ブータン
少女は柱にかかった大きな古時計を見上げていた。秒針もなく、振り子は壊れていて、全く揺れなかったので、一時間に一度、時の音を鳴らさなければ、動いているのか、壊れているのか、分からない程だった。
少女はただ、不思議そうに、その大きな古時計を眺めていた。
その光景を少女の後ろから、ふくよかな、いや、ふくよかを超え、まんまると太った少女の父親が微笑ましそうに見ていた。
父親はこれまたまんまる丸い豚のぬいぐるみを抱えていた。
少女が振り返る。
少女、満面の笑みで。
タイトル。
『ブータン』
現代。
車のクラクションが鳴った。
信号が青に変わっても、発車しようとしない先頭車に向かい、後続の車がクラクションを鳴らしていく。
先頭車の運転をしていた杉浦あずさが後続車のクラクションの音で我に返り、
「(青信号を確認して)やばっ」と後続車に恐縮しつつ、車を発進させる。
森に囲まれた一軒のコテージ。
その前の空き地にあずさの運転する車が停車する。
あずさを出迎えようと久保田美智子が待っていた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「美智子さん、やめてよ。もう、そんなんじゃないし」
「私にとってお嬢様はいつまでもお嬢様なんです」
あずさは切なく微かに笑みを浮かべ、
「どう、片付きました?」とコテージの玄関の扉を開ける。
「(部屋を見渡し)……あれ?」
「お申し付け通り、大概のものは片付け、処分しましたけど、今日はまだお嬢様がお泊りになるので、必要最低限のものは……」
「……そう」
「……」
「……気を遣ってくれて」
「……」
「(美智子を見て)ありがとうございます」
「いえ」
その時、柱にかかった大きな古時計が時の音を鳴らした。
「……まだ、動いているんだ?」
あずさが柱にかかった大きな古時計を見て、
「良かった……」
そして、その古時計の隣には一枚の絵が飾ってあった。
「(あずさがその絵を見つめて)……」
夜になった。
外は雨が降っていた。
コテージの玄関では、美智子が扉を開け、あずさが外の様子を見て、
「天気予報、当たった」
「これから本降りになるかもしれません」
「やっぱり、泊まっていきません?」
「遠慮します」
「でも……」
「最後の夜は……」
「……そうですね」
「じゃあ、帰ります」
「ご苦労様でした」
「明日は八時に参ります」
「(あすさの顔から僅かに拒否反応が出て)」
「……九時にしましょうか?」
「出来れば」
「かしこまりました」と美智子が微笑む。
「助かります」
「じゃあ、失礼します」と美智子がコテージを後にする。
バスルームの中から、あずさの数字を数える声が聞こえてくる。
あずさが浴槽の湯船に浸かりながら、必死に我慢の様子で、
「82、83……」と数えていく。
コテージの外の雨は本降りになっていた。
部屋の大きな古時計が八時を知らせて、あずさがバスタオルで髪の毛を拭きながら、
「半神浴出来る人に憧れる」とボソッと呟く。
その時、玄関のチャイムの音がする。
「……誰?」
あずさが恐る恐る扉越しに、
「どちら様ですか?」
「すみません」と扉の向こうから、男の声がして、
「……」
「この雨で山が決壊したみたいで、おまけに車のガソリンも尽きて、立ち往生して困ってるんです」
「……」
「少しだけ、暖をとらせて貰えませんか?」
「でも、あいにく私一人なんです」
少し間が空いて扉の向こうから、
「そうですか……」
「……」
雨に降られ、肩を落として帰っていこうとする男の後ろ姿。
その時、玄関の扉の施錠を外す音がして、玄関の扉が開いた。
中からあずさが、
「……どうぞ」
男、ケンが振り向く。
ケンは見た目は二十代前半で、太っていて、ほんわかとした雰囲気だった。
「いいんですか?」
「言っときますけど、こう見えて、合気道やってますから」とあずさがファイティングポーズ。
「那須川天心にも勝てそうだ」
あずさがほんの少しはにかんで。
テーブルの上にビーフシチューが盛られた皿が置かれて、
「温まりますよ」
ケンの目の前にビーフシチューが盛られた皿があって、
「とても美味しそう」
「お替りもありますよ」
「それって、見た目だけで判断してません?」
「(図星で)ごめんなさい」
「恐らく、いや、間違いなくお替りしますけど……じゃあ、遠慮なくいただきます」とケンがビーフシチューに口をつける。
「どうです?」
「美味しい……凄く美味しい。懐かしい味がする」
「私もお気に入りなんです」
「どなたが?……お母様が?」
「……いや、昔からこのコテージの管理を任せているお手伝いの人が……」
「……そうですか」
「……母は私が小さい頃に病気で亡くなりました」
ケンのビーフシチューを食べるスプーンの手が止まって、
「……」
「しんみりしちゃったな」
「……」
あすさが三本指を立て、
「私は三杯食べました」
ケンがおどけて、
「負けられない」とビーフシチューを食べていき、
「あのう……」
「はい?」
ケンが肉をスプーンに乗せ、
「これ、豚肉じゃないですよね?」
「ビーフシチューだから……恐らく」
「良かった。豚は食べられないんだ」
「嫌いですか?」
「いや……」
「美味しいのに」
「……」
「そうだ、名前は何て言うんです?」
「(少しむせたりしつつ)ケンです」
「けん?三宅健?堀内健?もしかして、高倉健?」
「全部、違う。っていうか、全部、一緒。三人とも健康の健」
「あっ、そうか」
「ケン。カタカナでケン」
「カタカナ?……っぽくない」
「志村けんみたいにひらがなの方が良かった?」
「……どっちかって言うと」
「アイーン」
「あはは」
「……君は……あずさ」
「えっ?」とあずさが驚いて、
「あれ」とケンが壁に掛かっている額縁を指差す。
額縁の中にはあずさが小学校か中学校時代に貰った賞状が入っていて、
「あっ!」
ケンが賞状を見て、
「あれは?」
「絵画コンクール。小学校、中学校って、欠かさず貰ってた」
「へえ」
「家には何枚も置ききれないし、パパが縁起物だから、ここにも飾っとけって」
「もしかして、あの柱時計の隣の絵も?」
「(照れながら)私」
ケンが賞状に手を合わせて祈り、
「ご利益あるかな?」
「あるわけないじゃん」
「……すみません」
「?」
「やっぱり、図々しいかなって……でも、お替り……お願いします」とあずさに皿を渡す。
「遠慮しない」
「ほら、早速、ご利益があった」
「ご利益、ちっちゃくない?」とキッチンの方に行こうとする。
その時、部屋の明かりが突然、消える。
「きゃっ」とあずさが軽く悲鳴を上げるが、それを上回るように、ケンがびっくりした声を上げる。
「停電?」
「そうかもしれない」
「どうしよ?」
「ろうそくとかある?」
「物置とかいけば恐らく」
「どこ?」
「あっち」
「暗いな」
「懐中電灯どこだっけな」
「……その棚の中は?」
「ここ?」とあずさが手探りで引き出しの中を探していく。
「あった」とあずさが手にしている懐中電灯を点け、
「よく分かったね」
「山勘。物置に行こう」とあずさが照らす懐中電灯の明かりを頼りに歩いていく。
外は相変わらず雨が降っていたが、少し、雨足は落ちた様子だった。
あずさがケンが濡れないように傘を差している。
「ここ?」とケンが物置小屋を指差した。
「うん」
ケンが扉を開け、中を懐中電灯で照らす。
「あっ!」
「空っぽだよ」
物置小屋の中、空っぽ。
「美智子さん・・・お手伝いの人が処分してくれたんだ」
「どうする?」
「どうしよ」
「他には?」
「……地下室がある」
「行ってみよう」
「こっち」とあずさがケンを誘導していく。
あずさとケンがコテージの地下室に繋がる簡易な階段を降りてくる。
ケンが懐中電灯で辺りを照らし、
「ありそう?」
「どうだろ」
ティッシュペーパーや缶詰、レトルト食品、ワインや水などが保管されている。
あずさが辺りを探していき、
「あった」とケンにろうそくを見せる。
「しかし、すごいな。何が起こっても一、二ヶ月は平気で暮らしていけるんじゃない?」
「パパが心配性だったから」
「……そう」
ケンが懐中電灯を照らし、他にも地下室の様子を見ていく。
「漫画だ……色々あんだね」と漫画本を手に取っていく。
「ここじゃやる事あまりないから、だいたい漫画ばかり見てた」
「……」
「どうかした?」
「想像してみた」
「何を?」
「リビングのソファでだらーんと横になって」
「想像しなくていいから」
「腹出して」
「出してないから」
「あっ、おもちゃも色々ある」
「懐かしい」
「これ、野球盤じゃない?……すげえ」
「パパとよくやったんだ」
「強い?」
「ピンチになって、フォークばっか投げてたら、パパに本気で怒られた」
「気持ちは分かるような気がする」
「すぐに熱くなっちゃう。イチローだ、松井だって……でも下手くそ」
「停電が復旧したらやろうよ」
「いいよ」
「じゃあ、持ってくね」とケンが野球盤を手に取る。
「!」とケンが何かに気がつく。
野球盤の下に一枚の紙。画用紙。
あずさはそれに気づかず、
「そろそろ戻る?」
ケン、あずさに気づかれないように画用紙を開いて見てみる。
「……」
「どうかした?」
「何か変なチラシだった。捨てとくよ」
「そう。行こっ」
「これ」とあずさに懐中電灯を渡す。
「ほい」とあずさが前方を照らしながら歩いていく。
ケン、画用紙を捨てるっていう感じではなく、大切そうに野球盤と共に持っていく。
リビングにあずさと堅が来て、あずさがろうそくをテーブルの上に置いて、
「そうだ、年いくつ?」
「……」
「二十五位?」
「まあ、そんなとこ」
「じゃあ、少し年上だ」
「最初みたいに敬語を使う?」
「以後、気をつけます」
「冗談」
「じゃあ、気をつけるのを止めにします」
ケンが微笑んで、
「そうだ、シチュー、お替りだったよね?」
「一つ、聞いていい?」
「うん?」
「ここ……手放すの?」
「……」
「……」
「……うん」
「……」
「パパが突然、亡くなって、家も株なんかもパパの会社の借金に取られて」
「……」
「このコテージとパパが買ってくれた車だけはどうしても売りたくなかったんだけど、やっぱりこのコテージだけはどうしても守りきれなくて」
「……お父さんは何で?」
「……今年の夏の終わり……心筋梗塞。いきなりだった」
「……」
「すごく太ってたから」
「……」
「(ケンを見て)……気をつけてね」
「……ああ」
「お替り持って来るね」
「……止めとく」
「どうして?」
「(ケンが自分の突き出たお腹を見て)……」
「あっ、気にしなくていいのに」
「止めとく」
「……そう」
「(ケンは後悔ありありも強がって)」
コテージの外ではまだ雨が降っていた。
部屋を照らすろうそくの明かり。
あずさとケンがソファに座っている。
「とっても雰囲気のいい所だよね」
「そうでしょ」
「すごく落ち着く」
「そうなの」
「……」
「ここだけなんだ」
「……」
「ママと過ごした記憶があるの」
「……」
「私が四歳の時に突然、死んじゃったから……」
「……」
「パパによると、遊園地とか水族館とか、三人で色々な所に遊びに行ったらしいんだけど、それは全く記憶にないんだ」
「……そう」
「記憶にあるのはここだけで……ママの胸の中で……」
「……」
「ママがよく口ずさんでいた歌」
その時、柱時計が鐘の音が鳴っていって。
一つ、二つ……。
十時。
鐘の音が止んで、
「大きなのっぽの古時計」とあずさが口ずさんでいく。
「……」
「お父さんの時計」とあずさが堅を見る。
「……おじいさんの……だよ」
「そうなの……ママの替え歌」
「……」
「この時計、パパが骨董屋で買ったものだから、恐らくそう歌ったんだと思う」
「そっか」
「それ知らなくて、幼稚園で歌って、何人かの男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたの覚えてる」
「あはは」
「お父さんじゃない、おじいさんだ、いや、お父さんだって……でも、それだけ」
「……」
「ママの写真を見せられてもあまりピンとこない」
「……」
「憶えているのはこの歌と……」
「……」
「微かに憶えてるママの温もりだけかな」
その時、ケンのお腹が鳴って、
「切ない話してんのに」とあずさが冗談ぽく睨む。
「(ケンが恐縮して)」
「……小腹、空いたね」
「(ケンは否定はせず)」
「シチュー、温めてくるね」とあずさが立ち上がる。
「(うれしそうに)手伝う事ある?」ケンも立ち上がる。
キッチンの流しには、食べ終えた二組の食器。
テーブルの上には野球盤。
懐中電灯を吊るすなどうまく利用して、野球盤にスポットライトを当てている。
ケンがフォークによりあえなく空振り。
「噂のやつだ。ずるいよ」
「あはは」
「真っ向勝負してこいよ」
「分かりました。いくよ」
「(ケンが呼吸を止め、待ち構える)」
あずさが投げる。
が、またもやフォークによりあえなく空振り。
「やりっ」
「なんだよ」
「楽しい」とあずさが手を叩いて喜ぶ。
その時、柱時計が鐘の音が鳴っていって、
十一時。
「(ケンが柱時計を見て)もうこんな時間だ」
「……」
ケンが立ち上がり、
「こんな遅くまで、非常識にごめんなさい」
「……」
「……楽しかった」
「……」
「雨もだいぶ小降りになったみたいだし……じゃあ」
「もう少しダメ?」
「……」
「今日はなるべく起きていたいんだ」
「……」
「……」
「……分かった。付き合うよ」
「ありがと」
「さっきまで外で凍えていたけど、ここはやっぱり暖かいしね」
「飲める人?」
「お酒?」
「そう」
「飲んだ事ない」
「チャレンジしてみない?」とあずさが微笑む。
部屋を照らすろうそくの明かり。
開けられたワインと飲みかけのそれぞれのグラス。
「飲めたね。っていうか、私より強いかも」
「病み付きになるかも」とケンがワインが入ったグラスを傾け、
「好きな食べ物は?」
「プリン」
「……一緒」
「何か嘘っぽい」
「バレた?」
「バレバレ」
「プリンも好きだけど、一番ではないかな」
「じゃあ、一番は?」
「焼き鳥」
あずさからすーっと笑みが消え、
「……」
「嫌い?」
「いや……」
「なんかまずかった?」
「……ごめん」
「……」
「一緒」
「……」
「パパと一緒」
「……」
「焼き鳥……パパも大好きだった」
「……そう」
「ごめんね……ふと思い出しちゃうとダメだね」
「分かるよ」
「……最後に会った時、喧嘩しちゃって……」
「……」
「それが今でも心残り」
「……」
「神様って残酷だよ」
「……」
「……どんな人だったの?」
「パパ?」
「(ケンが頷く)」
「いつも仕事、仕事って、忙しくしてた」
「……」
「それでいて、自分が余裕ある時に限って余計なおせっかいばかり焼くから、中学生になる頃はもうろくに口も聞かなくなってた」
「……」
「それまでは少なくとも年に三回はこのコテージに二人で来ていたのに、あからさまに私から避けるようになった」
「……」
「中学三年の時、ずっと片思いしてて、すごく大好きな人がいたんだ」
制服姿の生徒たちたちが中学校から下校していく。
中学校の校庭ではサッカー部や陸上部などが練習をしている。
校舎玄関の生徒が使用する下駄箱で辺りを伺う制服姿のあずさがいて、誰もいないのを確認して、さっと、ある下駄箱を開け、中に一通の手紙を入れる。
『生まれて初めて書いたラブレターだった』
あずさ、すぐにその場を離れ、少し離れた場所から様子を伺う。
「……」
あずさは自分の鼓動が激しくなるのが分かった。
「……」
あずさはまた、手紙を入れた下駄箱の前に戻る。
「……」
あずさが下駄箱を開ける。
「……」
あずさが下駄箱の中に手を伸ばそうとする。
「!」
その時、こちらに向かってくる生徒たちの声が聞こえてきて、
「(あずさは躊躇うも)」
あずさは手紙をそのままにして、その場を後にする。
夜になって神社の境内では制服姿のあずさがキョロキョロと辺りを見回す。
「午後七時……神社の境内で待ってます… …そういう感じの内容だったと思う」
あずさがスマホに目をやる。
八時三十分過ぎ。
「……」
あずさがその場を後にする。
制服姿のあずさが家に帰ってくる。
なかなかの豪邸だった。
リビングではあずさの父親の杉浦晋作が焼き鳥を肴にビールを飲んでいる。
玄関の扉が開く音がする。
「!」
晋作、玄関の方に目をやる。
あずさが二階へと階段を上がっていく。
晋作が階下から、
「お帰り。遅かったんじゃない?」
「(あずさは振り返らず)」
「ご飯は?」
あずさが立ち止まり、
「(晋作は見ずに)いらない」
「今日は早めに仕事が終わったからさ、あり合わせだけど、鍋にでもしようかと思ってさ……着替えたらおいでよ」
「(さっきより強めの口調で)いらない」
「きっと、温まる」
「(もうこの位で)いい?」
「……疲れてるのにごめん」
「……」
あずさが自分の部屋の中に入っていく。
「(晋作が切なく二階を見上げて)……」
キッチンのテーブルの上には鍋の材料が用意されてある。
晋作が冷蔵庫を開け、中から包みを取り出す。
「めちゃめちゃ高い肉を買ったのに」
その時、二階から大音量の音楽が聞こえてくる。
「……」
二階にあるあずさの部屋の表まで晋作が来て、
「……」
部屋の中から大音量の音楽が聞こえてきていて、
「……」
晋作が扉をノックしようとする。
「……」が、晋作、ノックをするのを止め、
「……」
晋作、一階へと降りていく。
部屋の中から聴こえてくる音楽が一曲終わり、一瞬の静寂。
その時、中からあずさが泣く声が聞こえてくる。
そして、また次の曲が流れていく。
晋作がソファに座りながら、
「……」
晋作がビールをあおるようにして飲む。
銀座などの華やいだ街並み。
街も人も、流れる音楽もクリスマスの華やいだ雰囲気。
一軒のブランドショップで、晋作が会計を済ませながら、
「とびきり上等に包装して貰えますか?」
家ではあずさが階段を上がってくる。
「……」
部屋の前に包装された箱が置かれてある。
「……」
あずさが箱を手に取る。
晋作が来て、
「会社の女子社員、全員集めてリサーチした」
「……」
「会社を立ち上げた頃から働いてくれてるお局様みたいな女子社員には、中学生には贅沢じゃないですかって言われたけど」
「……」
「あずさも来年は高校生だし、これからは子供じゃなく、一人の大人の女性として、扱っていかないと」
「……」
「応援してる」
「……」
「パパはあずさの笑顔が見たいんだ」
「……」
「あずさが居るから、パパは頑張れる」
「……」
「気に入ってくれるといいけど」
「……」
あずさ、箱を手に、部屋の中に入っていく。
「……」
コテージのリビングでは部屋の中をろうそくの明かりだけが照らしていて、あずさがグラスの中に残っていたワインを飲み干し、
「凄く気にしいで、私が寂しい時や落ち込んだ時はそっと寄り添って、すかさずフォローしてくれる人だった」と優しく横を見て、微笑む。
ほぼ暗闇の中。
テーブルなどの上に置かれた大きい箱。
箱の中から漏れる明かり。
宝箱を開けるように期待を持ってゆっくりとその箱を開けようとする幼い少女。
箱を開けた瞬間、箱の中に閉じ込められていた明かりが解き放たれる。
箱の中身を確認した少女はあずさで口元に笑みがこぼれる。
後ろには晋作が居て、
「めちゃめちゃ愛嬌のある顔してる」
「うん」
晋作、自分も太ってるのに、さらに太ってる顔を両手で表現して、
「すげえ、でぶってやがんの」
「パパみたい」
「パパはそんなに丸くない」
「そう?」と箱の中から取り出した豚のぬいぐるみと晋作の顔を見比べる。
「ママは天国から、いつでも、あずさの事を見てるはずから」
「決めた」
「?」
「ブータン」
「ブータン?」
「この子の名前」
「ブータン?」
「うん」
「良い名前だ」
「ブータンよろしく」とあずさが手こずりながらも、愛おしそうに、豚のぬいぐるみ、ブタンを抱える。
『ブータンは友達』
『ブータンは私の隣の席』
『ブータンも一緒にコテージに連れてく』
『パパ、汚い手でブータンを触らないで』
『ブータンも一緒だったら、一緒にお風呂に入ってあげてもいいよ』
『パパじゃなくて、将来、ブータンと結婚する』
『ブータン、今度の日曜日はパパが遊んでくれますように』
『ブータン、パパと仲直りが出来ますように』
『ブータン、明日のマラソン大会、一等が獲れますように』
『ブータン、バレンタインの手作りチョコがうまく出来ますように』
『ブータン……』
『ブータン……』
『ブータン……』
「!……ブータン」
夜半に雨は上がり、朝になって晴れ渡っていた。
とても清々しい高原の朝だった。
コテージのリビングのソファの上であずさが眠っている。
あずさには毛布が掛けられている。
あずさが目を覚まし、掛かっていた毛布を気にして、
「……」
あずさが起き上がり、さっと、辺りを見回す。
「……」
あずさが立ち上がり、傍らに置いてあったバッグの中から携帯電話を取り出し、電話をかけていく。
「(電話が繋がり)もしもし、美智子さん、あずさです。朝早くからごめんなさい。……一つ、聞きたい事があるの?リビングに置いてあったと思うんだけど、豚のぬいぐるみ知ってる?……そう。どこにありますか?……処分した?いつです?」と話していく。
「昨日?どこに?……あそこの集積所か……分かります。ありがと。朝早くからごめんなさい」と電話を切る。
「……」
あずさがさっと上着になるような物を手にして、後は着の身着のまま慌てて行こうとする。
「!」
あずさが立ち止まり、
「……」
あずさが振り返る。
テーブルの上に一枚の画用紙。
「……」
あずさが画用紙を見て、
「(表情が変わり)」
昨晩、コテージの地下室で、ケンが画用紙を開いて見てみる。
「……」
懐中電灯を手に、先を歩いていたあずさが、
「何?」
「何か変なチラシ。捨てとくよ」
ケンが画用紙を捨てるっていう感じではなく、大切そうに野球盤と共に持っていく。
朝になって、コテージのリビングのテーブルの上の飲みかけのワイン。
グラスは一つだけ。
「……」
あずさが画用紙をテーブルの上に置き、慌てて外に飛び出していく。
ゴミ集積所では山田尚哉とその同僚がたくさんゴミを手際良く回収していく。
「(回収が終わり)行こうか」と山田が同僚を促す。
山田と同僚が車に乗り込んでいく。
ゆっくりと車が走り出す。
同僚が運転をして、助手席に山田。
同僚がサイドミラーに目をやり、
「良いフォームしてる。マラソンですかね?」
山田も目をやり、
「マラソンっていう、格好じゃねえな」
山田の乗るゴミ集積車を必死に走って追いかけるあずさ。
「(息を切らしながら)お願い。待って」とあずさが呼びかける。
停まるゴミ集積車。
「やった」
ゴミ集積車から山田と同僚が降りてきて、山田が、
「どうかしました?」
「(息を切らして)ぬいぐるみ……」
「ぬいぐるみ?」
「豚の」
山田が両手で顔が真ん丸いのを表現して、
「こんなのけ?」
「はい」
「愛嬌たっぷりの」
「はい」
「残念だ」
「……」
「惜しい事をした」
「……間に合いませんでしたか?」
「あれ」と山田が同僚に促す。
同僚が車の中から豚のぬいぐるみを持ってきて、山田に渡し、
「これの事かい?」
あずさがホッとしたように、
「はい」
山田の同僚が、
「一度、廃棄されたものだし、あなたのだって証拠もない」
山田が、
「堅苦しい事、言わない」
「でも……」
「俺の不正がバレんべ」
あずさはきょとんとしていて、
「あまりに愛嬌のある顔してっから、雨に濡れて、汚れちまったけど、きれいに洗ってから、うちの坊主のおみやげにしようかと思ってさ」
「……」
「すごい肥満児で困ってる。小学生なのに60キロもあんだ」
「(あずさが苦笑いを浮かべて)」
「おかげでうちのエンゲル係数が高い、高い」
「……」
「相撲取りにでもなってくれたら儲けもんだけど、弱虫でそんな根性もねえ。家族で俺だけだよ。痩せてるの」
「……」
「うちの母ちゃんも昔は案外、すらっとして、あのなんだ、米倉涼子みてえだったのに」
同僚がすかさず、
「嘘だあ」とツッコミを入れる。
「昔はそうだったの」
あずさがある意味、山田の独壇場に少し、困った様子で、
「あの……それで」
「ごみを勝手に自分のものにしようとした事、役所には内緒にして貰えるよね?」
「はい」
「なら」とぬいぐるみをあずさに渡す。 「(受け取り)ありがとうございます」
「惜しい事をした。名前ももう決めてたんだ……ブー太郎。よくない?」
「ブータンです」
「ブータン?……さすがにセンスいいわ。じゃあ、仕事が残ってるで、ほんじゃ」と同僚と共に山田がゴミ集積車に乗り込んでいく。
「ありがとうございました」
山田が車の中から、
「大切なものなら、もう簡単に捨てたりしちゃダメだよ」
「はい……そうだ、もう車、通れるようになったんですか?」
「通れるも何もいつも通り」
「昨日の雨で山が決壊したって」
「決壊?いくらなんでも、昨日位の雨じゃ……そんなにやわじゃないよ。じゃあ」
山田が乗ったゴミ集積車が走っていく。
「……」
コテージのキッチンにあずさが来て、冷蔵庫の中からペットボトルに入ったミネラルウォーターを飲み、
「二日酔いなのに全力で走ったからクラクラする」
あずさがガスコンロの上の鍋の蓋を取る。
中にはビーフシチュー。
残りはもうほとんどない。
「……減ってる」
その時、玄関のチャイムの音がする。
「!」
あずさが期待を持って、玄関の方に慌てて行く。
「どこ、行ってたの?」とあずさが勢い良く玄関の扉を開ける。
「あっ」
玄関の外には美智子。
「おはようございます。早いとは思ったんですけど、今朝の電話が気になりまして」
「おはようございます。さっきは突然にごめんなさい」
「誰かをお待ちでした?」
「いや……」
「どうでした?あのぬいぐるみ」
「無事に見つかりました」とあずさがテーブルの上のブータンを指差す。
「それはよかった」
「立ち話もあれなんで、どうぞ」とあずさが美智子を招き入れる。
美智子、テーブルの上の豚のぬいぐるみを見て、
「勝手な事してすみません」
「いえ」
「……」
「パパに貰ったプレゼントだったから」
「それは……」
「でも、あんまり意識にはなかった」
「……」
「すごく薄情」
「……」
「このソファとか、あの柱時計、二階のクローゼットとか、地下室の漫画なんかは美智子さんに捨てないでって頼んだけど」
「はい」
「それと変わらない位、大切なはずなのに……正直、忘れていた」
「……」
「だから、昨日は……寂しいよ、忘れないでって、会いに来てくれたんだと思う」
美智子がテーブルの上の画用紙を手に取り、
「(画用紙を見て)前にお嬢様が描いたものじゃ……」
「……」
十ニ、三年前の事。
コテージの外の空き地で、あずさがキャンバスに向かい、絵を描いている。
「じっとしてて」
モデルは父親の晋作。
「ちょっと休憩を」
「ダメ」
「ちょっと一服」
「動くな。っていうか、いい加減、タバコは止めなさい」
「怖っ」と晋作が手に持った豚のぬいぐるみに話かける。
「ブータンはお利口さん」とあずさが絵を描いていく。
コテージのリビングでは、美智子が画用紙の裏側を見て、
「……お嬢様、これ」とあずさに画用紙の裏側を見せる。
「……」
「どういう意味でしょう?」
画用紙の裏側には、『柱時計の中』と書かれてある。
「開けてみましょう」
「そうですね」
あずさが柱時計の扉を開け、中を探っていく。
「何だ、これ?」とあずさが柱時計の中から、一通の封筒を取り出す。
「……」
あずさが封筒を開ける。
中から預金通帳が出てくる。
「通帳だ」
あずさが預金通帳の中を見ていく。
あずさ「一、十、百、千、万……三千万もある」
「そんなに……」
「毎月、こつこつと積み立ててある」
「……」
「嘘だ……」
「旦那様がよく仰っていました。絶対にこの柱時計だけは手放さないようにって」
「あんなに会社の資金繰りに困ってたのに」
「……」
「このお金を使えばよかったのに」
「……」
あずさの家のリビングでは、あずさと晋作がソファに座っていて、晋作が思い詰めた表情で、
「あのコテージを売りたい」
「どういう事?」
「会社の経営状態が思わしくないんだ」
「だから?」
「あのコテージを売って、当座の資金に充てたい」
「本気で言ってるの?」
「……」
「私にとってあそこだけなんだよ。ママとの思い出がある場所」
「……」
「それを私から奪い取る気?」
「いや……」
「勝手にすれば」
「……」
「私は絶対に反対だから」あずさがと席を立つ。
「あずさ……」と晋作はあずさを止められず。
晋作が天を仰いで。
コテージのリビングでは、晋作が一人、柱時計の前で、
「……」
晋作が柱時計の扉を開ける。
「……」
晋作が中に手を伸ばそうとするも、
「(思い止まり)」
晋作、棚の上に置かれたブータンに目をやる。
「(微笑んで)相変わらず愛嬌のある顔してんな」と柱時計の扉を閉める。
『きっと喉から手が取る程だったんだと思う。柱時計の中の事は誰も知らないのに』
棚の上のブータン。
『ありがとう……たくさんの愛情をありがとう』
コテージの脱衣所では風呂場からあずさと晋作の声が聞こえてくる。
「49、50」とあずさが区切りよく答えて。
「違う。100まで」と晋作の声。
「100?熱いよー。ブータン、何とかしてぇ」
「ほら、いつまでたっても出られないよ」
「51、52、53……」とさっきよりハイペースで数字を数えていくあずさ。
コテージのリビングでは小学生頃のあずさがソファに横になって、漫画本を見ている。
あずさはへそが出ている。
棚の上のブータン。
『何気ないけど、それでいて極上の幸せを当たり前だと思って、つれなく接した私をどうか許して……もしも、願いが一つだけ叶うとしたなら……』
コテージの空き地では、あずさがカメラのレンズなどの調整をしていて、
「美智子さん早く」
「私も宜しいんですか?」と美智子が来る。
「ママ」とあずさの母親の杉浦葉子が来て、
「はい、はい」
「パパは?」
コテージの中から晋作が来る。晋作の手にはブータン。
「ブータンを忘れてるぞ」
「忘れる訳ない。ほらみんな寄って」とあずさが写真の構図を決めていき、
「じゃあ、いくよ」とシャッターボタン(セルフタイマー)を押し、あずさも慌てて、皆の横に行く。
『もしも、願いが一つだけ叶うとしたなら……』
シャッターが切られ、ブータンを中心にしたみんなの笑顔の写真。
コテージ・リビングの テーブルの上に一枚の画用紙。
画用紙には『パパとブータン』と書かれてあり、晋作とブータンの似顔絵。
どっちがどっちだか区別がつかず。
柱時計の鐘が鳴っていって。
その隣には先程、みんなで撮った写真をたかもモチーフにしたような絵が飾られていた。
終わり