それは確かに意外なものかもしれない
もう少し物事を素早く正しく的確に捉えられるようになりたいものだと考えてはいるが、私にはタイムラグがあるらしかった。
そもそもキャパが小さいうえに、いつでも何かでパンパンに詰まって、新たなことが入る余地がない。思い込みが激しく多角的に捉えるのが苦手だから、一旦こう、と決めつけてしまえば、そこから離れることが難しく、先へ進まなくなってしまう。
そして影響を受けやすく、翻弄されてしまうから、いつも何かに捕らわれて心ここに在らず、理解は後からやってくるのが通常運転になってしまっていた。
突如閃き、立ち上がって叫び出しそうになることもあったが、たいていはこねくり回した後に文字に落とし込み、ようやく整理整頓がつく。
だからこれも後からやって来たのだ。
話を聞いていた。信号の話で、それは一定の人しかキャッチすることができない、とかなんとか。受信の方ではなく発信の方だったかもしれない。いずれにしろそこには私も同意した。なぜなら私にはそんな信号は出せなかったしちっとも届かなかったから。いまいち理解の及ばなかった私はなんだか適当に返事をしてしまったような気がしていた。以来それはずっと頭に残って、じわじわとその面積を増やし、深度を深めていった。私は例の如く捉えられて身動きが取れなくなっていったのだった。
もちろん私が考えたところで、信号を出せも受けもできないことには変わりはない。ただ、物理的に届かなかったとしても、この地球にこんな風に、つまり同じ場所に立って、理解者となって、手を携えて、慈しみの精神で、味方になって、肩を抱くように、だよな、とでも言うように信号を受け取り、だからさ、と信号を発する人が、いる、という事実、は最初に信号を発した彼を元気づけるに違いなかったし、それを想像した時の私の中の彼は嬉しそうで、嬉しそうな彼の姿を見る私もまた嬉しくて胸を撫で下ろすのだから、全くでたらめというわけでもなく、想いは繋がり、届くのではないか、と思われるのだった。
不思議で仕方がない一方で、納得してしまえるのだ。彼らの間だけでやり取りされている信号は確かにあるのだろう。私の考えの及びもしないところで、突き詰め行き当たった壁の前で、どうすっかな、と顔を見合わせる、そんな瞬間があるのだろう。
そのお陰で息ができる、そんなことはつゆとも知らず、私は今日ものんきに息をしている。信号が今日も私の頭上を通過して、世界へ発信されてゆく。
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