ギャンブル依存症に陥る社会
その街にカジノができると聞いた時、大半の住民達はそれほど心配していなかった。極一部の者達だけが「ギャンブル依存症になる」と熱心に反対をしていたが、ギャンブルをするもしないもその人の自由、仮に依存症になったとしても、その人の責任ではないかと考えていたのだ。
だけれども、“責任”という概念は自己をコントロールできている状況下でしか成立しないものだ。果たして、ギャンブル依存状態に陥っている人々に、充分なコントロール能力があると言えるのだろうか?
ある人は、ほとんど飲まず食わずでギャンブリング・マシンに熱中をし続け、席を立つことすらせず、遂には失禁までしてしまったのだそうだ。また、ある人は妊娠していながらギャンブルをし続け、母乳が垂れるのも気にしなかったという。ギャンブルに熱中している間に体調が悪化し、死んでしまった人もいる。
これらの人間の状態が、“自己をコントロールできている”とはとても言えないだろう。
――実際、カジノは人間の正常な判断力を麻痺させるように設計されている。
計算された建築レイアウトで、人間を巣穴へと誘い込み、狭いスペースで外界との情報を遮断した状況でギャンブルにだけ集中させるように仕向ける。まるで自分でゲームを操作できているように思わせる演出や、「あと少しで当たっていたのに!」と錯覚させる演出がギャンブリング・マシンでは展開されているが、それらは全てまやかしで、本当は確率的に絶対にプレイヤーが負けるように作られている。
間欠強化という現象がある。
常に報酬が貰える状態では、動物はあまり興奮をしない。報酬が貰えなかったり貰えたりすると、報酬を得られた時に快感がより増すようになっている。ラットによる実験では、報酬が貰えるかどうか分からないレバーを用意したところ、ラットは狂ったようにレバーを押し続けたらしい。
人間でも、同じ現象が起こる。
その快感の虜になってしまったならもう手遅れ。人間は、金が無くなるまでギャンブリング・マシンに金を投入し続けるロボットになってしまうのだ。
「まるで催眠術にかけられたよう」
あるギャンブル依存症患者はそのように語ったが、それはあながち間違いではないのかもしれない。
だけど、そのような話を聞いても、住民達はそれほど不安には思っていなかった。「取り敢えず始めてみて、問題があったら制限をかければ良いじゃないか」。そのように考えていたのである。
それで、結局は街にカジノは建造されてしまった。
すると懸念されていた通りの事態が起こった。カジノに大金を投入し、身を亡ぼす人が現れるようになってしまったのだ。その中には貴重な働き手もいた。労働力がいなくなれば、当然ながら、地域の生産能力は落ちていく。ギャンブルは、娯楽以外に何も生産しない。つまり、資源の無駄遣いだ。そうして生産力が落ちていけば、やがては社会全体が衰退していくだろう。
だけど、その時点ではまだ住民達は楽観的だった。
「ギャンブルに問題があるのなら、反対してカジノに制限をかければいい」
当初考えていたその通りに、彼らは反対運動を行った。がしかし、その運動はあまり芳しく進まなかった。
その頃になると、カジノ業者は賄賂によって政治家や官僚と結びつき、保護を受けるようになっていたからだ。もちろん、それだけではない。
「カジノが制限されると税収が落ち込んでしまうんです」
長期的には社会にとってマイナスだと分かっていても、短期的には税収が減ってしまう。だから、なかなか制限をかけ難くなってしまっていたのだ。
――どうやら、ギャンブル依存症に陥っているのは、この社会全体であるらしかった。
『デザインされたギャンブル依存症 ナターシャ・ダウ・シュール 青土社』
という本を読んでこれを書いたのですが、少なくともこの本を読む限りでは、止めておいた方が良い気がします。