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イフパターン  作者: 其嶋真由
交番編

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第19話 潮(うしお)

 

 下着が濡れている。

 ひどい悪夢を見たせいで、不快なほどに汗をかいていた。それでも、気持ちはすっきりとして、体も軽く感じた。


 カーテンから差し込む柔らかな朝日を浴びながら、ゆっくりとベッドから起き上がり、顔を洗う。冷たい水が心地よかった。鏡に映った自分の顔は、まだ疲れているが、確かに元気そうにみえた。


 制服に着替える、昨夜の緊張はまだ心のなかに残っているが、日常のリズムに身を委ねることで少しずつ和らいでいくような気がしていた。


 交番につくと、佐々木くんがいた。


「おー、網浜さん。体調はどうですか。まさか1人だけ牡蠣にあたっちゃうとは思いませんでしたよ」


「そうね。救急搬送までされて」


 なんだか、急におかしく感じて笑えた。昨日の記憶を辿ると、おばあさんにも、医師にも、諫花さんにも、秋吉さんにも、佐々木くんにも、みんなに変な態度をとったみたい。ばかばかしくて、滑稽だと思われただろう。


 ペンが紙を擦った。黒いインクが紙に移った。

 外では、学生の群れが自転車で駆け抜けていく。掃除をする高齢の男性がホウキを動かす。コンビニの配送トラックがバック音を鳴らしている。街は変わらず動いている。



 更衣室のドアがぎしりと開いた。

 少し眠たげな目元をこすりながら、ティーカップを片手にでてくる。ティーカップの中身はコーヒーだろう。


「網浜、大丈夫か」


「はい。なんだかすごく元気になったみたいで。」


「それならいいが、無理はするなよ」


 昨日とは違って、所長の声がやさしく聞こえる。


「そういえば昨日は北寺病院まで迎えにきてくださったんですよね。夢だったのか、現実だったのか、どうやって家まで帰ったのか、記憶が曖昧で......」


「迎えが遅くなってすまなかったな。もっと早く行くつもりだったんだが、どうにも外せぬ仕事があってな。気がついたら、お前が病院の前で倒れていた」


 所長は落ち着いた様子で、コーヒーをすすりながら答えた。昨日は冷たく感じた所長の態度が、今日はやけに頼もしく感じる。


(所長はエリートなんだもんね。いろんな事件を担当して、解決させてきたんだから、並大抵のことでは動揺しないか)


 安心した。しかし、余計に昨日だけの自身の過敏さが気になった。


 しばらくすると、自転車が発する急ブレーキの音が鳴る。ガチャガチャという物音が収まった。


「ういーす」

 秋吉さんが巡回から戻ってきた。髪には寝癖が残っていて、制服の襟はわずかに曲がっていた。


「お、復活か、リサリサ。昨日の顔はマジでこの世の終わりみたいだったからな。生きててよかったな」


 軽口なのに、どこか本気で心配している声色。


「......秋吉さん。昨日はありがとう」


「いいって、いいって」


 秋吉さんは照れ隠しのように頭をかいた。


「でも、本当によかったよ。リサリサが毒だとか、何だとかいうから、本当に心配したんだから。救急隊員にも、毒が盛られている可能性があるから、ちゃんと調べてくれってお願いまでした」


「......毒ではなかったですね」


 自分の声が思ったより小さく、恥ずかしさが滲んでいた。どこか説明がつかない心細さも胸に残ったままだ。


「万が一、万が一に、毒だったら困るからな。それにお前が意識が朦朧として途切れる寸前まで、毒だと断言するから.....」


 冗談めかして笑う秋吉さん。しかし、その口角が、笑い方がほんの少しだけ引きつって見えた。


「......ほんと、大変だったんだからな」


 その小さく漏れた本音が、やけにまっすぐ静かに響いて、しばらく耳から離れなかった。


 秋吉さんが席につき、椅子の背にもたれた。

 しばらく交番のなかは、紙のめくれる音とキーボードの軽い音だけが残る。朝の光が穏やかに差し込み、いつも通りの日常が積み重なってゆく。


「そういえば、今日の巡回、北寺病院の方面でしたっけ?」


 佐々木くんが秋吉さんに話しかける。


「うん、次はそっちに行くけど」


 胸の奥がかすかにざわついた。昨日の光景が、ふと脳裏をよぎる。胸の奥底に溜まった廃水が圧力によって、潮位を増しているような気がした。


 赤黒い光、冷たい気配、そして医師の姿。


 ――あれは悪夢だ。

 熱に浮かされただけ。体調を崩しただけ。そう言い聞かせる。


「じゃ、そろそろ行きますか。早く行かないと昼までに帰ってこれなくなる。リサリサは病み上がりなんだから無理すんなよ」


 秋吉さんはヘルメットを手に言った。私は突然の会話にびっくりして、ただ苦笑いで返すのが精一杯だった。


「あ、ありがとう。じゃあ気をつけて」


 秋吉さんと佐々木くんが自転車で出ていく。交番には所長が新聞をめくる音が残った。


 所長が新聞を畳み、ふと窓の外に視線を送った。

 その目には、昨夜にはなかった深い皺が刻まれている気がした。


「......今日も、何事もなく終わればいいんだが」


 ぽつりと落とされた言葉に、背中が少し強ばる。


「え?」


「いや、なんでもない」


 所長は微笑んだ。だが目は黒く濁っていた。



 ──────────────


 ――北寺病院前


「なんか静かじゃないですか」


 佐々木が自転車から降り、病院の前で呟く。いつもなら、朝の通院患者や職員の車が行き交うはずだ。だが、今日は妙に人影が少ない。


「確かに。静かだな......」


 秋吉は目を細めた。窓は太陽の光を反射し、中を窺うことはできない。だが、煙っぽい冷たい空気が外へ漏れているような気がした。


 息を吸うと、鼻の奥がチロチロとひりつく。


「入ってみますか?」


「.....戻るぞ。変に騒ぎ立てても仕方ない」


 佐々木の提案はすぐに却下された。すぐさまペダルは踏まれ、自転車のチェーンが回った、そしてタイヤが動き、前へ進み始めた。後ろ髪を引かれるような気配を振り切り、ふたりは交番へと戻っていった。



 網浜が腕時計を見ると、もう2時間は経っていた。書類の山にペンを置き、背筋を伸ばす。


 そのとき――


「ただいま戻りました」


 秋吉が気の抜けた声で語尾を伸ばしながら入ってくる。佐々木もそれに続く。


「なんか変な感じでしたよ。北寺病院」


「嫌な静けさ、っていうか......」


 軽く笑った。諫花がその件を詳しく尋ねようとした。

 その瞬間。


 ――轟音が空間を切り裂いた。


 爆風が窓を震わせ、ガラスがびりびりと鳴る。

 遠くで、黒煙が空へ立ち上るのが見えた。


「......え?」


 網浜の手から、ボールペンが落ちる。


 所長は立ち上がって、目を光らせた。


「あの方角......まさか」


 唇を引き結んで、拳を握り締める。


 秋吉は口を開け、声にならない声を漏らした。


「......なんだよ、これ.....」


 佐々木の顔は蒼白になっている。


「.....はやく、はやく......早くいかなきゃ」


 網浜は無意識に言葉を発した。胸の奥が、爆心地に引っ張られるように痛んだ。そして、昨夜の冷たい声が脳裏に響いた。依然として、その声は不明瞭だった。だが、かすかに笑い声が聞こえた。


 体の奥で、何かがぶるりと震えた。



 交番編 ~完~

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