第18話 狼煙
日が変わるまえに、ようやく夕立が終わった。雨粒は小さな粒子となって空気中に昇る。北寺の街は深く濃い霧が立ち込め、街灯の光は霧に散乱し、霞んでいる。
――某所 屋上にて
「どうだ。見つかったか」
「まあ、急ぐな」
包帯の男は煙草に火をつけ、煙をゆっくりと吐き出す。煙は徐々に夜霧に溶けこんで同化した。ふたつは境界を失った。煙量が増えるにつれ、煙が夜霧に溶けていくにつれ、男の感覚は鋭敏になっていった。そして、いよいよ煙に感覚を委ねた。
霧に混ざった煙が、街の形を指先に描き出す。道。屋根。鉄柵。ネオンのかすれた光。夜燕が羽ばたく気流。そのすべてが輪郭として伝わり、包帯の男の神経網に捉えられていく。
微細な反応が手のひらや指先に伝わる。まるで舐めているかのような感覚で、街全体をくまなく探していく。普通の視覚や聴覚では捉えられない、異常な気配を探していた。
だが、まだ"それ"は見つからない。
霧は重い。街は眠り、その呼吸はゆっくりだ。男は肺から空気を押しだして、煙を出し続ける。
「まだか」
金髪の男はオペラグラスで、深い霧の中を覗きながら言った。探知を待つには、あまりにも退屈で待ちきれないでいた。
「おい、そんなくだらない、ままごとをするな。そんな暇があるなら、お前も探せ」
「バカを言うな。お前みたいに使い勝手が良くないんだ」
「お前のやつほど使いやすい能力はないだろう」
「はぁ? 俺は戦闘専門だ。探索はそっちの仕事だろうが」
「馬鹿と鋏は使いようと言うが......なら、黙って待っていろ」
分厚い霧は、まるで生き物のように蠢いている。街を覆う霧の大半が男の支配下にある。
静寂、呼吸、霧と煙、夜そのものが、男の神経に絡みつく。
街の奥底、どこかでひとつ脈が震えた。
微か。だが確かに震えた。
生き物の心臓が、異常な振動を漏らしたような。
「......カエルか?」
「おいーカエルなんか見つけてんじゃねぇぞー。お、子猫ちゃん見っけ」
金髪の男が軽口を叩く。その声は霧の厚みに飲まれて響かない。夜がすべての音を拒絶しているようだった。
包帯の男の指先に、刺すような熱が走る。
包帯の布越しに皮膚が痛む。熱源が神経を逆流して登ってくるようだった。
「......おい」
包帯の男が低く呟いた。
「どうした、見つけたのか?」
興味と焦燥が混ざった声。金髪の男が身を乗り出す。
包帯の男は答えず、霧の奥に意識を沈める。
――ドクン
鈍く、重い、異様な熱。
街の中心に腐った太陽のような気配が灯る。
古い病院の影が、霧の中に輪郭を描く。
北寺病院。
ただの廃れかけた市民病院、、ではない。
赤黒い光が見える。濁った熱。
高位捕食者が息を潜めながら、牙を研いでいるような感覚。
「......チッ、起きてやがる」
「病院か......?」
金髪の男はそう呟きながら、オペラグラスを南東、北寺病院の方角に向けた。
「まずいな。もう気付いている」
包帯の男の声は震えていない。だが、指先の包帯が音もなく軋んだ。煙草が指からするりと抜け落ちて、足元に落ちた。
「で? こっちを見てんのか?」
金髪の男は楽しそうに首を傾げて尋ねた。
「いや......眠っている。上半身だけ、夢のなかで目を開けてこちらを見ているような状態だ」
「何だそれ、気味の悪い言い方すんなよ」
包帯の男は前にむかって、指を弾く。闇が揺れ、霧が揺れる。包帯の男は神経を遮断した。神経を逆流してくる熱っぽさが気持ち悪かった。
「行くぞ」
「急にだな。まだ準備してねぇだろ」
「夢から醒めるまえに殺らないと死ぬぞ」
包帯の男は鉄柵の上に足をかけた。
「待て、待て待て。ションベン、ションベンだけさせて」
金髪の男は鉄柵を持ったまま、急いで、放尿をはじめた。すると重かった霧が次第に晴れてきて、露わになっていく。包帯の男の仕業だった。
「お前、ふざけるな。あれを捕まえる前に、俺が警察に捕まっちまうだろうが」
金髪の男が笑う。獣のように鋭くとがった犬歯が、薄明かりのなかで白く光った。
「オッケー、待たせたな」
そう言いながらベルトを締めると、指を鳴らした。金髪の男の指には金銀製の指輪がはめられていた。
湿った屋上を踏みしめ、ふたりは霧の中へ消えた。
遠く、夜燕が一声短く鳴く。
北寺病院へ。
静かに、確実に、死が向かっていた。
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ふたりの影が街を滑空する。包帯の男の指先は赤い気配を再び捉えていた。まだ熱を帯びている。
「向こうは俺達が向かっていることに気がついている
。馬鹿な行動はよせよ」
「二対一で負けるもんか。片手で十分だ。やるぞ、さっさと片付ける」
「ふん、相変わらず......」
「おい、どうした」
包帯の男は思わず立ち止まった。手が燃えそうに痛む。熱い、熱い、ひどい熱源を感じる。
「こりゃあまずいな。お目覚めだ。なあ、リザ。引き返すか」
「ここまできて、そりゃあないぜ。早いうちに手を打っとかねえと、もう俺たちじゃ敵わなくなるぞ」
「もう遅い。俺たちはとっくの前にあいつの射程圏内に入っている。あいつがその気になれば、心臓なんて一撃だぞ」
「だからって......」
――ボンッ
包帯の男の右手が爆発した。そして赤黒くが光り、熱い熱を伝えた。ゆっくりと息を吐いた。右手からは赤い血が滲み、包帯の切れ端まで染みていく。熱はまだ指先に残り、痛みは脳天まで鋭く届いた。しかし、顔には狼狽の色はなかった。あくまでも、淡々と次の動作を選んでいく。
「......消えた。気配が消えてしまった」
包帯の男は新しい包帯を右手に巻き付けながら、そう言った。言葉は少ない。彼の手つきは正確で、無駄がない。ただ新しい包帯にも血はすぐさま滲み、白い布に赤が広がっていく。
「消えたんだ。反応そのものが。俺の煙でも、行方を探知できなかった」
「つまり、どういうことだよ」
「消失、あるいは瞬間移動。この霧の外に出て、俺の支配下から消えたか」
「じゃあ北寺病院には居ないのか。行ってみるか?」
「よせ。最も恐ろしいのは潜伏の場合だ。この感知できない状態で襲われてしまえば、俺たちはどうしようもない。自殺行為だ。ここは引こう」
「......」
金髪の男はわずかに唇を噛んだ。怒りと苛立ちが混ざった気持ちは、この状況では正しくなかった。
街路や路地を抜けて、やがて広い通りに戻る頃には、2人の呼吸は落ち着いていた。金髪の男が低く笑いながらも言葉を選ぶ。
「次はいつだ?」
「新たな気配がしたら動こう。だが無理はできない。返り討ちにあう可能性は十二分にある」
「待ってばっかりだな。お前も変わったな」
包帯の男は答えなかった。彼の目は、何かを遠く凝視しているようにも見えた。怒りでも恐れでもない、ただの観察。獲物を理解しようとする観察だ。広範囲に及ぶ探知能力は、莫大な感覚が同時に流れ込んでくる。それを処理する能力を絶えず維持することは容易ではない。男はたまらず大きな欠伸をした。
「疲れた。そろそろ、家に帰ろう」
ふたりは姿を消した。屋上には小さな痕跡だけが残った。煙草の燃えかす一つ。鉄柵に引っかかった包帯の端。やがて、風に飛ばされ、痕跡は消えるだろう。




