい彼氏だこと。でも、未成年喫煙じゃないだろうな」
「どうでしたかね、もう十数年も前のことは忘れますよ。それにもう時効でしょう」
「時効か。警官にとって時効は救いか、それとも一生物の傷かな」
「救いでしょう。残念ながら。そもそも時効が切れるような犯罪は、いくら追いかけたとしても証拠という証拠は見つかりません。それでも捜査をやめないのは、遺族への同情と、犯人を捕まえるという熱意だけです」
「例えば、お前が未解決事件を担当するとなったらどうする」
「諦めません。罰を受けて然るべき人がいるのならば、その人を逮捕して、法律によって裁くというのが警察の存在意義です。もしその存在意義が揺らぐのであれば、警察は正義を執行するべきじゃない。そう思います」
「その通りだ。警察はいかなる権力にも屈してはならない。それで例のクミコの件はどうなった?」
「それが.......」
諫花は少し言いづらそうに小声になった。
「それが、どうやら上と繋がりがあるみたいで。真相に近付こうとするとモヤがかかるんです」
「そうか。やはり大麻財閥との噂は本当のようだな。となると一女教は思ったより、支持母体を拡げているのかもな。引き続き頼むぞ。くれぐれも急くんじゃない。確実な証拠、それこそがいかなる権力をも打ち破る剣になる」
「仮にこの国の中枢が牛耳られているとしたら、私たちはどうなるんでしょうね」
「さあな。ただ政府が裏で反体制派の危険因子を探っているらしい。強かに、そして狡くやり過ごさなければ、必ず打たれる。これだけは肝に銘じておけ」
別所は今朝の会議の様子を思い出していた。本来、長官の座は警察庁における最高権力者のはずだが、近年の天下りムーブメントに乗るように名前も聞かない、実績ゼロの三流議員が就任している。そして長官は政府の意向をそのまま反映し、人事権を行使する。現在の総監は政府と懇ろであるからして、総監の意向こそ、長官の人事権と同義である。その中で、別所明という男がこの地位まで上り詰めたのは、奇跡に近かった。そして、その奇跡は長く続かないということは別所自身が一番分かっていた。だからこそ、別所は次世代の萌芽を諦めたくなかった。そんな時に現れたのが諫花佐和子、石川総監以来、20年ぶりのS官認定の鳴り物入りで入社。そして刑事局に配属され、宗教事件を中心に吾川事件や山野村事件などの捜査で大きく活躍した。諫花は別所の後を継ぐ正義派だった。金や権力、そんな醜悪な感情ではなく、誇り高い正義という法の天秤を扱う代執行者であるという自覚が彼女には備わっていた。ただし、そんな諫花でさえ、昇任が一筋縄で行かないという事実が何よりも悔しかった。
「諫花、そういえば祇園署の首が変わるらしい。どうだ。希望を出しておこうか」
別所は朝の出来事を知らないふうに装いながらそう言った。もうすでに諫花が就任すると決まっているのに。
「え?署長ですか。興味ないです」
「どうして?」
「私は別所さんの後を継ぎたいので刑事局の副局長がいいです」
「そうか。でもな、俺だってずっと刑事局にいたわけじゃない。お前も知っているように国捜局もしたし、神圖町の署長もしたし、東寺交番の所長もしたし、果ては科技局(科学技術局)の研究員までしたんだ。様々な場所でいろんな経験をすることは悪いことじゃない。今回のことだって、お前にマイナスになることはない」
「なんですか。もう決まったみたいに」
諫花は別所をじっくりと見つめながら、そう言って笑った。諫花は左手にはめた時計を見て、何かの予定を思い出したようで、そのまま左手をあげて申し訳なさそうに片目を細めた。そして煙草の灰を全て吸殻入れの穴に落として、諫花は職務に戻っていった。
「局長が職務放棄とは感心しませんね」
その声は左から聞こえた。顔を向けると遠藤が隣の部屋の外廊下に設置されたベンチに座っていた。
「職務放棄じゃない。少し面談をしただけだ」
「煙草を吸いながら面談って。ご時世的にどうなんですか」
「手厳しいな、遠藤は」
別所は遠藤の言葉にやられたというように両手を上げ、降参の意思を見せた。
「つーか、別所さんもそんなポーズ知ってたんですね」
「なにが」
「いや、そんなポーズができるなら、石川総監にもそうすればよかったじゃないかなーと思って。わざわざ机に書類を叩きつけるなんて、別所さんらしくなかったですよ」
「ふん、バカか。降参なんざすぐに出来るさ。でも、あの時、降参していたら、諫花はどうなる。名を捨てて実を取る。それが上司の役目だろ」
「よっ、さすが、総監になり損ねた男!でもね、格好つけるのはいいですけど、あの時、僕が手を挙げなければ無駄な威勢に終わっていましたけどね」
「遠藤が手を挙げるのは分かっていたんだ」
「どうして?」
「いや、諫花が新人の頃、お前が言ったじゃないか。”満点の警察官が故に、女である。その一点だけが惜しい”と。俺はお前のその言葉を信じていた。女であるという枷が外れた時にお前は必ず諫花を評価してくれると信じていた」
遠藤はどこか満足げな顔で、口角を少し緩めた。そしてこういった。
「彼女は優秀だった。それは試験満点合格のS官という称号が示していた。そんな彼女を見下せるのは、同じくS官入社の総監だけでしょう。でも、実際は?そうじゃなかった。むしろS官という称号が彼女を苦しめた。今朝の会議が答えだったでしょう。神様は彼女に生を与える時に重要な二者択一を間違えた。残酷だけど、この世界ではそれが現実です。別所さんも僕も、それを知っていながら変えることのできなかった加害者でしょうか。でも、今日、初めて報われた気がしました。別所さんが彼女を僕のいた刑事局に入れると言った時から、この日を待っていたような気がしたんです」
こうして諫花は刑事局局長である別所明の推薦を受けて、刑事局から祇園署署長へと昇任した。それから少しして別所明にも異動の報せが届いた。刑事局局長から法安院への異例の異動だった。




