第1話 北寺交番
北寺交番は今日も陽気である。
「佐々木、寝癖つけたままくんなよ」
秋吉慧は机に突っ伏す佐々木翔太に向かうように座って、佐々木の寝癖を細い指に巻きつけては解き、巻きつけては解く。佐々木は黒髪を弄られていることに嫌がる素振りもみせずに話を続ける。
「先輩、そういえば巡査部長の試験ってどうしました?所長が受けろってうるさくて」
「え、佐々木ってもうそんな歳になんの?」
「もう24歳ですよ」
「すっかりフケたな(笑) 俺も24で受けたよ。俺の時も前の所長の伊藤さんがうるさくて、仕方なく受けたけど」
「あー、伊藤さん。懐かしいっすね。あの人今どこにいるんですか。本部に戻ったんでしたっけ?」
「うん、戻ったんだけど、色々と立ち行かなくなって窓際らしいけどね。やっぱり仕事は人間関係が7割だから」
「あんなにいい人でもそんな仕打ちを受けるなんて。そう思えばここは最高ですよ。網浜さんがいて、所長がいて、そして先輩がいて」
そういって、佐々木は秋吉の手を握って、目を輝かせる。秋吉は佐々木の目を逸らすように少し俯いて照れた顔を隠した。
──ゴチン
鈍い音がした。2人の頭に鉄拳がくだったのだ。北寺交番の所長を務める諫花佐和子によるものである。
「痛ってえー。ちょっと所長!!!いきなり殴るってそりゃないでしょ」
秋吉は照れていた顔を一瞬にして変え、諫花に対して不満げに怒る。
「仕事中だぞ。公務員が遊ぶな。それとも税金ドロボーで獄門希望か?ここは馬鹿田大学じゃない」
諫花の冷たい一言に佐々木も加わって反論する。
「所長、あんまりですよ。まさか所長まで僕らの邪魔をしようてんじゃないでしょうね」
「ふうー。相変わらずね」
その様子を更衣室からこっそり覗き、湿り気を持った溜息をつきながら呆れた様子でいる。この間、齢25にして白髪が目立ち始めたため、白髪染めを兼ねて赤茶色に染髪した網浜梨沙 通称:リサリサ。北寺交番歴は5年目となり、秋吉に次ぐ2番目の古株である。とは言っても警察官ではない。夢破れて駆け込んだ先が、北寺交番という訳アリウーマンである。そして先代の伊藤所長のはからいによって事務員としてこの交番で働くようになったというわけ。
──国会は同性愛を法律によって禁止する法案、通称”反多様性法案”を可決しようとしています。
つけたままにしていた小型テレビからは、国営放送が告げる9時のニュースが流れ始めた。
佐々木は所長に向けたさっきの怒気を移すようにテレビの画面を指さして言った。画面の中では、法案の旗振り役となった桧川焔道が涙を流しながら万歳をしている。
「ホラ!!アレ見てくださいよ。ホノミンあんまりだと思いませんか。”同性愛には生産性がない”って言い放った上に、この法案の制定ですからね。しかも、こんな時期に」
「うむ。確かにあんまりだ。とはいえ、秋吉には妻子がいるじゃないか。それなのにこの交番内でそんなことして。彼女たちが可哀想だとは思わないのか」
「私もそう思う!!」
所長による秋吉への訓戒に同調する声は更衣室からやってくる。
「奥さんはこうしてあなたたちがこんなことしているなんて知らないわけでしょ?もうさ、この際だし、法案可決前に結ばれちゃいましょうよ」
網浜は腕組みして、反倫理的なふたりを諌めつつ、愛をそそのかすのである。
「うーーーん」
真っ当な意見に対して、秋吉はバツが悪そうに口を膨らまして椅子で舟を漕ぎながら、悩んでみせる。
それもそうである。今の社会情勢で言えば異性愛者であることは存在を無条件に肯定される存在であるし、秋吉だって決して妻と子を愛していないというわけでもない。家族に人間愛を超えた獣としての性愛を持たぬように、妻には恋愛という一時的な揺らぎではなく、長い人生を共に歩むパートナーとしての信頼と深い愛がある。もちろん、恋という炎の揺めきは部下である佐々木しか写していないのであるからして、こまる。
「先輩、僕はいいですよ」
今後の社会情勢下において同性愛は禁止され、迫害の歴史を歩む未来が今、高性能の薄型テレビが伝えようとしているのに、佐々木はあっけらかんとして黒髪を静かに揺らしてそう言うのであった。歩けばどこかで踏み外れて首にかかったロープで絞められる、そんな階段を悪名高い死刑囚なら迷いなく登れるであろうか、きっと登れない。人の命をたやすく奪う者ですら、自らの命は輝きを放ち、捨てるには惜しいというのに。ゆえに目の前に命を浮かせて涼しげにそう答えた佐々木の美しさに応えないわけにはいかなかった。
秋吉はしてやられたという顔をしながら、今夜、妻に自身の最大の秘密を伝える決意をした。妻子への申し訳なさや今後への不安といった波が心の奥底に立ち始めていながらも、どこか少し、なぜだか心のどこかが満たされるような気がしていた。
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秋吉は長年ローンで建てたばかりの一軒家を前にして大きく息を吸い込む。そして肺と心臓は入ってきた空気に呼応するかのように動きを早める。それが余計に秋吉の気持ちをさらに不安にさせるのである。
──トントントン ──トントントン
木目調のドアを開けると軽快なリズムに乗って、まな板を包丁が打つ音が聞こえる。
そしてドアにつけられたベルの音がキッチンまで届いたのか、帰宅を歓迎する妻の「おかえり」という声も遅れて届く。いつもと変わらぬ日常が帰るべき我が家に在った。佐々木、そして所長、リサリサによる煽動によって意気込んでから、ずっと不安だった。せっかく手に入れた愛する妻に、愛おしい子供、なんで手放さなきゃいけないんだと、自分の心を惑わせてたまらない佐々木に対して怒りすら湧いてきていた。なのに、家に入った瞬間、全て忘れた。鼻腔から伝わる空気の香りも、投げ捨てたように脱いである子供の靴も、妻による「おかえり」という言葉、それら全てが優しく、母に抱かれて慰められたいつの日かの記憶のように秋吉の体を包むのであった。そして今更、普通が普通ではなくなる瞬間、当たり前の光景は全て尊かったのだと気がつくのである。
とはいえ。もう遅い。あれだけ純真な目を前に、した約束を反故にはできない。そして何より佐々木にまっさらな心で愛を伝えたいし、体なんかじゃなく心で結ばれたいという気持ちは築きあげてきた日常を犠牲にしても良いとそう思えた。
「ヤダ!!!」
心の中の考え事は妻の声によってかき消された。
そして妻の会話は俺の相槌を必要とせず続いた。
「先生、ごめんなさい。私ったらルウを買い忘れてる」
「今日はコンソメスープでいいかしら」
「朝からカレーだって言っていたんだもん。もうカレーの口よね?」
「私も美食家だから分かるのよ。朝に晩のメニューを聞いた時には、もう朝から夜に向けて口腔コンディションを整えているってね」
「先生。でもね、飯にそんなにこだわらないで。飯が違うからって愛想つかしちゃひどいってもんよ」
「あ、あのさ……」
「先生、だからっ」
俺は妻の言葉が続く前に結論を伝えた。
「実はさ、俺、好きな人ができてさ……」
「え……」
軽快な語り口で続いていた妻の独言と鍋を混ぜる手は、俺の言葉を反芻する時間によって止められた。
その時間が堪らなくなって、妻の返答を聞く前に続けて言った。
「だから、別れたいんだよ。男なんだ。知ってる?反多様性法案って。あれが可決されたら、同性愛は事実上この国からは消える。いい後輩でさ、俺のこと慕ってくれていて、とにかく笑顔が可愛いの、だからそれで。いやいや、法案が可決されたら、ヨリを戻してもいいからさ」
反応がない妻に背中越しに語り続ける、それが恋したと偽って結ばれた相手であるということを忘れて。
──シュッ
鋭利な包丁はじゃがいもの澱粉をつけたまま、ワイシャツを静かに貫いて、腹部に刺さった。
秋吉は声にならぬ声をあげて、妻を見た。妻は般若のお面をつけていた。妻が泣いていたのか、どういう顔をして、どういう気持ちで自身を刺したのか、秋吉は最後まで妻の気持ちを計れぬまま、絶命した。
初めての投稿です。
主人公登場までしばらくかかります。
楽しんでいただけたら嬉しいです。




