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イフパターン  作者: 其嶋真由
ポートシティ編

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第23話 クチナシの部屋

 

 静寂は、死体よりも先に落ちていた。

 廃墟にでも来たのか、と錯覚するようだった。


 煙はまだ薄く漂い、天井の蛍光灯は痙攣しているかのように点灯と消灯を繰り返しながら、瞬いている。焼けた薬莢の匂いが鼻を突き刺す。この空間はあの瞬間で固定されている。壊れた時間が、その名残りが、行く宛てもなく、ただ浮かんでいた。


 天井のスプリンクラーはすでに泣き止んでいた。ただ悲しくて、涙袋に一滴も残したくないといって、弱々しく吐いたりもする。


 死体の傍をゆっくりと水が流れていく。血を薄めながら、色を奪いながら、小さな川は濁りを増している。



 ――水面にただひとつの波紋を残して。




 ──────────────



 遠くから足音がする。ヒールの音。こんな場所に似つかわしくない、乾いた赤色のハイヒール。


「......ずいぶん、派手にやられたわね」


 女の声だった。落ち着いた低音。散々と悲鳴を吸い込んだ石膏の壁は、普通の声色にざわざわしてみせた。


 女は白いワイシャツの袖を捲りながら、壁に空いた大きな孔を見つめた。その前に立つと、大きさを体感する。2m50cmほどの高さがあり、これがあの時の爆発によって開けられたものなんだと。――まただ。不吉な予感がひとつずつ的中していく。


 どんな行動をしても、かならずそのシーンに辿り着く。逃れられない因果律――果たして、それは本当に存在するだろうか。誰もが、その場で最善と思える一手を選ぶ。その重なりが、必然をもたらしているのか。


 激しく鋭い弾丸は誰ひとりとして生きることを許さなかった。そして、人の原形を保てなかった者もいた。


「......秋吉......佐々木」


 数時間前まで部下だったふたりも、例外ではなかった。制服が黒く煤汚れている。体には弾丸によってあけられた穴が何個も見える。その穴の縁は赤黒く固まって、酸素を拒んでいるようだった。血液はすでに汚水と言えた。


 後ろの階段から複数の足音が聞こえる。

 エレベーターは事件の影響で止まっている。



「......うっ.......くっさ」


 茶髪をひとつに纏めた女は、階段を上がりきると同時に白衣の袖で鼻を覆った。たまらず、窓側に駆け寄ると、ようやく諫花の存在に気がついた。


「......佐和子。もう来ていたのね。ひどい有り様だわ。まるで――」


 言いかけて、玉田早紀は口を閉じた。軽々しく喩えてはいけない、そんなふうに思ったのだろう。それでも、息を吸うたびに喉がむせる。生暖かい鉄っぽい焦げた匂い。


「比喩は不要よ。私は目の前の"これ"だけでお腹いっぱいだわ」


 聞く人によっては茶化しているようにも聞こえるほど、諫花の表情も、口調も普段通りだった。泣きも怒りもしない。声音は平坦で、表情のひとつも崩さない。


 エリートは、死線の橋を越えた先にある。

 仲間を失うのは、一度や二度ではない。

 諫花はそういう場所を歩いてきた人間だった。


「......そうね。そう、よね」


 玉田はそう言いながら、視線をそっと床に落とした。それが誰だったのか、もう名前を確認する必要すらない顔。それでも玉田は膝を折った。白衣の裾が血に染まった水を吸っていくが、気にもせず死体の頬を撫でた。


「つめたい。つめたいわね。......佐和子、人って死ぬと冷たいのね」


 今まで何千人もの死体に触れてきた玉田が、そう言った。まるで初めて知ったかのように。


 諫花は何も言わなかった。いや、言えなかった。


 秋吉の新人時代に面倒を見ていたのは玉田だった。

 そして「鑑識に来なかったら許さない」と冗談交じりに言っていたが、結局、秋吉は交番勤務を選んだ。


 その小さな選択が、今はやけに遠い。


 "......い、諫花さん"


 諫花は頭の奥で、誰かに呼ばれた。十数年前に置き忘れてきた記憶がよぎる。気づけば、目の前の玉田に、自分たちを重ねていた。わずかに、ほんのわずかに、諫花の瞳が揺れた。


 ――パシャリ。


 ストロボの残光が現場を照らした。出処は諫花でもなく、玉田でもない。第三者が発した音は、ふたりを現実に戻すには充分だった。


「玉田課長、そろそろ指示をお願いします」


 若い鑑識員が玉田に指示を求めた。全員が凄惨な現場の気配に押されている。


 玉田は濡れた指先を握りしめて、立ち上がった。白衣の裾から赤黒い水がぽたりと落ちた。指示を出す。


「現場保存。死体の移動は許可するまで待機。……全員、手袋を。証拠の採取を最優先して」


 玉田の指示で複数の足音が現場のあちこちに散らばった。


 そのとき、遠くの濁った水が波紋を描いた。

 かすかに残っていた呼吸の反射だとは、誰も気が付かなかった。


 ──────────────




「......うっ」


 重いまぶたが開いた。

 白い天井に、薄く香る消毒液の匂い。身体が動かない。点滴の針が腕に刺さっている。しばらく点滴液が一滴ずつ垂れていくのを少年は眺めていた。


 病院、だろうか。


 まばたきを何度もして、彩度をあげようとした。

 さっきまで見ていた夢に色はなかった。



「......起きたのね」


 声が耳に届いた。少年はその声の方向に首をゆっくりと傾けた。首の骨がいつもより固かった。


「私は諫花佐和子。警官よ」


 諫花の顔は窓から差す光によってぼやけていた。少年からは表情が読み取れなかった。


「......ここは、病院......ですか?」


 少年の声は分離していて、いつもとはかけ離れていた。喉の奥が潰れたように、ひどく乾いていたせいだった。少年の問いに、淡々と答えが届いた。


「いいえ、病院ではない。ここは警察署の医務室よ」


「......け、けいさつ」


 ぼんやりと虚ろな少年は、諫花の言葉を受け取ったまま、返さず黙っていた。


「覚えていないかしら?大きな事故に巻き込まれたと思うんだけど」


「......」


 少年は慌てて右の側頭部を触ったが、何もなかった。体のどこにも傷が見当たらなかった。


「ひとりだけ。あなたひとりだけが生き残ったわ」


 その言葉に、ぐらっと瞳が揺れた。モノクロの夢は現実だった。少年の喉が、乾いた音を立てながら、唾を飲み込んだ。


「......名前は?」


 諫花の問いに少年は言葉を探した。......あれ。夢の前が思い出せない。


「......わからない」


 諫花の眉がわずかに動いた。


「家族は?年齢は?住所は?」


 問いが投げられるたび、少年の顔色が悪くなっていく。探して、見つからなくて、また探して。空っぽの本棚を必死に漁って、まっさらの長編小説をめくる。


「......思い出せません」


 申し訳なさそうな声が小さく吐かれた。


「......そう。なら仕方ないわね」


 諫花は視線を少年から外し、窓の外を見つめた。淡い残光が諫花の顔を照らした。


「とにかく今はゆっくり寝なさい。なにかあればそこの受話器を持ち上げてちょうだい。自動で繋がるようになってるわ」


 そういって、諫花は部屋を後にした。


 サイドテーブルに固定電話とガラスの花瓶が置かれていた。花瓶にはクチナシが生けられており、あまい匂いが室内を満たしていた。




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