3-5.諦めるのはまだ早い
薄暗くなったホテルの部屋で、ハンネスは独りベッドに座ってうつむいていた。
サイドテーブルに置かれた瓶からビールをグラスに注ぎ、流し込む。そして大きなため息をつくと、左肩の辺りをさすった。
「……やっちまったなぁ」
失敗。その言葉が頭の中をグルグルと回る。
噂ではなく本物のノエルの姿を確認できたのは非常に大きな前進ではあるが、前に進みすぎて一気に崖下へと落ちていった気分だ。尾行対象にバレ、挙句の果てに一方的に倒されて逃げられるなんて、新人の時以来か。ハンネスはうなだれた。
もう、協力してもらうのは無理なんだろうか。
ハンネスは椅子に乱暴に掛けたジャケットから手帳を取り出すと、それに挟んでいた写真を取り出してじっと眺める。
写真に写っているのは愛すべき家族だ。妻と自分が仲睦まじそうに肩を組み、その間に立った娘が笑顔でハンネスの脚にしがみついている。彼が手に入れた幸せの肖像が、そこにはあった。
しばらく家族写真を眺めていたハンネスだったが、不意に立ち上がると部屋備え付けの電話へと向かった。そして慣れた手付きで淀みなく番号を押していく。
数回コール音が鳴る。特別待たされているわけではないのだが、その数回分の時間さえも今のハンネスには我慢しづらいほどに待ち遠しかった。そして、間を置かずして受話器から「ハロー?」と自分のよく知る声が聞こえてきて、ホッと息が漏れた。
「やあ、エルマ。元気かい?」
『もしもし、ハンネス? ハンネスなの? ええ、元気よ。そっちはどう? 頑張りすぎてない?』
妻からの気遣う声に、何故だろうか、少しだけ涙腺が緩みそうになる。目頭を軽く揉み解すと、腹に力を入れて湿っぽくなりそうな声を堪え、平静を装う。
「ああ、大丈夫、大丈夫だよ。元気にやってるよ」
『なら良かったわ。それで、今日はどこに出張してるのかしら?』
「ブリュワードのルーヴェンという街に滞在してる。大きな街でいいところだよ。来れば君もきっと気に入る」
『ルーヴェン! 名前だけは知ってるわ。素敵なところなのね。ぜひ一度行ってみたいわ。
それで、急に電話してきてどうしたの? 何かあった?』
「……いや、特には。ただ、仕事が終わって独りでいたら急に君とテューネの声が聞きたくなってさ」
実際に、妻と何気ない会話をしているとさっきまで色々と渦巻いていた良くない感情がすっと消えていっていた。そうした相手がいる。そのことがハンネスはひどく嬉しかった。
『ふふっ、私も声を聞きたかったところよ。あ、ちょっと待って。テューネに代わるわ』
『もしもし、パパ?』
受話器越しの声が、愛しい妻から今度は愛しい娘に変わった。嬉しそうな声がハンネスの耳に届き、彼の頬も自然とほころんでいった。
ハンネスはもう数ヶ月、家に帰っていない。ビジネスで世界を飛び回っていることになっている。テューネもまだ十歳。相当に寂しい想いをさせているはずだ。
テューネはいささか興奮した口調で他愛の無い話を父であるハンネスにしていく。学校での出来事、休日にエルマとどこそこへ遊びに行った、近くの道で可愛いネコを見つけたけど飼っていいか。
矢継ぎ早に語られるその内容の一つ一つにハンネスは丁寧に相槌を打ち、大げさに羨ましがり、笑い声を上げる。何気ない一言一言が楽しく感じた。だからこそ、娘の成長を間近で見られないことがひどく残念だった。
一抹の寂しさを覚えながら会話を交わしていると、次第にテューネの声が眠気を帯びてきて、やがて再び妻であるエルマの声になる。
『ほら、楽しいのは分かるけどもうお休みなさい……もしもし、ハンネス? ありがとう、仕事で疲れてるのにあの娘の話を聞いてくれて』
「とんでもない。電話でしかテューネとお話できないからね。ダメな父親の精一杯のできることさ。
それよりエルマ、少し聞きたいことがあるんだけど……エスト・ファジールとの状況はどうだい? ニュースで何か聞いてるかな?」
ハンネスが尋ねると、エルマは「そうね……」と少し考えながらリヴォラント国内で流れてくる情報を教え始めた。
エスト・ファジールから輸入される資源価格が上がり、それに伴って電気代や魔晶石代が上がっていること。エスト・ファジール側と会談を行っているが、識者の話ではあまり成果は得られていなさそうなこと。また、国境付近で小規模な戦闘が散発してるとの噂もあること。それらが語られるうちに、彼女の口調も不安気になっていった。
『ねぇ、ハンネス。大丈夫……よね? また戦争になったりしないわよね?』
「……ああ、もちろん」ハンネスは少しためらいながら口を開いた。「この国は複雑な国際社会をずっとうまく泳ぎ回って生き残ってきたんだ。だから国の偉い人たちを信じよう。大丈夫、ヴォルイーニ帝国みたいなことにはならないさ。心配しなくていい」
『そう……そうよね。ごめんなさい、変なこと聞いて』
殊更明るい口調で話すとエルマも少し安心したのか、声から硬さが取れてきた。不安を取り除けたことにハンネスも安堵し、気づかれないよう小さくため息を漏らした。
「気にしないでいいさ。こっちこそ変なこと聞いて不安にさせて悪かったね。
それじゃ明日も早いからもう寝るよ。君もゆっくり休んで」
『ええ、おやすみなさい。愛してるわ、ハンネス』
「僕も愛してるよ。おやすみ、エルマ」
受話器を静かに起き、彼は天井を仰いでベッドへ倒れ込んだ。
エルマは諜報とはまったく関係のない一般人だ。そんな彼女へもエスト・ファジールとの関係悪化のニュースが届いている。ということは、実際にはリヴォラントにとって相当に余裕が無くなってきていると考えていいだろう。
もちろんまだ軍事侵攻などといった戦争状態に到るまでは時間があるだろうし、国もうまく立ち回るだろう。だが、悠長にしていられる程ではない。時間切れは刻一刻と迫ってきている。
愛する妻と娘。なんとしても二人を守らなければ。そのための力を、リヴォラントは身に着けなければならない。
「諦めるのは……まだ早いか」
左腕を天井へと伸ばす。左肩が再び痛みを訴えたが、それを無視して彼は拳を握りしめた。体を起こしてテーブルに置いた拳銃、それから上着から取り出したナイフを軽く振るってみる。
「これじゃさすがに心細いな……明日は店巡りか」
必要な武器を、物資を買い揃える。それから二日ほど体の錆取りをしよう。
そして――ルーヴェンの迷宮に潜る。ハンネスは決意して、ナイフを持った左拳を見つめたのだった。
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