第17話 夜警
日付変更点を前にした夜の病院は静まり返っていた。机に備え付けられた読書灯が淡く紙の上を照らしている。市民病院として建てられた北寺病院は老朽化が進んでおり、もうすぐ移転が決まっている。廊下の蛍光灯は不規則にちらつき、建物の隙間からは降り止まぬ夕立の音が微かに漏れ聞こえている。
医師はカルテを広げて、今日担当した患者を再確認していた。それは医師にとっては若い頃からの習慣であり、一日の終わりを告げるルーティンでもあった。
「あみはま......りさ......」
赤髪の救急搬送されてきた女を思い浮かべた。牡蠣を食べて食あたりを起こしただけなのに、故意に毒を盛られていると疑っている女。彼女は過剰に恐怖を抱いていた。不適切ながら、精神病だと思った。
心拍、血圧、体温、酸素飽和度、白血球数――すべて正常範囲。CRPは多少の上昇が見られる。吐き気と腹痛の訴えはあるものの、医学的には急性胃腸炎の典型的な症状だった。
「やはり異常なし......か。毒を盛られていちゃ、こんなことでは収まらないんだけどもね」
独り言を小さく呟いた。口元が少し緩んだ。それは夕方の赤髪の女の必死さを思い出して、馬鹿馬鹿しく思えたことによるものだった。そして指先は、加齢によって少し震えている。
医師はメモ用紙を破った。そこに落書きをした。40年以上も前に飼っていた子猫を描いた。大人になる前に子供のまま死んでいった。描くに理由のない衝動的な行動だった。震える指は決して上手い猫を表さず、細く震えた線はみすぼらしい。
少し苛立ちながら紙を丸めて遠くのゴミ箱に投げた、が、入らなかった。重い腰を起こして、紙を拾い上げ、捨てた。無駄な労力で、無駄な時間だった。
「馬鹿馬鹿しいよ。ほんとうに......」
ふと、隣に置いてある医療廃棄物用のゴミ箱が気になって、蓋を開けた。光がなく真っ黒で見えないなかに、赤黒い光が微かに揺らめいていた。
「.......」
急いで採血管を手に取った。やはり微かな赤色が揺れている。淡く弱い光が揺れている。眼鏡を外し、目を擦っても、その光は消えなかった。それは医学的には説明のつかない微細な異常だった。
――コツ......コツ......
革靴が石床を叩く音が聞こえる。開け放していた扉の外を見遣ると、青白い懐中電灯の光が見える。次第にその音が近くなってくる。夜警の巡回が始まった。
「おやおや。先生じゃありませんか。こんなに遅くまでお勉強ですか」
恰幅の良い男が軽く笑いながら話しかける。声の抑揚には親しみがあり、緊張感を和らげる。
医師は手元の採血管から目を離さずに、わずかに頭を下げる。赤黒く微かに揺れる血液の光は、夜警には届いていない。
「いやいや、ただの居残りですよ。もう帰らなければなりませんよ。夜警さんは一夜ですかな」
「ええ、残念ながら。外は雨がひどいですねえ」
夜警は懐中電灯を軽く揺らしながら言う。揺れた懐中電灯の青白い光は採血管に当たった。採血管の赤黒い光はその光を吸い込むように、光を増した。まるで血液が光を吸い込むかのようだった。
医師は指先で採血管をそっと回す。赤黒く揺れる光を、小さな生物のように見つめる。心の奥がざわつき、指先の震えが止まっていることに気がついた。緊張している。
「先生、それは何です。えらく綺麗なものですね」
「本当ですね。ほんとうに綺麗な血です」
淡々としながらも、得体の知れない血液が示す科学的異常について考えていた。
「ち、血ですか。こんなに光るものとは知りませんでしたなあ」
夜警は驚いたが、医学的なことには無知だった。医師が感じている異常を共有することはできない。ただ美しいものとして、興味を示しただけだった。
「いやはや、私も驚きですよ」
医師は軽く頷き、皺の入った薄い手で採血管を包むように持った。血液の揺らぎが、呼吸しているようにも思えた。そして何より、手に伝わるほのあたたかさが不気味だった。
「先生も珍しいとはそりゃあ貴重なことで。では、日を跨ぐ前にお帰りくださいね」
夜警はそう言うと、懐中電灯を持ち直して廊下を歩き始めた。革靴の音が遠ざかると、夜の静寂が再び病院全体を支配した。
医師は椅子に座ると、読書灯に照らしながら、採血管をじっくりと見る。夜警は無知だ、何も医学のことなどわかっちゃいない。夜警にできるのは簡単な日常会話だけだ。ただその無知さが、目に前の赤黒い光に、光を与えた。
「これは……異常だ」
医師は網浜のカルテを取り出して、小さく鉛筆でメモを残した。
”正常範囲では説明できない現象――未観測領域”
監視カメラの赤いランプが点滅している。
雨は止み方を忘れた。何匹かの夜燕が外で切り裂くような声を発している。
「不吉な夜になりそうだ……。網浜梨沙、君は一体何者なんだ」
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網浜は眠れずにいた。
天井は闇に消え、窓ガラスの向こうでは雨粒が低く擦れるように鳴っている。
体の奥で不規則な脈が跳ねていた。一定のリズムを持つ鼓動が、自分ではなく、別のどこかで打たれていて、それが遅れて体に響いてくるように感じた。
(……まただ)
そして、皮膚の内側を誰かの指先でなぞられるような、薄い圧迫感が這う。表面ではなく、内側。筋肉と骨の隙間に指を差し込まれ、ゆっくりと撫でられている感覚。
腹痛でもない。発熱でもない。
夢でも、妄想でもない。
もっと、体の根っこがざわついている。
小さな電流が末端神経の先の先まで触れている。
またしても耳鳴りがする。鐘が遠くで打たれ続けている。残響が消えず、新たな鐘の音と混ざり合う。次第に平衡感覚を失って、自身の体が回転しているのかのような感覚に陥る。背中側から熱が上がってくるのを感じる。
全身に伝わった熱は戻ろうとする。指先から、足先から、髪の毛一本の先からも熱さが伝わってくるような気がしている。熱い。熱い。頭の奥が沸騰するように熱い。再び視界が赤くなって、あの光景に至る。そして、再び認識できない声が遠くから聞こえ出した。
『ュ…ワ…ガ…』
『ハ…ナ…リ…ラ…』
意味が掴めない。なのに、意味を理解してしまいそうな声がする。
声は言葉として形になろうとするたびに、網浜の体温と脈を自分と合わせようとした。
熱が胸の中央に集まってくる。
......声にならない。否定する思考よりも、はやい。
その時、胸がドク、と跳ねた。
一瞬、視界が白くなる。
異様な光景が視界に広がった。
机。
読書灯。
黒い影。
皺の入った薄い手のひら。
家にいるはずなのに。第三の目が開眼したかのように、病院の薄暗い部屋の映像が見える。
ふたつの視界が重なっている。
頭が割れそうで、目の奥が疼く。
自身に遅れて伝わる鼓動が、採血管の揺れと一致した。
「......ようやく......見つけた」
網浜が目を瞑ると視界が戻った。全身から汗が噴き出す。眼球の奥が焼けるように熱い。鼻の奥からは鋭い鉄の匂いがした。
「あれは......いったい」
でも、わかった。あのなかに、何かがいる。それは理屈や理論ではなく、事実としての体感。そして、そのなかが何かが私を呼んでいる。
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手のひらで包んでいた採血管がじわりと熱くなった。内部から熱が伝わってくる。さっきまでの微かな拍動が、いまは自分の脈を上書きするかのように荒々しい。採血管のなかの光が強まった。赤黒い輝きが皮膚に染み込んできそうな気配がして、恐れから思わず机の上に手放した。
――パリン
乾いた、しかし生々しい音。採血管が爆ぜた。
採血管が砕かれたのではない、内部から破られた。
血はドロっと固まっていた。呼吸するように脈を打ちながら、ウニのように棘を伸ばす。次いで融ける。表面がぬるりと光り、丸くなる。しばらく生物的な動きを見せている。
理解が及ばない目の前の光景に、医師の喉は乾ききり、足が床に縫い付けられたように動けなかった。
そして、何の前触れもなく――
ボッ。
低く、小さく、しかし確かに炎のような音を立てて、赤黒い凝固体は白煙も残さずに蒸発した。
熱はまだ指先にこびりついている。机の上には、何も残っていないのに、何かが確かに存在していた記憶だけが、じわりと疼いている。それだけが異常が在ったという事実を証明していた。




